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第四話 指を縫う軍曹

「ブロムだ」


 御者台の老人は、それだけ言って、私の鞄をひょいと持ち上げた。

 旅行鞄は重いはずなのに、まるで空っぽの籠みたいに。


「騎士団被服係、軍曹、ブロム。団長に言われて来た。あんたがフォルンの嬢ちゃんか」


「は、はい。リゼットです」


「そうか」


 片目の老人は、私の顔をじろじろ見て、次に私が抱えている裁縫箱を見て、最後に私の手を見た。


「……指、きれいだな」


「え?」


「針仕事する奴の指ってのは、普通、もっと穴だらけなもんだ。俺みてえに」


 そう言って、ブロムさんは自分の左手を広げて見せた。

 太くて、ごつごつした指。その人差し指と中指に、白い引きつれのような傷跡が、何本も走っている。


「団長から聞いてるだろ。三年で四回、自分の指を縫った」


「……聞きました」


「五回目は去年だ。団長は知らねえ。黙っとけ」


 ブロムさんは鞄を荷台に放り込み、御者台に戻った。


「乗んな。朝飯は向こうで出る。まずい」


 馬車は、朝もやの王都を北へ走った。


 石畳が次第に荒くなり、貴族街の白い塀が、職人街の煉瓦に変わり、やがて灰色の城壁が見えてくる。北門だ。その手前、城壁に寄り添うようにして、黒い石造りの大きな建物が建っていた。


 王国騎士団本部。


 門をくぐると、中庭で、何十人もの若い男の人たちが、木剣を振っていた。

 掛け声が、朝の空気を震わせる。


「新兵だ。今年は百十二人」


 ブロムさんが、手綱を引きながら言った。


「半分は冬までにやめる。残った半分のうち、何人かは、遠征から帰ってこねえ」


 さらりと言われて、私は言葉を失った。


 馬車は中庭を回り込み、建物の裏手で止まった。

 そこには、大きな洗濯場があった。湯気の立つ桶がずらりと並び、腕まくりをした女の人たちが、シーツを叩いている。石鹸と、糊と、濡れた布の匂い。


「おう、ブロム! それが噂の嬢ちゃんかい!」


 恰幅のいい女の人が、桶の向こうから手を振った。


「マーサだ。洗濯場の頭」


 ブロムさんが短く紹介する。


「よろしくね、お嬢ちゃん! 団長様が昨夜、夜中に戻ってきて、明日から繕い物の名人が来るって、厨房の鍋をひっくり返して回ったんだよ」


「鍋を?」


「部屋を用意しろって言いたかったらしいんだけど、言葉が足りなくてねえ。厨房長が『団長が鍋を所望だ』って、朝まで鍋磨いてたよ」


 洗濯場の女の人たちが、どっと笑った。


 私は、どういう顔をしていいかわからなかった。


「こっちだ」


 ブロムさんに促され、洗濯場の奥の扉をくぐる。


 細い廊下を抜けた先に、その部屋はあった。


 被服室。


 と、扉には書いてある。


 ……扉には、書いてある、のだけれど。


「……これは」


 部屋は、布の山だった。


 床から天井近くまで、外套、上着、ズボン、手袋、靴下が、うずたかく積み上がっている。窓は半分、布に埋もれている。作業台らしきものは、布の山の向こうにかろうじて角だけ見えた。


 そして、その山の、あちこちに。


 穴。

 裂け目。

 ほつれ。

 取れかけたボタン。


「去年の秋からの分だ」


 ブロムさんが、なぜか胸を張った。


「洗濯と糊付けは済んでる。そこは俺の仕事だからな。完璧だ。だが縫うのは、どうもな」


「一年分……?」


「前の係は去年の夏に嫁に行った。それから誰も来ねえ。俺が縫うと指を縫う。新兵は針を持たせると目を突く。だから積んである」


 私は、布の山を見上げた。


 途方もない量だった。

 でも、不思議なことに、胸の奥が、少しだけ、どきどきしていた。


 昨夜の書斎で冷え切っていた指先が、じんわりと温かくなってくる。


 私は裁縫箱を、布の山のてっぺんに、そっと置いた。


「ブロムさん。いちばん急ぐものは、どれですか」


 老軍曹は、片目をぱちくりさせた。

 それから、にやりと笑った。前歯が一本、欠けていた。


「……そうこなくっちゃな」


 最初に来たのは、鼻血だった。


 正確には、鼻血を出した新兵だった。


「し、失礼します! ブロム軍曹、上着の肘が、また――」


 扉を勢いよく開けて飛び込んできた少年は、布の山の前に座る私を見て、固まった。


 ひょろりと背が高く、そばかすだらけで、赤い髪が寝ぐせで跳ねている。年は十六くらいだろうか。上着の右肘が、見事に裂けていた。


 そして、私と目が合った瞬間。

 少年の鼻から、つう、と赤いものが垂れた。


「わっ、わわっ」


「トビ。また鼻血か」


 ブロムさんが、面倒くさそうに布切れを放る。


「こいつはトビ。新兵。緊張すると鼻血が出る。女の人を見ても出る。剣を持っても出る」


「で、出ません! 剣では出ません!」


「先週、出ただろ」


「あれは素振り千回目だったからです!」


 トビくんは布切れで鼻を押さえながら、真っ赤な顔で私にぺこりと頭を下げた。


「し、新兵のトビです! すみません、女性がいらっしゃるとは知らなくて!」


「いえ、あの、リゼットです。今日から、ここで繕い物を」


「繕い物!」


 トビくんの目が、ぱっと輝いた。鼻血は止まっていない。


「じゃ、じゃあ、これ、お願いできますか! 肘! 今朝の稽古で転んで! あと、ついでに、いや、ついでじゃなくてもいいんですけど」


 少年は、少し声を落とした。


「……鳥、つけてもらえたり、しませんか」


「鳥?」


「団長の外套に、鳥がいるって。噂で。あれがあったから、団長は矢を受けても死ななかったって。新兵の間じゃ、みんな知ってます」


 私は、黙ってしまった。


 噂。

 団長様は、あの鳥のことを、誰かに話していたのだろうか。それとも、誰かが勝手に見つけたのだろうか。


「……鳥は、ちょっと、時間がかかるから」


「そうですよね! すみません!」


「でも、肘なら、すぐ」


 私はトビくんの上着を受け取り、裁縫箱を開けた。


 針に糸を通す。

 裂け目の端を、指で合わせる。


 ひと針。ふた針。


 普通の、ただの繕い物だ。守り縫いではない。

 ただ、肘の内側に、転んでも擦りむきにくいように、ほんの少しだけ厚く、糸を重ねた。それくらいなら、魔力はほとんど使わない。


 十分もかからなかった。


「はい、できました」


 上着を返すと、トビくんは肘の部分をまじまじと見つめた。


「……継ぎ目が、見えない」


「裏から縫いましたから」


「すげえ……」


 少年が、ぽかんと口を開けたまま、上着に袖を通そうとした、そのとき。


 廊下の方から、ざわ、と空気が揺れる気配がした。


 洗濯場の女の人たちの笑い声が、ぴたりと止まる。

 木剣の掛け声が、遠くで途切れる。


 トビくんの顔から、さあっと血の気が引いた。鼻血が、奇跡的に止まった。


「だ、だ、団長……」


 被服室の扉の前に、黒い軍装の大きな影が立っていた。


 ガレス・ヴァルト様。

 昨夜と同じ、灰色の目。


 ただ、昨夜とひとつだけ違うことがあった。


 団長様は、腕に、きっちりと畳まれた黒い外套を一枚、抱えていた。


「……おはよう、フォルン嬢」


「お、おはようございます」


「来てくれたのか」


「迎えの方が、かわいそうだったので」


 団長様は、それには答えず、つかつかと部屋に入ってきた。

 布の山の間を器用にすり抜け、私の前で止まる。


 そして、抱えていた外套を、差し出した。


「これを、頼みたい」


 受け取って、広げる。


 騎士団の正装外套だ。昨夜見たのとは別の、新しいもの。

 表も裏も、襟も裾も、丁寧に見ていく。


 ……どこも、破れていない。


 ほつれも、ない。

 ボタンも、しっかりついている。


「あの、団長様」


「なんだ」


「これ、どこも傷んでいませんが」


 団長様は、ほんの一瞬、視線を泳がせた。


「……よく見てくれ」


「見ました」


「襟の、このあたりが」


「きれいです」


「……ほつれそうな、気がする」


 部屋の隅で、ブロムさんが、ぶふっと吹き出した。


 トビくんが、上着に片腕だけ通したまま、石像のように固まっている。

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