第五話 宮廷魔術師イルゼの不機嫌な朝(イルゼ視点)
私が王宮に呼び出されたのは、夜会の翌朝、日の出から一刻ほど経った頃だった。
宮廷魔術師にとって、朝というのは本来、存在しない時間帯である。私たちの仕事は夜に始まり、夜明けに終わる。だから、扉を叩く侍従の声で起こされたとき、私はまず枕を投げた。
「イルゼ様! 王妃陛下のお召しです!」
枕を拾いに行った。
東翼の、王太子殿下の寝室。
通された部屋は、暖炉が三つも焚かれて、蒸し風呂のように暑かった。
寝台の上で、ユリウス殿下が毛布を三枚かぶって、がたがた震えていた。
「……さ、寒い……」
「熱は」
「昨夜から下がりません。侍医は、ただの風邪だと」
答えたのは、寝台の横に立つ女性だった。
王妃エレオノーラ陛下。四十を過ぎても背筋のまっすぐな、灰色の目の方。夜通し看病していたのだろう、目の下に隈がある。
「ただの風邪なら、魔術師は要らないでしょう」
「ええ。だから呼んだの」
王妃陛下は、寝台の足元の椅子を指さした。
そこに、昨夜の礼服が、丁寧に畳んで置かれていた。
白い生地。金の縁取り。胸の紋章。
「あの子は、生まれてから一度も、風邪をひいたことがないの」
陛下の声は、低かった。
「五つのときに池に落ちても。十二のときに雪の中で迷子になっても。十五のときに、狩りで猪に突っ込まれても。擦り傷ひとつなかった。侍医はそれを、王家の血の強さだと言ったわ。私も、そう思っていた」
「……」
「でも、正確には、五年前からなのよ」
私は、礼服を手に取った。
裏返す。
裏地を、指でなぞる。
何もない。
きれいな、白い絹。縫い目も、刺繍も、何ひとつない。
――いや。
目を細める。
窓から差し込む朝の光に、生地を斜めにかざす。
あった。
針の、穴。
髪の毛よりも細い穴が、裏地一面に、びっしりと並んでいる。袖口から肘へ、肩へ、襟へ、胸の紋章の裏へ。無数の穴が、規則正しい幾何学模様を描いていた。
糸は、一本も残っていない。
穴だけが、そこに何かがあったことを証言している。
「……陛下。昨夜、この服から、糸を抜いた者がいると聞きました」
「フォルン伯爵家の、リゼット嬢よ。あの子の婚約者だった子」
「だった」
「あの子が昨夜、婚約を破棄したの。大勢の前で。……馬鹿な子」
最後の一言が、寝台の上の息子に向けられたものか、それとも自分自身に向けられたものか、私にはわからなかった。
私は懐から、ルーペを取り出した。
穴を、ひとつずつ、たどる。
胸の紋章の裏。
そこだけ、穴の密度が異常に高い。七つの頂点を持つ星形。その星の中に、さらに小さな星。さらにその中に、もうひとつ。
七重。
息を呑んだ。
「陛下」
「なに」
「宮廷の書庫に、東方の古い魔術書があります。二百年前の写本です。その中に、図版がひとつだけ載っている。布に魔力を縫い止める技術。向こうの言葉で『守り縫い』。……写本の注には、こう書いてありました。『この技は既に失われた』と」
王妃陛下は、黙っていた。
「これは、その図版と同じ形です。ただし、図版は三重の星でした。これは、七重です」
寝台の上で、殿下が、けほ、と咳き込んだ。
「……なんだ、それは」
かすれた声だった。
「イルゼ。なんの話をしている。リゼットが、なんだと」
「殿下。昨夜抜かれた糸は、飾りではありません。解毒、防刃、衝撃緩和、体温保持、それから、たぶん、いくつか私にもわからないもの。殿下が五年間、風邪ひとつひかなかったのは、この服のおかげです。……正確には、この服を毎晩縫っていた人のおかげです」
殿下は、毛布の中で、ぽかんと口を開けた。
「……嘘だ」
「私は、嘘が苦手です。性格が悪いので、本当のことしか言いません」
「イルゼ」
王妃陛下が、たしなめるように私の名を呼んだ。
それから、静かに言った。
「その技を、もう一度、あの子の服に縫わせることはできる?」
「本人にしかできません。私には、穴の形しかわからない。糸にどう魔力を撚り込むのか、どういう順番で縫うのか。……それを知っているのは、この国で、たぶん、そのリゼット嬢ひとりです」
「では、呼びましょう」
王妃陛下は、すっと立ち上がった。
「フォルン伯爵家に、使いを」
「陛下、それが」
扉の脇に控えていた侍従長が、困り切った顔で口を挟んだ。
「今朝、フォルン伯爵家から、書状が届いております。『三女リゼットは本日をもって当家と縁を切った。当家とは一切関わりなし』と」
「縁を?」
「はい。それで、その、リゼット嬢の現在の居場所なのですが」
侍従長は、ひどく言いにくそうに、ハンカチで額の汗を拭いた。
「……騎士団本部に、おられるそうです。騎士団長閣下が、今朝早く、ご自分で迎えを出されたとか」
部屋の空気が、少し変わった。
寝台の上で、殿下が毛布を跳ね上げた。
「ガレスだと!? あいつ、なんで――っ、ぶえっくしょい!」
「寝ていなさい」
王妃陛下は、振り返りもせずに言った。
それから、窓の外の、北の方角を見た。騎士団本部の黒い塔が、朝もやの向こうに小さく見える。
「……ヴァルトの坊や、ね」
小さな呟きだった。
たぶん、私にしか聞こえなかった。
「イルゼ。あなたが行って。王妃の名前で、書状を持って」
「私が?」
「あなたなら、その穴の意味がわかる。私の侍従が行っても、たぶん、門前払いよ。あの坊やは昔から、私の使いを信用しないから」
私は、手の中の礼服を見下ろした。
七重の星の、針の穴。
これを縫った人間に、会ってみたい、と思った。
純粋に、魔術師として。いや、それ以上に。二百年前に失われたはずの技術を、たったひとりで、夜ごと蝋燭の下で、誰にも知られずに五年間使い続けていた人間。
それがどんな顔をしているのか、見てみたかった。
「……承知しました」
王妃陛下は、机の上の羊皮紙に、さらさらとペンを走らせた。
封蝋を押す。王家の紋章。
手渡された書状を受け取ると、陛下は、私にだけ聞こえる声で付け加えた。
「それから、イルゼ。昨夜の夜会で、ミレイア・ヘッセ嬢は、あの子の手を離して、真っ先に広間を出ていったそうね」
「……存じ上げませんでした」
「そう。覚えておいて」
何をですか、と聞き返す前に、陛下はもう、寝台の息子の額の布を取り替えていた。
私は、書状と、礼服を抱えて、部屋を出た。
廊下の窓の外で、王都の鐘が、九つ鳴った。
騎士団本部までは、馬車で半刻。
私はその間、揺れる座席で、ずっと礼服の裏地を光にかざしていた。
そして、北門が見えてきた頃、ようやく気がついた。
七重の星の、いちばん内側の、いちばん小さな星。
その中心に、たった一つだけ、他と形の違う穴がある。
ルーペを当てる。
それは、星ではなかった。
小さな、小さな、翼を広げた鳥の形だった。




