第八話 熱のある新兵
指先に色が戻るまで、四半刻かかった。
その間、団長様は私の右手を、両手で包んだまま離さなかった。王妃陛下の応接間の、暖炉の前で。陛下がお湯を持ってこさせても、毛布を持ってこさせても、団長様は「このままでいい」とだけ言って、じっと私の手を温め続けた。
手が、熱い。
団長様の手のひらは、分厚くて、ざらざらしていて、剣だこだらけで、とても熱かった。
最初は、冷えた指を温めてもらっているのだと思っていた。
でも、指に色が戻ってきても、団長様は手を離さなかった。
そのうち、熱いのが、団長様の手なのか、私の顔なのか、わからなくなってきた。
「……団長様。もう、大丈夫です」
「そうか」
「ですから、あの、手を」
「……ああ」
団長様は、ようやく手を離した。
離してから、自分の手のひらを見下ろして、何か言いかけて、やめた。
王妃陛下が、扇の陰で、小さく咳払いをした。
「リゼット。何があったのか、説明してもらえる?」
私は、卓の上の外套を見た。
もう触らないように、少し離れたところから。
「……この裏地の縫い目は、守り縫いを、逆さにしたものです」
「逆さに」
「祖母に、一度だけ、見せられたことがあります。決して縫ってはいけない形だと。守るための術式を裏から縫うと、着ている人から、熱を奪うんです。……たぶん、熱だけではなくて、少しずつ、体の力そのものも」
陛下の顔から、血の気が引いた。
「でも、その商会は、保温のための特別な縫い込みだと」
「普通の人が見れば、そう見えると思います。刺し子の補強に、とてもよく似ていますから。でも、糸の撚りの向きが全部逆で、目の間隔が、守り縫いの間隔と同じなんです。偶然、こうなることはありません」
「……誰かが、わかっていて、縫った」
団長様が、低く言った。
「騎士団の冬用外套に。北の遠征に着ていく、三百着に」
応接間が、しんと静まった。
北の遠征は、冬だ。
ブロムさんが言っていた。毎年、何人かは帰ってこない、と。
雪の中で、着ている外套に、熱を奪われたら。
「陛下」
団長様が、陛下の方へ向き直った。
「この見本以外に、もう納入されたものは」
「……先週、最初の百着が、騎士団本部に届いているはずよ。新兵用に、先に」
団長様の顔色が変わった。
新兵。
百着。
トビくんの顔が、頭に浮かんだ。
「失礼します」
団長様は、陛下に短く一礼すると、私の方を振り返った。
「フォルン嬢。本部に戻る。来られるか」
「はい」
立ち上がった私の手を、団長様はもう一度つかみかけて、途中で止めた。
代わりに、応接間の扉を、大きく開けた。
帰りの馬車は、行きの半分の時間で北門に着いた。
団長様は、御者台のブロムさんの隣に座って、ずっと前を見ていた。
私は、客席で、膝の上の裁縫箱を抱えていた。
騎士団本部の門をくぐった瞬間、中庭の様子がおかしいことに気がついた。
静かすぎる。
いつもなら、この時間は午後の稽古で、木剣の音と掛け声が響いているはずなのに。中庭には、数人の騎士が立っているだけで、新兵の姿がほとんどない。
「団長!」
駆け寄ってきたのは、見覚えのある若い騎士だった。副団長の、確か、レオ様。いつも団長様の後ろで帳面を持っている、眼鏡の人だ。
「新兵棟で、熱を出す者が続いています。昨日から数えて、十一人。医務官は、季節の変わり目の風邪だと」
「十一人」
「今朝から、急に増えました。それから」
レオ様は、一瞬、私の方を見て、言いよどんだ。
「……トビが、稽古中に倒れました」
足が、勝手に動いていた。
新兵棟は、本部の東側にある、細長い二階建ての建物だ。
一階の大部屋に、寝台がずらりと並んでいる。そのうちの十いくつかに、毛布をかぶった少年たちが横たわっていた。
みんな、震えている。
部屋の暖炉には、火が赤々と燃えているのに。
いちばん奥の寝台に、赤い髪が見えた。
「トビくん」
寝台のそばに膝をつく。
トビくんの顔は、紙みたいに白かった。そばかすだけが、やけに濃く見える。唇は紫色で、歯が、かちかちと鳴っていた。
「……あ、リゼット、さん」
薄く目を開けて、トビくんは、へらっと笑おうとした。
「す、すみません、情けない、とこ……」
「しゃべらないで」
額に手を当てる。
熱い。ひどい熱だ。なのに、体は震えている。熱と寒さが、同時に来ている。
トビくんの体にかけられた毛布の、その下。
トビくんは、外套を着たまま寝かされていた。
黒い外套。
灰色の、毛織物の裏地。
「……団長様」
振り返ると、団長様が、部屋の入り口に立っていた。
その後ろで、レオ様と、ブロムさんと、マーサさんが、息を詰めている。
「新兵に、新しい外套が配られたのは、いつですか」
「……レオ」
「い、一昨日です。ヘッセ商会からの納品分を、先に新兵に。今年は寒くなるのが早いからと、稽古の間も着るように指示を」
一昨日。
熱を出し始めたのが、昨日から。
「外套を、脱がせてください」
私は立ち上がった。
「今すぐ、全員の外套を脱がせて、この部屋から出してください。触るときは、手袋をして。素手で裏地に触らないで」
「外套を、脱がせる……? だが、寒がっているのに」
「寒いのは、外套のせいなんです!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
大部屋が、しんとした。
団長様が、一歩、前に出た。
「聞いたな」
低い声が、部屋の隅々まで通った。
「全員の外套を脱がせろ。手袋をしろ。裏地に素手で触るな。脱がせた外套は、中庭に出せ。燃やすな。証拠になる」
「はっ!」
レオ様と、ほかの騎士たちが、一斉に動き出した。
私は、トビくんの寝台に戻った。
騎士のひとりが手袋をして、トビくんの肩から、そっと外套を外していく。
外套が離れた瞬間、トビくんの震えが、ほんの少しだけ、小さくなった気がした。
「リゼットさん……」
「大丈夫。すぐ、よくなるから」
本当に、そうだろうか。
奪われた熱は、外套を脱げば、戻るのだろうか。
祖母は、それを教えてくれなかった。決して縫ってはいけない、としか。
私は、裁縫箱を開けた。
祖母の、胡桃材の箱。蓋の裏に、小さな鳥の彫刻。
いちばん上の段に、針と、指ぬきと、色とりどりの糸。二段目に、布切れ。
そして、いちばん底の段。
ずっと開けていなかった、黒い紙の包み。
震える指で、紐をほどく。
中には、二枚の図案が入っていた。
一枚は、祖母が私に見せた、あの逆さ縫いの図。
もう一枚は、見たことがなかった。
細かい、祖母の字で、書き込みがしてある。
『逆さ縫いに当たった者には、これを。ただし、縫い手は、己の熱を分ける覚悟をせよ』




