【2.5】彼女の母性
その日、その事件は、その一言から始まった。
「マリーアお姉様? その……。 お聞きしたいことがあるのですが?」
「どうしたの、アリス?」
深刻そうな表情をしたアリスに、マリーアは優しい微笑みを浮かべて、そう答えたのだが。
「えっと、男の人は女性の胸が好きなのでしょうか?」
その突然の質問に、マリーアは瞬く間に凍り付いてしまったのだった……。
「お姉様? お姉様?」
動かなくなってしまったマリーアを心配そうに気遣うアリスだったが、するとガバッと両肩を強く掴まれる。
「アッ、アリス、あなた一体どうしたの?」
「えっ、えっと、少し気になりまして……」
「どうして、その理由を言いなさい!」
「お姉様、えっと、気になっただけです。 本当に、ちょっと気になっただけですから……」
泣きそうになるアリスを見て、ハッと我に返ったマリーアは息を落ち着かせると、ゆっくりと諭すように言うのだった。
「そうね、アリスも、年頃の女の子よね。 ええ、私も直接聞いてみた事はないけれども、好きだと思うわ。 私の持っている小説にもっ……」
「もっ?」
「ゴホン、ゴホン、言い間違えたは。 私の持っている文献にも、様々な事が書かれているけれど、大概はその傾向にあると」
「流石ですお姉様! そうなんですか……。 やっぱり……」
アリスはマリーアの言葉に少しうつむくと、何やら深刻そうな顔をして黙ってしまう、そしてマリーアの元から立ち去って行くのだった。
そんなアリスを見つめ、マリーアはある種の罪悪感を感じながらも、それ以上は声をかけられないのであった……。
アリスはトボトボと王城内を一人歩いていた。もしかすると私は、久しぶりにあった彼に酷いことをしたのではないかと、罪悪感を感じていたのだった。
あの時、あんな事を言われて、何故か大変恥ずかしい気がしたのだ。顔が恥ずかしさで熱くなり、心臓の鼓動も早くなった、だが、それも夏の暑さが原因だったのかもしれない。
そう拗らせていた……。
アリスは生まれてから今まで、ほとんどの時間を王城で過ごしていた。様々な教育をされて来たが、男女の機微に関する教育などは受けていない。
誰か異性と会話をする事があっても、その境遇からか遠慮がちに相手をされるだけだった。だからこそ、あの日、騎士学校の裏庭で出会った彼の態度に、無自覚な好意を向けてしまっていたのだが。
当の本人には、その自覚がなかったのだった。
アリスは自分の部屋へ戻ろうとしていると、前方に新しい気配を感じた。それは、滅多に会うことがない彼女の兄の気配だった。
気がついたアリスは駆け出していた、そうだ、お兄様なら詳しいことを知っているかもしれないと思ったのだ。
「ウィリアムお兄様、お兄様、待ってください!」
息を切らして駆け寄ってくるアリスに、ウィリアムが気がつくと、パッと笑顔を咲かせて答える。
「やぁ、アリス。 久しぶりだね、元気にしていたかい?」
「はい、元気です、アリスは元気です。 お久しぶりでございます、お兄様もお加減は如何ですか?」
「あぁ、元気だよ。 何よりもアリスに会えたんだ、疲れなんて吹っ飛んでしまうよ」
そうウィリアムは笑顔で可愛い妹を見つめたのだった。いつもは陛下に代わり領地を回っているため、ほとんど王城には住んでいないが、今年は祭りのために帰ってくることが出来たのだった。
残り少ない妹との時間を大切にしたい、そう心に強く思っていたのだが。
「お兄様、お聞きしたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」
「何かな、アリス。 僕に答えられる事なら、何でも答えてあげよう」
年の離れた妹の頼みだ、断る理由などない、がしかし。
「あの、男の人は女性の胸が好きなのでしょうか?」
またもや繰り出されるアリスの質問に、今度はウィリアムが凍り付く……。
「急にどうしたんだい……。 アリス?」
「先ほどマリーアお姉様にも聞いたのですが、お姉様がお持ちの文献にもそう書いてあると。 ですから、男性のお兄様にも聞いてみようと思ったのですが……」
「なっ、なるほど、書物ねえ……」
どことなく怒っている様に聞こえるウィリアムの声に、アリスは困惑していたのだが。
「そうだね、アリス。 赤ん坊は乳を飲むだろう、人は自然と懐かしさを感じるんだよ。 だから、懐かしいと言う気持ちが、きっと好きと言う気持ちに近いのかもしれないかな」
ウィリアムは、そう大人の回答をする。その言葉に、アリスの表情はパッと明るくなった。
「そうなんですね、流石お兄様は博識です! ありがとうございました」
そう言って、アリスは一礼すると、そのままパタパタと帰って行った。
「マリーアァ、アリスに何てことを吹き込んでいるんだ!」
アリスの後ろ姿を見送ったウィリアムは、そして、少し声を低くして唸るのだった。
アリスは部屋に戻ると一人思案していた。
少し前から彼の様子がおかしかった。以前と比べてぼーっとしている事が多くなった、何か落ち込んでいるような、そんな気がしていたのだった。
アリスはどちらか言うと、その境遇から感は良い方だった。だが、今回はその原因に思い当たるほど、アリスは彼の事を知らなかったのだ。
次の日の朝、アリスはいつもの様に騎士学校に行った。
そして、いつもの様に彼を見つけると、無邪気にこう言ったのだった。
「あの、母の胸が恋しいなら、いつでも私の胸を触っても良いですよ!」
そう満面の笑みで、彼に伝えたのだが。
しばらく沈黙を続けた彼は、一呼吸置くと、凄く怒ってしまったのだった。
でも、怒った後で彼は笑っていた、そんな彼の声を聞いて、アリスは少しホッとしたのだった。
そして、それが、凄く嬉しかった。
その後、いつもの様にアリスは馬車に帰ってきたが。
何かあったのだろうか、今朝はマリーアお姉様も元気がなかった。
アリスは気がつくはずもなかった。
王城の裏手からモクモクと昇っている細い一筋の煙を、馬車に揺られながらマリーアは、ただ黙って見つめていたのだった……。




