【2.5】ある日の雪降る森で
暗い森の中、灰色の冬空の広がる季節に、小さな子供が必死に走っていた。 服はあちこち破け、体は泥だらけで、至る所を擦りむいている。 何回も転んでは立ち上がって、そして、また走っているのだ。
どれだけ走ったのだろうか、彼自身もう覚えていない。 いくら走っても鬱蒼とした木々が辺りに生い茂り、今もここから抜け出せない。 獣に追われ、休むこともままならず、ただただ逃げるしかなかった。
大陸の南に広がる森林地帯、それを大森林と皆が言う。 もう四年もここに暮らしていたのだ、この森の恐ろしさを、十分に分かっているつもりだった……。
それでも、もう村には戻れない。 何もなかった事にして、今まで通りに村に居ることは出来なかった。 自分を拾ってくれたアルティス家には、面倒を見てくれた姉にも感謝している。
それでも、思い出してしまった以上は、もう耐えられなかった……。
「はぁ、はぁ、くっそ。 優羽……ユウ……俺はどっちな……」
ぽろっと口から溢れた言葉は、もう最後までまとまらない。 上手く口が回らないのだ、疲れているのか、それとも記憶が、言葉が混ざっているのだろうか。 体の動きもおかしい、大きかった体と、今では小学生くらいの体格なのだ、二つの感覚が混ざっている。
「何でだよ、何なんだよ……」
その言葉を最後に、その子は力尽きたかの様に倒れ込んでしまった。 灰色の空は一段と濃くなり、すると、パラパラと冷たい雪を降らせてくるのだ。
一度崩れた天気は、もう持ち直すことはなかった。 次第に強くなっていく雪の中、彼は少しずつ真っ白い絨毯に埋もれていった。 もう指先一つ動かせないのだろうか、目を閉じ、ピクリとも動く気配はなかった。
そんな雪の中、その近くを一人の男が通りかかっていた。 唐傘をさして、まるで坊主の様な袈裟を着込んだ、年老いた男だった。 だが、不運なことに、男の目線は倒れた子に向いていない、気が付いていない様子だった。
だが、一度通り過ぎた男は、何故か戻って来るのだ。 そして、雪に埋もれた子供を見つけて、ふと笑った。
「あぁ、お前からは臭いがするな……。 お前も、同じ穴のムジナか」
そう一言だけ、男は枯れた声で話しかけると、ひょいと子供を抱えていった。 そして、また雪の中を歩いていくのだった。
パチパチと何かがはじける音、そして、僅かな温もりに子供は目を覚ました。 目の前には、火が付いた木がくべられた四角い……。 何だったか、それは……囲炉裏だった。
その瞬間はっと目を覚まし、その子は起き上がろうとするが、体中に痛みが走り悶絶した。 ひとしきり唸り声を上げて転がると、しばらく動くのを止めて、その後ゆっくり体の感覚を取り戻していく。
ここは、どこなのか、さっきまで森の中を走っていたはずなのに。 辺りを見ると、木造の建物だった、それも古い造りの時代劇?に出てくる様な家だった。
「おい、起きたか坊主?」
驚いて声の方向を見ると、一人の老人が囲炉裏の前で座っていた。 先ほどまで同じ場所に居たのだろうか、まったく気が付かなかった。
「どうした、名は何と言う?」
「あっ……。 なっ、なまえっ……」
老人は目を細めて、手に持っていた煙管をトンと叩いて、囲炉裏に灰を落とした。
「止めておけ、その体はこの世界のモノだ。 過去の記憶に引きずられても、頭がおかしくなるだけだぞ。 話が出来るなら、この世界の言葉で話してみるといい」
「あっ、お、俺は……。 ユウ、ユウだっ……」
「はっはっは、ちゃんと話せるじゃないか、それでいい。 わしの名はキョウラクと言う、隠居暮らしの老いぼれだ」
そう笑った彼の顔は、まるで時代劇の役者の様だった。 年はいくつなのだろうか、白髪を後ろにまとめ、顔に刻まれたシワには相当年季が入っている。
「ここっ、ここは、どこなんだ? あんた、一体……」
キョウラクはユウに目もくれず煙管に葉を摘めると、囲炉裏から小さな小枝を一つ摘まんで火をつけた。 ふわっと白い煙が彼の口元から吐き出されると、ユウの所にも僅かな香の様な臭いが届いてくるのだった。
「言っただろうに、ただの老いぼれだとも……。 まぁ、お前さんと似たようなものだ。 それよりも、今は寝ておけ、普通の人間よりは丈夫に出来ているが、今は心が軋んでいるのだろう?」
そう言って、また彼は煙を吐き出した。
「どれだけ体が頑丈でも、心や魂は過去に引きずられているのだよ……。 お前みたいな成り立ては初めて見たが、まぁ酷いもんだろうなぁ……。 わしもそうだった……」
彼の言葉がユウの心に刺さるのだ、それは、とても深く。 ただただ、胸の奥が痛い、体の痛みではない心の痛みがユウを蝕んでいる。 息が詰まるような苦しさに、ユウの目からは涙が溢れていった……。
「母さん……。 ごめんなさい……助けてあげられなくて……」
そして、ユウの意識は深く暗い場所に、すっと落ちていくのだった。 そんな彼をキョウラクは見つめていた、囲炉裏の火がユラユラと揺れて、二人を淡く照らしている。
外はまだ雪が降っている、建屋の隙間からも冷たい風が吹き込んでくるのだ。 それでも、その囲炉裏の熱は、今のユウを暖めるには十分だった。
「それが、お前の後悔か……。 ならなぁ、わしの様な悪魔には、なってくれるなよ……」
そう言って、彼は煙を吐き出した。 その煙は、ゆっくりと昇っていき、屋根裏の柱の向こうに消えていった。




