第九話 灯し縫い
図案の名前は、『灯し縫い』といった。
祖母の字で、隅にそう書いてある。形は、単純だった。守り縫いの星でも鳥でもなく、小さな炎のような、しずく形の模様を、肌着の胸元に、ぐるりと輪にして縫う。
ただし、糸に撚り込むのは、魔力ではない。
縫い手自身の、体の熱。
『己の熱を分ける覚悟をせよ』
覚悟、と言われても、どれくらいの熱なのか書いていない。祖母はいつもそうだった。「だいたい」とか「いい感じに」とか、肝心なところが大ざっぱな人だった。
「……やってみます」
トビくんの肌着を借りて、作業台代わりの寝台の端に広げた。
針に、白い木綿の糸を通す。
ひと針目を、布に入れる。
指先が、ふっと温かくなった。
いや、違う。指先から、温かいものが、糸を伝って、布の方へ流れていく。
ふた針目。三針目。
しずく形をひとつ縫い終わるころには、指先が少しだけ冷たくなっていた。
輪になるまで、しずくは十二。
十二個を縫い終えたとき、私の手は、さっき王妃陛下の応接間で逆さ縫いに触ったときと、同じくらい冷たくなっていた。
「……トビくん。これを、着て」
騎士のひとりに手伝ってもらって、肌着を着せる。
しばらくは、何も起きなかった。
それから、トビくんの紫色の唇に、ほんの少しずつ、赤みが戻ってきた。
かちかち鳴っていた歯が、静かになった。
「……あったかい」
トビくんが、目を閉じたまま、つぶやいた。
「なんか、胸のとこだけ、焚き火の前にいるみたい……」
部屋の入り口で、誰かが大きく息を吐いた。
効いた。
私は、次の寝台へ移った。
二人目は、ヨハンという、トビくんと同い年の子。
三人目は、フリッツという、少し年上の、背の低い子。
三人目の輪の、十個目のしずくを縫っているとき、針が指から滑り落ちた。
拾おうとして、手が動かないことに気がついた。
指が、白い。
手首まで、感覚がない。
あれ、と思った瞬間、視界がゆっくり傾いた。
床が近づいてくる。
その前に、誰かの腕が、私を受け止めた。
「――やめろ」
低い声が、頭の上から降ってきた。
目を開けると、団長様の顔が、すぐ近くにあった。
灰色の目が、怖いくらいに、まっすぐ私を見ていた。
「もう、やめろ。三人で十分だ」
「でも、まだ、八人……」
「やめろと言っている」
団長様の声は、怒っていた。
はっきりと、怒っていた。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
……ああ、そうか。
勝手なことをしたから。騎士団の新兵に、得体の知れない縫い物を着せたから。これで悪化していたら、どうするつもりだったのかと。
「……すみません」
「謝るな」
「勝手なことを、しました」
「違う、そういうことでは――」
団長様は、何か言いかけて、口を閉じた。
眉間に、深いしわが寄る。
それから、もう一度口を開いて、
「あなたが、倒れたら」
そこで、止まった。
続きは、なかった。
団長様は、私を抱えたまま立ち上がり、黙って大部屋を出た。
廊下で、マーサさんとすれ違った。マーサさんが何か言いかけたけれど、団長様は足を止めなかった。
被服室の、布の山の隣に置かれた古い長椅子に、私はそっと下ろされた。
毛布が、かけられる。二枚。三枚。
「寝ていろ」
それだけ言って、団長様は出ていった。
扉が閉まる。
私は、毛布にくるまったまま、天井を見上げていた。
怒らせた。
あの人を、怒らせてしまった。
倒れたら、何なのだろう。倒れたら、迷惑だ? 倒れたら、被服室の仕事が滞る?
わからない。
わからないまま、冷えきった体が、毛布の中で少しずつ温まっていき、私は、いつの間にか眠っていた。
目が覚めたのは、夜明け前だった。
被服室の窓が、うっすらと青い。
そして、部屋の中に、灯りがついていた。
作業台のまわりに、人がいる。
ぼんやりした頭で、数える。
ブロムさん。
マーサさん。
洗濯場の、リーザさんと、ハンナさんと、名前を知らない若い人が二人。
それから――
作業台のいちばん端に、黒い軍装の大きな背中が、窮屈そうに丸まっていた。
全員が、針を持っていた。
作業台の上の壁に、紙が一枚、ピンで留めてある。
祖母の、灯し縫いの図案だ。その横に、誰かの下手な字で、書き込みがしてある。
『しずく十二個。ひと針ずつ、ゆっくり。熱を分けるつもりで。一人で一着縫うと倒れるので、三人で一着。途中で交代』
「……何、してるんですか」
かすれた声で言うと、全員が、一斉に振り返った。
「お、起きたかい、お嬢ちゃん」
マーサさんが、にかっと笑った。目の下に、隈がある。
「あんたが寝てる間にね、あたしらでやってみたんだよ。あの紙見ながら。そしたら、あんた、なんとかなるもんだねえ。洗濯場の女ってのは、指先だけは頑丈なんだ」
「新兵の熱は、残り八人のうち六人、下がった」
ブロムさんが、ぶっきらぼうに言った。
その左手の人差し指と中指に、真新しい包帯が巻いてある。
「ブロムさん、指……」
「六回目だ。黙っとけ」
作業台の端で、黒い背中が、ぴくりと動いた。
団長様が、ゆっくりと振り返った。
その手には、縫いかけの、白い肌着。
しずくの模様は、ひとつめだけが、ひどく歪んでいた。ふたつめは、もう少しましだった。みっつめは、まだ途中だった。
そして、団長様の左手の親指に、小さな赤い点が、いくつも並んでいた。
「……起きたか」
「団長様、それ」
「最後の二人の分だ。あと、しずく九個」
団長様は、肌着に視線を戻した。
ひと針。ものすごく慎重に。まるで、爆薬でも扱うみたいに。
「俺の熱は、余っている」
ぽつりと、そう言った。
「あなたのは、余っていない。だから、こうする」
それ以上、何も言わなかった。
私は、毛布を握りしめて、黙っていた。
昨夜の「やめろ」の続きを、聞きたかった。
でも、聞いたら、何かが変わってしまう気がして、聞けなかった。
窓の外で、朝の鐘が鳴り始めた。
その鐘の音に重なるように、廊下を駆けてくる足音がした。
被服室の扉が、ばんっと開いた。
紫のローブ。無造作に束ねた黒髪。盛大な隈。
イルゼさんが、肩で息をしながら、戸口に立っていた。手に、分厚い紙の束を握りしめている。
「……いた。全員、いるわね」
イルゼさんは、作業台で針を持っている団長様を見て、一瞬だけ、ものすごく何か言いたそうな顔をした。
けれど、それを飲み込んで、紙の束を作業台に叩きつけた。
「ヘッセ商会の、残りの二百着。三日後に、騎士団に納品されるわ」
「三日後」
「それから、納入契約書の写しを、王宮の文書庫から持ってきた」
イルゼさんは、紙の束の、最後の一枚を抜き出した。
羊皮紙の下の方に、赤い封蝋が押されている。
獅子と、王冠。
「契約の承認印は、王太子殿下のものよ」




