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第七話 逆さ縫い

「……リゼット様」


 ミレイア様の声は、夜会のときよりずっと小さかった。


 柱の陰から一歩だけ出てきて、そこで止まる。まるで、それ以上近づいたら叱られる子どもみたいに。


 私の半歩後ろで、団長様が、わずかに体の向きを変えた。私とミレイア様の間に、いつでも割り込めるように。


「団長様、大丈夫です」


「……」


 団長様は動かなかった。でも、それ以上前にも出なかった。


「何か、ご用でしょうか。ミレイア様」


「あの」


 ミレイア様は、握りしめた両手を、ほどいて、また握った。


「あの夜は、ごめんなさい」


 意外な言葉だった。


「私、殿下のお隣に立っていて。殿下があんなことをおっしゃるなんて、知らなくて。いえ、知ってました。知ってたんですけど、まさか本当に、あんな大勢の前でとは」


 言葉が、あちこちにぶつかりながら転がり出てくる。


「それで、殿下がくしゃみを始めて、ワインは、あれは給仕の方が悪いんですけど、私のドレスが眩しかったせいもあって、それで、私、怖くなって、逃げました。殿下の手を振りほどいて」


「……はい。見ていました」


「最低ですよね」


「判断が早いな、とは思いました」


 ミレイア様が、きょとんとした。

 それから、少しだけ、泣きそうな顔で笑った。


「父にも、そう言われました。『お前は判断だけは早い』って」


 ミレイア様は、廊下の窓の方をちらりと見た。

 窓の外には、王宮の中庭。その向こうに、城下の商人街の屋根が並んでいる。


「……父から、伝言を預かってきました」


「お父様、から?」


「ヘッセ商会の、会長です。父は、あなたの刺繍の話を聞いて、とても興味を持っています」


 ミレイア様は、一語一語、暗記してきたものを読み上げるように言った。


「『ヘッセ商会の縫製工房に、職人頭としてお迎えしたい。給金は騎士団の三倍。住まいも用意する。フォルン家の借金についても、相談に乗る』」


 借金。


 どうして、この人のお父様が、それを知っているのだろう。


 背後で、団長様の気配が、すっと冷えた。


「――と、父は言っていました」


 ミレイア様は、そこで言葉を切った。

 そして、自分の靴の先を見つめたまま、ほとんど聞こえない声で、付け足した。


「……断ってください」


「え?」


「伝えましたから。伝えたので、私の役目は終わりです。だから、断ってください。お願いします」


 ミレイア様は、ぺこりと頭を下げた。

 そして、私が何か言う前に、くるりと背を向けて、廊下の向こうへ小走りに去っていった。


 淡い黄色のドレスが、角を曲がって消える。


「……団長様」


「ああ」


「今の、どういう意味だと思いますか」


「わからない」


 団長様は、ミレイア様が消えた角を、しばらく見つめていた。


「だが、ヘッセ商会という名前は、覚えておく」


 応接間の扉が開いた。


「お待たせいたしました。どうぞ」


 王妃陛下の応接間は、思っていたよりずっと、質素だった。


 壁には、絵が一枚だけ。北の山々を描いた、古い風景画。暖炉。書き物机。窓辺に、小さな刺繍枠が立てかけてある。縫いかけの、野の花の図案。


「よく来てくれたわね、リゼット」


 王妃エレオノーラ陛下は、書き物机の前から立ち上がって、私の方へ歩いてきた。


 慌てて、深く礼をする。


「顔を上げて。今日は、王妃としてではなく、あの子の母親として、あなたにお詫びをしたかったの」


「お詫び、ですか」


「あの子が、ひどいことを言ったでしょう。五年間、あなたがあの子にしてくれたことを、あの子は何も知らなかった。私も知らなかった。……知ろうとしなかった」


 陛下の灰色の目が、まっすぐに私を見た。


「ごめんなさい」


 王妃に謝られるなんて、生まれて初めてだった。

 どう返していいか、わからない。


「それから」


 陛下は、私の肩越しに、戸口のところで直立している団長様を見た。


「ガレス。久しぶりね」


「……ご無沙汰しております、陛下」


「相変わらず、あなたのお母様にそっくりな顔をするのね。不機嫌なときの」


 団長様は、何も答えなかった。

 けれど、剣の柄を握る指に、ほんの少し力が入ったのが見えた。


 お母様?

 団長様のお母様と、王妃陛下が?


 聞きたかったけれど、聞ける空気ではなかった。


「座って、リゼット。お茶を淹れさせるわ」


 陛下に促されて、暖炉の前の椅子に腰かけた。


 お茶が運ばれてくるまでの間、陛下は、殿下の熱がようやく下がったこと、けれど今朝また庭で転んで膝をすりむいたこと、生まれて初めてのすり傷に本人がひどく動揺していることを、淡々と話した。


 それから、カップを置いて、静かに言った。


「単刀直入に言うわ。あの子の服を、もう一度、縫ってもらえないかしら」


 予想していた言葉だった。

 予想していたのに、胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。


「お代は、もちろんお支払いする。フォルン家の借金も、王家が肩代わりしましょう。あなたが望むなら、どんな形でも」


「……陛下」


 私は、膝の上で手を重ねた。


「お断りいたします」


 陛下は、驚かなかった。

 ただ、ほんの少し、寂しそうに目を細めた。


「理由を、聞いてもいいかしら」


「殿下が、ご自分で、いらっしゃっていないからです」


 声が震えないように、ゆっくり言った。


「陛下にお詫びいただいたことは、ありがたく思います。でも、私が五年間、服を縫っていた相手は、陛下ではありません。殿下です。その殿下は、あの夜、私の糸を『飾り』とおっしゃいました」


「……」


「殿下が、ご自分で、あの糸が何だったのかを知って。それでも縫ってほしいとおっしゃるなら。そのときは、考えます。でも、今は」


 陛下は、長いこと黙っていた。


 暖炉の火が、ぱちりと鳴った。


「……あの子には、もったいない子ね」


 ぽつりと、陛下は言った。


「わかったわ。無理強いはしない。あの子には、私から話しておく」


 話は、それで終わるはずだった。


 私は、礼を言って立ち上がろうとした。

 そのとき、書き物机の脇の、低い卓の上に置かれたものが、目に入った。


 黒い、厚手の布。

 畳まれた、外套だった。


 騎士団の外套に、よく似ている。けれど、少し違う。裏地が、見慣れた紺ではなく、灰色の毛織物だ。


「ああ、それ?」


 陛下が、私の視線に気づいた。


「騎士団の、新しい冬用外套の見本よ。騎士団の装備は、昔から王妃の管轄なの。今年から、納入先を新しい商会に変えることになって。北の遠征に間に合うように、三百着」


「新しい、商会」


「ヘッセ商会よ。裏地に、保温のための特別な縫い込みがしてあるそうなの。見てみる?」


 私は、吸い寄せられるように、卓の前に膝をついた。


 外套を、そっと広げる。

 灰色の裏地。細かな縫い目が、びっしりと並んでいる。一見すると、ただの刺し子だ。保温のための、よくある補強。


 でも。


 指先で、縫い目をなぞる。


 糸の、向き。

 針の、入る角度。

 目と目の、間隔。


 私は、息を止めた。


 ――逆だ。


 全部、逆向きに縫ってある。


 祖母の裁縫箱の、いちばん底に、一枚だけ、黒い紙に包まれた図案があった。祖母は、それを私に見せながら、一度だけ、とても怖い顔をした。


『これは、決して縫ってはいけない形よ。守り縫いを、裏から、逆さに縫うの。そうするとね、リゼット。守るはずの糸が、着ている人から、奪うのよ』


 指先が、冷たい。


 いや。

 冷たい、どころではない。


 縫い目に触れている人差し指から、手首へ、肘へ。体の中の熱が、細い糸に吸い込まれていくみたいに、どんどん、どんどん、冷えていく。


「リゼット?」


 陛下の声が、遠い。


「……フォルン嬢!」


 団長様の手が、私の手首をつかんで、外套から引き剥がした。


 大きな手のひらが、驚くほど熱かった。

 いや、違う。私の手が、氷みたいに冷たくなっていたのだ。


 人差し指の先が、真っ白になっていた。

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