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EP02 ぷー太郎、異世界にて挑む

 ダンジョンと言って最初に思い浮かぶのは、一体何になるのだろうか。今時ならば、やはりゲームに於いて敵や宝箱などが配置されている敵のアジト的なものを連想するのだろうか。あるいは、梅田駅や新宿駅などを思い浮かべる人もいるかもしれない。


 原義としてはフランス語で天守を意味する言葉であり、城の最も堅牢な部分を指していた。更に歴史が進むと地下室や地下牢などに使用されるようになる。


 現代のファンタジーに於けるダンジョンの基盤になったのは、やはりギリシャ神話に登場するクレタ島の地下迷宮だろうか。そこにはクレタ島の王ミノスの妻であるパシパエが牡牛との間に産んだ子であるミノタウロスが幽閉されており、捧げられる生贄を喰らって生きていた。ミノタウロスの最期は英雄テセウスによって討たれるというものであり、これは地下迷宮のダンジョン、ミノタウロスという怪物、テセウスという踏破者の三点が揃っており、実にそれらしいのではないだろうか。まあ、現代的な価値観からものを語ってしまうと、被虐待児のミノタウロスくんを囲んでいじめているように映ってしまうが、現代文に区分される太宰や芥川ですら異なる価値観を持ち生きているのだから、遥か昔の古代人が如何なるものの考え方をしていたのかなど想像に余りある。それを言ってしまうと、価値観・思考プロセスなどは個々人にそれぞれ備わっている者であり、現代を生きる一人一人でさえも異なり、共有するものではないのだから、どう感じたところで栓無きことであるのだろう。


「さて、レフくんよ。お前が、何故に付いて来ているのについては、一旦、横に置いておくとしてだ。実際問題、ダンジョンやらなにやらかんやらって、どういったものなのさ。俺の知識では、こう……怪物の巣窟、的な? そんな認識なワケだけれど」


 俺の保証人を探すべくダンジョンへの入窟を決めた俺は、その後、尋問官のお姉さんことエマさん指導の元で入窟の申請書を提出したり、駆け出しの冒険者に貸し出される装備を着込んだりと一通りの準備を行い、ダンジョンへ足を踏み入れた。皆、普通の顔をして話しているものだから、おずおずと手を挙げて質問も出来ず、またそこで変な情報を知って俺自身の心が折れるのを危惧して訊かなかったのだが、今は、なぜか同行するレフと俺の二人きりであり恰好つける必要も無し。俺達が捕まった聖堂塔の裏に併設されていたよくある酒場ッ! って感じの冒険者ギルドから、四方に壁の無い簡素な造りのエレベーターで下り、既に逃げ場もない。


 そうして、俺はようやく常識問題に踏み込んだ。遅すぎるだろ、という顔をされたがこちらにも色々あるのだ。男の子故な。


「どこから話すべきなのか、あるいはどこを話さないべきなのかが難解な話になるね。社会基盤に食い込んでいるものを抜き出して答えれば質問の答えとしては成り立つのだろうけれど、しかし、それではお前の理解が期待出来ない。逆に言葉を尽くして語るのならばそれは過不足なく、万全の理解を期待出来るだろうが、同時に多岐に渡る変遷を経ることになるだろうさ。ライト、君の質問で主題として取り上げられたダンジョンだが、これは言わば森や海のように環境を指す言葉であり、正確にこれらを説明するのは至難を極める。――まず、質問の主題から答えるとしようかな。ダンジョンとは何か。これに関しては様々学問がある以上はこれと一つの定義付けをして語る訳にもいかないが、僕の得意で話すのであれば、オーバードが巣としたことで魔石が蓄積され、魔力が循環し続ける『生きた環境』と言ったところかな。人類の国はダンジョンの上に築かれ、内部の魔石はこの国じゃインフラを支える基盤エネルギーになっている。その中心にあるのがダンジョンで採掘される高い魔力を保有する鉱石・魔石だよ。この魔石というものは魔術式を流すことで内部魔力を消費して魔術を行使出来る性質を持っていてね、この技術は上で使われていた嘘を見抜く道具や、ここに降りるのに使った昇降機にも用いられている。まあ同時にその性質故に魔力を放出して空間の魔力濃度を高め、生物を変質させ、魔物を生む訳だ。魔物というのは高魔力下に晒された生き物に起こる突然変異でね、特徴としては魔力循環器系の異常肥大が挙げられるね。体表には魔石に近い角質があるから見分けるのは簡単でね、その大きさで大体の強さも察せるんだ、これが。魔力循環器系が強いってことは、ただでも強い野生動物が強靭になってね。だけれどね、本質は元になった動物と大きく変わらないから。縄張りを持ち、餌を求め、生き残ろうとする。そう変わらないさ。つまりここは、危険であると同時に、俺達の生活を支える資源地帯でもある。以上! ダンジョンの解説でした」


 楽しそうに語るものだから、止めはしなかったが。


「成る程、わからん」


「欠片の説明で理解されてたまるものかよ。これだから常識のない奴は困る」


「上でも薄々感じたけどさ……お前って、説明下手だよな。情報の取捨選択が出来てないって言うか、何と言うか。あ、ここ右ね」


「突き刺さったわ。胸から腰に掛けて」


 貫通したらしい。

 だが、事実の提示とは何時如何なる時代においても残酷さを持ち得るものだ。そこから逃れたとて好転する兆しはなく、受け入れる度量こそを必要とされる。


「あー……要は、鉱山的な場所なの? 魔石の。んで、そこには魔力を持った? 強まった? 野生動物が住み着いている、と」


「そそ。そゆこと~」


 平気でいうレフに、俺はどうにも呆れ返る。たったこれだけの情報開示を、どうしてあれだけの言葉を尽くして語るのか。確かに好きを語るのは楽しいが、情報を羅列したところで相手に伝えたい良さは伝わるまい。


 錬金術師……つまり技術屋の類いだとして、往々にしてそういうタイプは多くいる場所ではあるだろう。高校時代の友人であるメカ部の小森くんも、そんなタイプだったな。熱量があれば人心を動かすことは出来るが、それが好転的な運動をするか否定的な運動をするかは扱い方次第なのだから、自身の熱量をそのままぶつければ済む話でもなし。


「常識の有無よりもコミュ障の方が重大な欠陥に思えるがね。これ左」


「その話、僕に都合悪いからやめない?」言うや、ゆったりと腕を持ち上げて行く先を指差すレフに、俺も無意識の内に視線を動かされる。「ほぅら、噂をすれば魔物が出たぞぅ」


 指の先、道の向こうには頭部と顎に目を引く赤い鶏冠と肉垂を持ち、淡い黄色の嘴に全身を覆う赤褐色の羽毛。しかして眼球の後方より見慣れぬ角が一対。更に二メートル? 三メートルに届くだろうか、それ程の巨躯を誇る鶏の姿があった。


 ダチョウと言い眼前の鶏と言い、巨大な鳥類と言うのはなぜこれ程までに恐怖心を煽れるのだろうか。ぎょろりとした瞳に刺されると、身が竦む。


「魔鶏だ。そぅら、戦いたまえよ青少年。僕はハエも殺せぬ紳士でね」


「お前、ホントに何で一緒にいるんだよ!」


 言いながらも後方へ消えていくレフを尻目に、腰に吊るした剣を抜く。金属製の剣とてこの程度かなどと、竹刀と大して変わらぬ重量の剣を正眼に構える。


 当たり前の話ではあるが、巨大な鶏と剣で戦った経験は一度として無い。これがヴァージンだ。だからセオリーなんてものは知らないし、上手くやれるとも思っていない。もしかしたら俺の冒険の書はここで終わるのかもしれないが、そうしたらあの聖堂塔で目覚めてエマさんに「ああ、ライトさん。死んでしまうなんて、情けないですね」とでも言われるのだろうか。……その選択、考えなくもないが、やはり却下だ。


「中学体育の剣道の授業で【魔剣】のカンダタと呼ばれた剣、受けてみな」


「それはお前を指しているのか?」


 おどろおどろしい狂声を上げる魔鶏に、正直な話、怯みながらも突撃する。構えは腕を挙げて上段に直し、脇は絞め、剣道の授業を必死で思い出しながら身体を動かす。魔鶏は、鳥類特有の緩急の激しい動きで距離を詰めてくる。


 接近、嘴が俺の腹を目掛けて伸ばされた、その刹那に、腕を振り下ろす。生きた生物の肉というものは精肉とは違い、振り下ろした剣から手のひら、腕にかけて伝わった生々しい柔らかさと固さの混じり合った触感は、俺の心を不快感で埋め尽くすには充分であった。そして、振り下ろした剣の中程から折れたものだから、命を奪った不快感もさることながら借り物を破損させた衝撃に感情は行き場を失う。


「折れたァ⁉︎」


 咄嗟に出た言葉の真意が、剣身であるのか俺の心であるのかは諸説ある。


 言葉は便利な道具だが、また万能ではない。今の俺の複雑怪奇な心境をどのような言葉に落とし込んだところで過不足が存在し、また過不足のある記述を読んだ者は、その内で言葉を咀嚼するために過程で独自解釈・個人人格が持つエッセンスが盛り込まれる。心のあるがままを言葉には出来ず、また受け取り手によって解釈幅が生まれるために、俺の心は誰にもわからない。

 つまり、サイアクってだけの話だったりする。俺も大概だな。


「自分の力も制御出来ないのかよ、暴力の化身がよ」


「うるせーやぃ。……つか、どうするよ。借り物の剣壊しちゃったよ? これ、マズいよな?」


「マズいどうこう以前に何で一発で折れるのかな。それに、マズいどうこう以前に人からの借り物を壊すのは人としてどうかと思う。大切に使いなさいよ」


 幸い、あの一撃で魔鶏は頭蓋が割れたらしくぴくりとも動く様子はない。生きているのか死んでいるのかの判別なんてやり方がわからないので何とも言えないが、死んでて欲しいので死んでいることにしておこう。


「使おうとした矢先になんだよ! 例えるなら友人から借りたカセットテープを反転させようとしたら機械の中でテープぐちゃぐちゃになってた! みたいなっ⁉︎」


「意味がわからんよ」


「何だ、CD世代かい。若モンが」


「お前の要領を得ないボケはどうでもいいから、そら、匂い立つ香りに惹かれて他のが来る前に進むよ」


「酔っ払いのうわ言くらいのノリで流さないで……寂しいじゃん」


 一瞬の逡巡の末、折れたものは仕方がないと割り切って、邪魔になるだけの鉄剣は魔鶏の弔いとした。墓をイメージして刺してみたのだが、何だか死体を弄んでいる風にもなってしまったので傍らに寝かせ、戦士ニワトリここに死す、を演出してみる。


 まあ、悪くないのではなかろうか。形にはなったので、今、この一時は、ノエル・セントリアの救出にのみ心を割くとしよう。そう、人命が最優先だ。後悔などと、ウジウジ過去ばかりを見つめていたところで、この仄暗いダンジョンに心堕ちるのみだろうさ。大丈夫、大丈夫。きっと何とかなるし、許してもらえなかったら働いて返す的な言い分で仕事を紹介して貰えばいい。


「実際、ノエッさんの位置ってわかるの?」


「んー……こう、ここっ! てな感じにはわからんなぁ。でも、さっきからこう駄弁りながら、しれっと右左折してるじゃない? 選択に考えが挟まって来ないから、まあ、帰巣本能ってるんじゃないかな」


 最寄り駅で行きたいところに無思考でぽやっと行ける感じ、と例えたが、レフからは最早無視された。無視は、いけないと思う。


 その後も俺の直感を頼りに前進しながらも、武器を壊してしまった以上、魔物との接敵は避けて迂回を開拓しながらも直感的な理詰めで進んで行く。坑道のようなものなのだから仕方がないが、上下左右が岩肌に囲まれた中をやたらデカい生き物に怯えながら進むのは、なかなか精神的にくるものがあり、嫌な話だが、レフとの会話が無ければ発狂していたかもしれない。会話の中身など関係がなく、やれ酒に一番合うつまみは何だとか、色気と魅力の違いだとか、エマさんは美人であったがあまりモテなさそうだよな、等々、下世話な話題で精神を保つ工夫をする。


 そこそこに歩いた先、ふと耳に、滔々と流れる水の音を捉えた。直感か本能か、俺はどうにも疲労に重くなり始めた足取りを力を振り絞り軽やかに変え、駆ければ、左右に開けた広間に出て、岩間を水が流れていた。歩き疲れて、喉も渇き、心境としては諦めかけのメロスな俺は安全度外視で水に口をつけてたらふく飲み、借り物の水筒にも目一杯汲んだ。透き通り水底の巌も伺える透明度を誇るのだから、恐らく安全であろうと頭が考え出したのは、水を飲んで一息ついた辺りであった。


 冷水に心落ち着けば、狭窄となっていた視野も広くなる。直感か、あるいは俺の感覚器官が集めた情報によって導き出された結果であるのか、自分でもわからない何かを察知した俺は立ち上がり、水の流れに従い下流へと走った。レフが、どうした、と口に出して訊いたのは一度きりで、その後は何を言うでもなく、俺の直観に従い、後を追うのみとなる。


 流水のままに進んだ先、川幅が開けて開放的な空間に出る。床は一面に水が流れているものの、足首程も水深は無くなり、見れば小さな蟹が歩いていた。


 そんな場所で、少女が一人。烏の濡れ羽色の長髪は、長く腰の位置を超えているのではないだろうか。地面に足を崩して、蒼の双眸でキッと睨みを効かせている様子から充分に生気は感じられるし、精神的にも無事と見える。歳の頃は十七かそこらだろうか、妹と同じくらいだが、あれより随分美人になるだろう。


 元は整っていたであろう服装はボロボロで、しかしてそれでいて高価であったのだと物語る刺繍や作りは、高級品の高級品たるを雄弁に語り、ファッションに疎い俺が元はドレスの類いであったのだと察せられる。だが、ダンジョンにドレスなどと……おかしな話だろう。あるいは、某かの力を持ったドレスなのかもしれないが、わからないことを考えたところで致し方ない。


 まずは、駆け出す。そんな彼女がノエル・セントリアであるのは俺の直感が悠然と示しており、そんな彼女が眼前の大猪に膝を折っているのならば、俺を呼んだ責任を取らせるべく、救出以外の選択肢はない。


 武器はない。折ったというべきか、勝手に折れたというべきかは議論が分かれるところだが、取り敢えず、折れたので捨ててきたのだから。だが、人の最大の武器は知恵であり、別に特別な叡智を持っていない俺にとってはその次点に存在する器用な手脚を用いるとする。


 地面を蹴る。跳躍した身体は吸い寄せられるようにして大猪に接近して、右脚を前に出した中段蹴りは、大猪の肩部に衝突。五、六メートルはあろう巨大を同じだけ飛ばして、横たわった。


 左手足をついて着地し、大猪が起き上がらないを見届ける。まだ動くようであれば、今のように奇襲ではなく、正面切っての戦闘となる分こちらが不利だろう。などと考えながら緊張の中で見やるが、起き上がる様子はない。


 立ち上がり、何が起こったのかと目を瞬かせる彼女の前に立ち、視線を交差させる。彼女の渚を連想させる蒼の瞳と見つめ合うと、どうにも俺の心が惹き込まれるように錯覚させられる。


「神田来人、召喚に応じ参上した。問おう、貴女が俺のマスターか?」


 彼女がノエル・セントリアなのは俺の直感が証明しているが、念には念を入れて、自己紹介と確認をしておく。もし違っていたとしても、これ程の美人を易々あのような野獣にくれてやる必要も無し。憐れみ、罪悪の感情はあるが、俺とて俺の優先順位がある。可哀想だが、大猪は負けたのだ——俺主催のヒロインレースに。


 大丈夫、マインドリセット。困惑の色が張り付いた推定ノエル・セントリアとの間に流れる沈黙に、俺は根負けして、折角美少女を前に恋泥棒系のクールなナイトに仕上げた外面が速攻で剥がれた。


「えっと……ノエル・セントリアさん……で、合ってますよね?」


 俺の質問に、彼女の表情は困惑から疑惑に変わる。

 助けたのにも関わらずこのような態度を取るのはあまり感心しないが、既に俺の精神衛生を侵食し始めているこの洞窟内に十日以上もいれば、皆一様にこうなるのかもしれない。


「はい、間違いありません。私がセントリア家長女、ノエル・セントリアです」


「あ、そうなんですねー。わたくしですね、召喚獣人材派遣センターから参りました神田、と申します。あの失礼ですが、少し前にですね、召喚獣の召喚などは行いませんでしたかね?」


「え? あ、はい。確かに行いました……え?」疑惑は再び困惑に変わる。「そんな……いえ、しかし、確かにこれは私の魔力痕で……」


「俺のこと、認知してくれないんですか?」


 きゅるん、と口で言いながら捨てられた子犬を意識して口にしてみれば、背後から「これは酷い」と非難の声が挙げられた。事実、第三者視点で見れば俺自身も笑い転げるか目を潰すかの二つに一つであろうことは頭ではわかっていたが、思い付いた以上、やりたくなってしまう。


 困惑の末、頭を抱え出したノエルさんはか細く「この話は、戻ってからでお願いします」と提案し、俺も確かにその通りだと思い至り、帰り道がわからなかった。水の流れを遡れば水をがぶ飲みしたところまでは戻れるだろうが、そこから先は不明。俺はノエルさんの蜜に誘われて飛んで来ただけで、巣への帰り道を知り得ないミツバチという訳だ。笑っちゃうね、笑えねぇよ。


「案内お願いします。アレが来る前に」


 周囲を警戒する様子を見せながらも俺に案内を求めるノエルさんは、既に困惑も疑惑も振り去り、力の籠った瞳に色素の薄い儚さを感じさせる肌、微かに紅潮した頬は俺の先の活躍に惚れたのならば最高だが、普通に考えて一人でこのような魑魅魍魎闊歩する場所に取り残されながらも生き延びて、ようやく他の人に会えたことで疲労が露わになっているのだろう。彼女をイチ早く家に帰して、俺もイチ早く家に帰る。俺の家族からして心配はしていないだろうが、帰らなければ大学の出席率がヤバい。


「あちらの彼も、その、私が喚んだのでしょうか」


「ええ、僕と彼は二人で一人の召喚獣ですので」


 地獄耳で俺と彼女のやり取りを盗み聴きしていたレフが、唐突に話に割り込んでくる。


「ああ、いえ、あれは何か付いて来てるだけの浮浪者です」


「成る程。……成る程?」


 最早、現状を一から十まで説明せずに理解しようなどと、不可能な話だろうに。現飼い主は真面目と見える。


「やーい、浮浪者。帰り道わかる?」


「何だい、酔っ払い。わかるんだな、これが」


 わっはっは、とひと笑いした後に、双方手が出た。互いの拳がお互いの頬に直撃する刹那、俺の頸の辺りが、突然、落雷にでも打たれる直前みたくぴりぴりとひりついて、俺の背後、流水の更に下流へ向けてバッと頭を捻り視線を合わせる。停止しなかったレフの拳が頬に直撃するが、奴の細腕から放たれた拳など、ゴムボールが当たった程度の軽いものであった。


 滔々と流れる清水の中に、ぴちゃりぴちゃりと流れに逆らう音がする。じっと、目を凝らして下流を眺めると、ゆっくりとではあるが確実に、何か、先の大猪を越える巨大な影が近付いてくる。


「もう……」俺の反応に同じく下流へと視線を向けたノエルさんは、その影を見るや苦々しく呟いた。「ずっとです。ダンジョンで目を醒まして以降、ずっとアレは私を追ってきます。私も召喚術師の端くれですが、私の召喚獣は戦闘向きではありませんので、彼らの力を借りて逃げ回っていたんです。ですが、追われている間にも他の魔物は現れるもので、今、私の手持ちの召喚獣は全て破壊されて、療養中です」


「成る程。それで、新しいのを召喚しようとして……って訳ですか」


「はい。ですが、逃げましょう。帰り道がわかるのであれば、逃げた方がリスクは少ないかと」


 提案しながらも上流へ向き直り、歩を進めようとするノエルさんであったが、その足は一歩前に踏み出されることなく止まった。


「そりゃ、無理だと思うな。だって、上にもいる」


 レフの言葉に下流の個体から視線を外し、上流に向けてみれば、そこには「うわーぉ」ドラゴンがいた。大きさは十メートルそこそこ、顔は平たく目の周りが三角に迫り上がっている。頭と胴の間には太く短いヒゲのような棘が無数に生えており、太い胴の側面にまで続いている。翼は見えない。手足が短く這いつくばるような姿勢で、よく想像する竜というよりもトカゲ感が強いけれど、迫力の程はというか、目がしっかりと開かれているにも関わらず睨まれているように思える重圧を感じる。


 それが前後に。挟まれている。

 隙を作れるか? 少なくとも上流のヤツだけでもどうにか出来れば、逃げることは可能だろう。だが、先の大猪のように上手くいくだろうか。あれは奇襲という点が大きいように思う。いやさ、やれるやれないなど考えたところでどうしようもない。今、この場で戦えるのは俺だけなのだから、やる他に道はない。


 深呼吸。鼻から息を大きく吸って、ゆっくりと意識して口から息を吐き出す。


「やるの?」


 何気ない会話くらいの気持ちで訊いてくるレフに、俺は、やれるとは言えない、と返す。だが、やるしかないのならば、やるしかないのだ。

 覚悟はない。俺以外に誰かやってくれるならば、喜んで役を譲ろう。カッコ悪くたって、逃げ出したい。でも、俺一人で逃げて後ろの二人が帰ってこなかったら、きっと、俺は自分で自分が嫌いになる。鶏の時も、猪の時も、生きている生き物に暴力を振るうのは最悪の気分だった。妙に柔らかくて、不思議に固い身体は、殴ったり蹴ったりする俺に生きているって伝えてくるから。


 でも、だけれども。


「大丈夫」


 狙うは上流の個体だ。上流への道さえ切り開ければ、最低限、帰路の確保が出来る。


 ドラゴンとの戦闘経験なんて、ゲームの中くらいしかないけれど、あの手の生き物は大抵正面からの攻撃は出来ても側面は無防備なことが多い。最低限、攻撃を受けない横腹を攻めるべく接近しながらも側面に回り込み、地を蹴り、跳ぶ。右膝を突き出して横腹に一撃入れるものの、刹那、中空に取り残された身体を強い衝撃が襲い、俺が自分自身を見つけた時には眼前にレフとノエルさんがいた。


「やはり……」


 目を細め、悠然と接近する二匹のドラゴン。上流の個体が身を翻してこちらへ方向転換しているところを見るに、どうやら、長ったらしい尾でしばかれたらしい。


 ああ、無情。全身が痛い。その中でも背中がもの凄く痛い。じんわりと血が滲んでいて、服の中が気持ち悪い。何だか、段々イライラしてきた。何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだろうか、俺が何をしたというんだ。どちらかと言えば何もしていなかった方なのに、理不尽だ、不条理だ、不公平だ。今に始まったことではないと言えども、不均一な幸福と不幸にむかっ腹が立ってきた。


「ノエル嬢。召喚術を使える程の手練れなのだから、洗礼は学んでいるでしょ?」


「えぇ、はい」


 地面に手を付いて、一息に身を起こす。じんじんと痛むけれど、動くだけで痛いって風じゃない。ドラゴンというのは、あれで中身スカスカなのだろうか。超絶痛いだけで、それ以上はない。あるいは、俺の脳が痛みに耐え切れなくて脳内麻薬でオーバードーズを起こしているだけかもしれないが、もしもそうなっていたとて、痛みで蹲って立てなくなるよりもずっと良い。


「動かない方が」と、今し方会ったばかりというに心配の声を掛けてくれるノエルさんに、大丈夫、とどうか安心して欲しい一心で声を掛ける。どうか不安に思わないで欲しい。例え今その時不幸であったとしても、立ち止まらない限りは楽しいことがやってくるのだから。酒だって良い。苦しい時に、もう嫌って立ち上がれなくなりそうならば「これが終わったら焼肉の食べ放題に行くんだ」とか、そんな未来の幸福を思い描いて耐えれば、結構何とかなるものだ。


 大丈夫、心はまだ七割元気。


「ライト」俺を呼ぶ声に、反射的にレフの方へ振り返る。「お前の馬鹿力は最早証明されたも同然だけれど、ワンチャンス思い付いたって言ったら、試してみる?」


「それやって、かっこいいならやってやらァよ」


「かっこいいに決まってるでしょ」


 さも当然、と返すレフの姿にどうしても苦笑してしまう。


「彼の魔力循環器系は今、完全に閉じた状態にある。開けてくれ」


「ここで、ですか? 危険ではないでしょうか。これ程に濃度の濃い場所で、初めてなんて」


「大丈夫、だろう? ライト。最悪、コイツが死んだらその死体を餌にしてとんずらすればいい」


「おい!」


 最悪な提案に、つい現状を忘れてツッコんでしまう。


「だから、かっこ付けてこ。決められなかったら、ダッサイよ」


「そりゃ、最悪だ。……ノエルさん、お願いします」


「では、背中をこちらに」


 膝を折り、ノエルさんの前で腰を下ろした俺に、最後に一言「ちょっとくすぐったいですよ」とだけ忠告をして、背中に手が置かれる。小さな手は、女性故か年齢故か。二歳しか変わらないのに何を上から目線で、と思われるかもしれないが、それでも、小さな手だと思ったのだ。


 ゾワッと脊髄沿いに鳥肌が立つ感覚の次に、全身が熱を帯びる。普段使っていない筋肉が急に活性化したような、異物感と得も言えぬ感覚が足先から頭の天辺まで突き抜けて、同時に自分の身体がどういう仕組みなのかを瞬時に理解する。感覚は変わらないが、明確に、今まで使っていなかった器官がそこにあるのがわかる。例えるならば、違和感なく目が増えたみたいな、そんな感じ。


 脚を肩幅に開き、意識を集中させる。全身に流れる血液とは別の何かを、右足に溜めるイメージで。創作物に於いて、魔法や異能などは想像力に起因すると表されることが多い。この世界でもそのロジックが通用するのかなど、知りはしないが、それでも、今、俺の脳内で完成したのは紛れもなく最強の自分像である。


 最早、眼前に迫る上流からのドラゴン。臆する必要はない、俺は今、最強の俺の夢を見ているのだから。


 左足を起点に腰を捻り、右脚を高く持ち上げる。這いずる形で動くドラゴンの鼻先を切り裂く形で振り抜かれた蹴りは、接撃の瞬間に大量の魔力をドラゴンに流し込み、自らの許容量を超えて流し込まれた魔力に耐え切れず、ドラゴンはその全身を魔石と化して砕け散る。


 異形の脚——黒曜石のような自然でありながらもどこか害意を感じる黒色に染まった脚は、鋭利で歪曲した爪の生えた四指に加えて一対の狼爪からなり、細身でありながらも引き締まっている。脛や腿には上向きの逆鱗が生え揃っており、これは、先に砕け散ったドラゴンの最後の姿と同じく魔石なのだろう。


 今の蹴りで、右脚は酷く疲れた。恐らく、魔力を込めた蹴りはそれぞれの脚で一度切りが限界だろう。


 下流のドラゴンが、突っ込んでくる。単純な質量攻撃は、巨体を活かした最高の攻撃と言える。だが、同時にしてこのドラゴンの目的が食事ではなく俺達の排除にあるとも語っている。


 ずっと追われている、とノエルさんは語っていた。食事でないのならば、縄張りへの侵入だろうか? いや、縄張りを守っているのだとしたら、一人に固執しない筈だ。それに、もうすぐに二週間が経過するにも関わらずノエルさんが移動しないとも考えられない。それ程に広大な縄張りを持つ? いやさ、今、この考えは不要か。


 両手を開き、左脚を前に出して腰を落とす。先と同じ容量で左足に魔力を込めて、およその距離を測り、駆ける。


 右足で地面を蹴り、身を浮かせて突き出した左脚は力強くドラゴンを蹴り、十メートルはあろう巨体が二メートルは後退する。同時、注ぎ込まれた魔力が肉体限界を超えたことで魔力循環器系から筋肉に流れ込み、全身を魔石化。右の手と膝を付いて着地をすると同時に、破砕した。


 勝利に酔いしれることは出来ない。全身が怠い。息をするのが苦しくて、肩で息をしなければ上手く呼吸が出来ない。全身の、特に脚の筋肉が焼けたフライパンみたいに熱くて、耐え切れない。


 でも、これで安全だ。

 もう、大丈夫なのだと思った瞬間、視界がぷつんと黒に染まった。

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