第六話 穴の読める人
騎士団に来て、三日が経った。
布の山は、四分の一ほど低くなった。
窓が一枚、完全に顔を出した。朝の光が作業台まで届くようになって、ブロムさんは「十年ぶりに床を見た」と言った。
わかったことが、いくつかある。
ひとつ。騎士団の朝ごはんは、本当にまずい。麦の粥に、塩漬けの豚が一切れ。厨房長のハンネスさんは元・砲兵で、「味は火力で決まる」が口癖だ。すべてが焦げている。
ふたつ。マーサさんたち洗濯場の人たちは、一日に四回お茶を飲む。そのたびに私も呼ばれる。お茶請けのビスケットは、ハンネスさんではなくマーサさんが焼いているので、おいしい。
みっつ。トビくんは、一日に一度は何かを破って持ってくる。昨日は靴下。今日は手袋。そのたびに鼻血を出す。そろそろ、鼻血の方をどうにかした方がいいのではないかと思う。
そして、よっつ。
「……おはよう、フォルン嬢」
「おはようございます、団長様」
団長様は、毎朝、来る。
朝の鐘が六つ鳴って、新兵たちの素振りが始まる頃。被服室の扉の前に、黒い影が立つ。腕には、きっちり畳んだ外套が一枚。
今日で三日目。三枚目の外套。
そして、三枚とも、どこも破れていなかった。
一日目は、正直に「どこも傷んでいません」と言った。団長様は「ほつれそうな気がする」と言った。
二日目も、同じやりとりをした。団長様は「……では、置いていく」と言って、本当に置いていった。
三日目の今朝、私は考えた末に、ひとつの結論に達していた。
――これは、試験だ。
どこも傷んでいない外套を渡して、私がどう対応するかを見ている。わざと直すところを探して余計な縫い目を入れるのか、それとも正直に「直す必要がない」と言えるのか。
騎士団の服を預かる人間として、信用できるかどうか。
そうに違いない。
だって、それ以外に、毎朝破れてもいない外套を持ってくる理由がない。
「団長様。この外套も、直すところはありません」
私は、背筋を伸ばして言った。
「ですので、お返しします。昨日と一昨日の分も」
作業台の脇に畳んでおいた二枚を、重ねて差し出す。
団長様は、三枚の外套を受け取った。
そして、なぜか、ほんの少しだけ、肩を落とした。
「……そうか」
「はい。騎士団の備品を、必要もないのに縫うわけにはいきませんから」
「そうだな」
「合格でしょうか」
「……ごうかく?」
団長様が、首を傾げた。
部屋の隅で、糊の桶をかき混ぜていたブロムさんの肩が、小刻みに震えている。
「あの、ですから、試験では」
「――あら。お取り込み中かしら」
扉の方から、知らない声がした。
振り返ると、濃い紫のローブを着た女の人が立っていた。
黒髪を無造作にひとつに束ねて、眼鏡の奥の目の下に、盛大な隈がある。三十歳くらいだろうか。腕に、白い布の包みを抱えていた。
団長様の顔から、すっと表情が消えた。
「……イルゼ」
「おはよう、ヴァルト団長。相変わらず愛想のない顔ね」
「なぜここにいる」
「王妃陛下のお使いよ」
イルゼと呼ばれた人は、ローブの懐から、封蝋の押された書状を取り出して、ひらひらと振った。
「門番に三回追い返されて、四回目で洗濯場のご婦人に裏口から入れてもらったわ。騎士団の警備は、洗濯場で破れるのね」
「後で門番を叱っておく」
「叱るなら洗濯場の方でしょう」
イルゼさんは、団長様を完全に無視して、布の山の間をずかずかと歩いてきた。
そして、私の前で止まった。
眼鏡の奥の目が、私の顔を、上から下まで眺める。
それから、私の手を見る。ブロムさんと、同じ順番だった。
「あなたがリゼット・フォルン?」
「……もう、フォルンでは、ないのですけれど」
「知ってるわ。書状が届いたもの。まあいいわ、名前なんてどうでも」
イルゼさんは、抱えていた白い包みを、作業台の上にばさりと広げた。
白い礼服だった。
金の縁取り。胸の紋章。
殿下の、あの夜の服。
「宮廷魔術師のイルゼよ。単刀直入に聞くわ」
イルゼさんは礼服を裏返し、胸の紋章の裏側を、朝の光にかざした。
私には、見えた。
糸はもうないのに、あそこに何があったのか、全部。
「これを縫ったのは、あなたね」
「……はい」
「七重の星。解毒の術式が、三つ重なっている。東方の写本には三重までしか載っていないのに。どうやって四つ目以降を足したの?」
「祖母に、教わりました。祖母は、五重までできると言っていました。六と七は、私が、自分で」
「自分で?」
「殿下が、毒見役を嫌がって、ときどき、黙って食べてしまわれるので。……五重では、足りない気がして」
イルゼさんは、しばらく黙って私を見ていた。
それから、眼鏡を外して、目頭を指で押さえた。
「……信じられない。あなた、自分が何をしたかわかってる? 二百年前に失われた技術を、独学で、二段も上に積んだのよ。宮廷魔術師団が総出で百年研究しても、たぶん無理」
「そう、なんですか」
「そうなの」
眼鏡をかけ直したイルゼさんの目が、ぎらりと光った。
「それから、もうひとつ」
イルゼさんの指が、七重の星の、いちばん内側を指した。
「ここ。星の真ん中。……ここにだけ、鳥がいるわね」
心臓が、どくんと跳ねた。
背後で、団長様が身じろぎする気配がした。
「これ、術式としては何の意味もない形よ。解毒でも防御でもない。ただの、鳥」
「……」
「なんで、縫ったの?」
答えられなかった。
十六の冬。
毎晩、蝋燭の下で、ひと月かけて七重の星を縫った。最後のひと針を入れる前の晩、ふと、空いている真ん中に、何か入れたくなった。
祖母が、大事な人を守るときに縫っていた形。
その頃の私は、まだ、殿下のことを――
「イルゼ」
団長様の声が、低く割り込んだ。
「用件を言え」
イルゼさんは、ちらりと団長様を見て、それから、ふっと口の端を上げた。
「はいはい。用件ね」
書状を、私に差し出す。
「王妃陛下が、あなたにお会いになりたいそうよ。明日の午後、王宮の東翼に」
「殿下の服を、縫い直せということでしょうか」
「たぶんね。でも、陛下は『会いたい』としか書いてないわ。何を言われても、断る権利はあなたにある。私はそう思う」
「イルゼ。お前が決めることではない」
「あなたが決めることでもないでしょう、団長」
ふたりの間で、ばちっと何かが弾けた気がした。
私は、書状を受け取った。
王家の封蝋。重い紙。
「……行きます」
団長様が、何か言いかけた。
「行って、お話だけ、伺ってきます。何を頼まれるにしても、お返事は、それから考えます」
「では、俺も行く」
「え」
「護衛だ」
団長様は、きっぱりと言った。
「騎士団の者が王宮に呼ばれるなら、団長が付き添う。慣例だ」
「そんな慣例、聞いたことないわ」
イルゼさんが、半眼で言った。
「今、作った」
ブロムさんが、ついに糊の桶に顔を突っ込むようにして笑い出した。
翌日の午後。
私は、マーサさんに借りた、いちばん地味な紺色のドレスを着て、王宮の東翼の廊下を歩いていた。
半歩後ろを、団長様がついてくる。正装の黒い軍装で、腰に剣を下げて。すれ違う侍女たちが、みんな壁に張りつくように道をあける。
案内の侍従が、大きな扉の前で足を止めた。
「王妃陛下の応接間でございます。少々、お待ちを」
侍従が中へ消える。
廊下に、私と団長様だけが残された。
いや。
だけでは、なかった。
廊下の曲がり角の、柱の陰に、誰かが立っていた。
蜂蜜色の髪。
今日は光っていない、淡い黄色のドレス。
ミレイア・ヘッセ様が、両手を胸の前で固く握りしめて、まっすぐに、私を見ていた。




