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第三話 裁縫箱

 フォルン伯爵家の書斎は、いつも葉巻と古い紙の匂いがする。


 私が扉を開けたとき、父は机の向こうで立っていた。座っていないのは、よくない兆候だ。継母のロザリンド様は、暖炉の前の長椅子に腰かけて、扇をゆっくり開いたり閉じたりしている。これは、もっとよくない兆候だ。


「座りなさい」


 父の声は、驚くほど静かだった。


 私は、机の前の硬い椅子に座った。膝の上で手を重ねる。糸玉はポケットの中だ。


「夜会で何があったか、エルマー子爵の使いが教えてくれた」


「はい」


「殿下から婚約破棄を告げられた。そこまでは、まあいい。いや、よくはないが、殿下のお心変わりなら仕方がない」


 父は机の上の紙束を、指で叩いた。


「問題はその後だ。お前は殿下の礼服に何かをした。殿下は今、熱を出して寝込んでおられるそうだ」


「……熱を」


 くしゃみだけだと思っていた。

 体温調整の縫い目を抜いたのだから、あり得ないことではない。あの方は五年間、一度も風邪をひかなかった。体が冷えに慣れていないのだ。


「何をした」


「お貸ししていた糸を、返していただいただけです」


「糸だと?」


「刺繍の糸です。殿下の服の裏地に縫っていた」


 父は、しばらく私を見ていた。

 それから、深いため息をついて、椅子にどさりと座り込んだ。


「……リゼット。お前の刺繍好きには、目をつぶってきた。母親に似て手先が器用なのも、まあいい。だが、糸を抜いたくらいで殿下が熱を出すものか。偶然だ。偶然なのだ、だから――」


「偶然なら、なぜ私はここに呼ばれたのでしょう」


 言ってから、しまった、と思った。


 扇の音が止まった。


「口答えを覚えたのね」


 ロザリンド様が、長椅子から立ち上がった。

 すらりと背が高く、いつもいい香りのする方だ。私が八つのときに、この家に来た。私の母が亡くなって、二年後のことだった。


「リゼット。あなたはわかっていないようだから、教えてあげるわ」


 継母は、父の机の端に指を置いた。そこに積まれた紙束の、いちばん上を、ぱらりとめくる。

 細かい数字が並んでいた。


「この家は、ヘルツ銀行からお金を借りているの。五年前からね。あなたが殿下の婚約者だったから、銀行は利子を待ってくれていた。王家の外戚になる家なら、いずれ返せるだろうって」


「……」


「それが今夜、なくなったの。明日の朝には、銀行の使いが来るでしょうね。あなたのせいで」


 私は、膝の上の手を握りしめた。


 知らなかった。

 いや、知っていた。知っていて、見ないふりをしていた。春に姉たちのドレスを新調するお金がどこから出ていたのか。父がこのところ、夜遅くまで書斎の灯りを消さなかったのはなぜか。


「明日、王宮へ行きなさい」


 父が言った。


「殿下に謝罪して、何をしたにせよ、元に戻すと申し上げるんだ。婚約の撤回までは望まん。だが、せめて、フォルン家が殿下に害をなしたという噂だけは」


「元に戻したら」


 声が、少しだけ上ずった。


「元に戻したら、私はまた、毎晩、殿下の服を縫うんですか。婚約者でもないのに?」


「それがお前の償いだ」


「償い」


 口の中で、その言葉を転がした。

 変な味がした。


 五年間。

 十四の春から、十九の秋まで。

 友人の誕生会を断って、姉たちのお茶会に出ずに、夜ごと蝋燭の下で縫ってきた。指先に針を刺して、血が布に滲むたびに、最初からやり直した。


 それが、償いになるのか。


「……お断りします」


 父の顔色が変わった。


「リゼット」


「お断りします、お父様。私は、明日、王宮には行きません」


「では、どこへ行くつもりだ」


 私は、父の目を見た。


 父は、弱い人だ。悪い人ではない。母が生きていた頃は、よく笑う人だった。お金のことになると、いつも目が泳ぐ。今も、少し泳いでいる。


「騎士団に」


 自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。


「騎士団の、被服室で働かないかと、お誘いを受けました」


「はっ」


 ロザリンド様が、短く笑った。


「伯爵家の娘が、兵舎で繕い物? 笑わせないで。そんなことをしたら、このフォルン家は社交界の笑い者よ。姉さまたちの縁談にも障るわ」


「ロザリンド、少し黙って――」


「いいえ、黙りません。あなたはいつもこの子に甘いのよ」


 継母は、私の前にかがみこんだ。

 香水の匂いが、鼻をつく。


「いいこと、リゼット。騎士団に行くというなら、この家の娘としては行かせないわ。フォルンの名前を名乗らないで。二度と、この家の敷居をまたがないで」


 父が何か言いかけて、やめた。


 書斎が静かになった。

 暖炉の薪が、ぱちんとはぜた。


 私は、立ち上がった。


「わかりました」


 不思議と、足は震えていなかった。


「お世話になりました」


 今夜、二度目の挨拶だった。


 書斎を出て、階段を上がり、三階の自分の部屋に戻った。


 部屋は狭い。三女だからだ。窓から見えるのは、隣家の煙突と、少しだけの空。


 ベッドの下から、古い旅行鞄を引っぱり出した。

 服を三着。下着。櫛。それから、机の引き出しにしまっていた、祖母の形見のボタン。


 詰めながら、ふと手が止まった。


 裁縫箱が、ない。


 いつも机の上に置いている、祖母の裁縫箱。蓋に小さな鳥の彫刻がある、胡桃材の箱。針も、糸も、指ぬきも、全部あの中だ。


 夜会に持っていったのは、ハンカチと針山だけ。

 箱は、ここに置いていったはずなのに。


 机の上にも、棚にも、ベッドの下にもない。


 心臓が、嫌な音を立て始めた。


 ロザリンド様?

 まさか、もう――


 そのとき、部屋の扉が、こん、と小さく鳴った。


 返事をする前に、扉が細く開いた。


 隙間から覗いたのは、寝間着姿の、栗色の髪の女の子だった。


「……コレット」


 妹だ。四女。十五歳。

 この家で、私がいちばん仲のいい相手。


 コレットは、廊下を振り返って誰もいないのを確かめてから、するりと部屋に入ってきた。

 胸に、何かを両腕で抱えている。


 胡桃材の、裁縫箱だった。


「お義母さまが、さっき、侍女に言ってたの。お姉さまの部屋の、あの箱、明日の朝に燃やしておきなさいって」


 コレットの声は、震えていた。


「だから、先に取ってきた。……お姉さま、出ていくんでしょう」


「聞いてたの」


「階段の下で、全部」


 妹は、箱を私の胸に押しつけた。重い。いつもの重さだ。


「持っていって」


「コレット、あなた、こんなことをしたら」


「私は大丈夫。お義母さまは、私のことはどうでもいいの。四女だから」


 コレットは、少しだけ笑った。泣きそうな顔で。


「それより、ねえ、お姉さま。騎士団って、どこにあるの。手紙、書いてもいい?」


「……北の、本部。王都の北門の近く」


「わかった。毎週書く。お姉さまも、書いてね。字、下手でもいいから」


「失礼ね」


「だって、お姉さまの字、刺繍の十分の一もうまくないもの」


 私は、裁縫箱ごと、妹を抱きしめた。


 コレットの髪から、昼間に焼いたらしい林檎の匂いがした。


 抱きしめながら、窓の外が、うっすらと白み始めているのに気がついた。


 夜明けだ。


 そして、屋敷の門の前に、一台の馬車が止まるのが見えた。


 黒塗りの、飾りのない馬車。

 扉には、剣と鷲の紋章。


 御者台に座っているのは、片目に黒い眼帯をした、白髪の、ずんぐりした老人だった。

 老人は、門の前で大きなあくびをひとつして、それから、三階の私の窓を、まっすぐ見上げた。

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