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第二話 焦げた小鳥

 大広間の扉の前で、騎士団長に手首をつかまれている。


 という状況を、私の頭はしばらく理解しなかった。


 背後では、殿下のくしゃみがまだ続いている。誰かが「医師を」と叫び、誰かが「窓を閉めろ」と叫んでいる。けれど、扉の前のこの一角だけ、妙に音が遠かった。


「あの、団長様」


「……すまない」


 団長様は、自分の手を見下ろして、ぱっと離した。まるで熱い鍋にでも触ったみたいに。


「驚かせるつもりはなかった。ただ、行ってしまうと思った」


「はあ」


「その糸を、少しだけ見せてほしい」


 私は、ポケットの糸玉を取り出した。

 手のひらに乗せると、蝋燭の光を受けて、銀色が鈍く光る。


 団長様はそれを受け取らなかった。

 代わりに、自分の外套の、喉元の留め具を外した。


 ばさり、と黒い布が広がる。


 騎士団の正装外套。表は漆黒で、裏地は深い紺。

 その裏地の、左胸のあたりに――


 小さな、青い鳥がいた。


 手のひらほどの大きさ。翼を広げて、今にも飛び立とうとしている形。

 糸は色あせて、ところどころ黒く焦げていた。胸のあたりには、何かが突き刺さったような、小指の先ほどの穴がある。


 それでも、ひと針ひと針の運びは、ほどけずにそこに残っていた。


 私は、息をするのを忘れた。


 知っている。

 この鳥を、知っている。


 三年前の秋。騎士団が北の国境へ向かう前、王都の聖堂に張り紙が出た。『兵士たちの外套の繕い物に、ご協力を』。

 私は侍女の服を借りて、名前を書かずに通った。王太子の婚約者が騎士の服に触れるなんて、と言われるのが面倒だったから。


 二週間で、四十枚ほど繕った。


 その中に、一枚だけ、ひどく傷んだ外套があった。

 あちこち裂けて、裏地には古い血の染みがあって、襟の内側には、何度も自分で繕おうとして失敗したらしい、不格好な縫い目が残っていた。


 この持ち主はきっと、いちばん危ない場所に立つ人なのだろうと思った。

 そして、自分のことは後回しにする人なのだろうと。


 だから、その一枚にだけ、私が縫える中でいちばん強い守りを縫った。

 心臓の、ちょうど裏側に。

 祖母に教わった中で、いちばん難しい形。飛ぶ鳥の形。


「北の戦で」


 団長様が、焦げた小鳥を親指でなぞった。


「敵将の矢を、胸に受けた。鎧の継ぎ目を抜けてきた。……矢じりは、ここで止まった」


 小指の先ほどの、穴。


「医者は奇跡だと言った。俺は、そうは思わなかった。こんな縫い目が、偶然であるはずがない」


 団長様の声は、低く、平らだった。

 怒っているようにも聞こえる。けれど、外套を持つ指先が、少しだけ震えていた。


「聖堂に尋ねた。名前は残っていなかった。王都中の仕立屋を回った。誰もこの縫い方を知らなかった」


「……」


「三年、探した」


 灰色の目が、ようやく、私の顔を見た。


「さっき、殿下の袖からほどけていく糸を見て、わかった。同じ運び方だ」


「……はい」


 嘘をつく理由が、思いつかなかった。


「それは、私が縫いました」


 団長様は、目を閉じた。

 長い、長い息を吐いた。


 そして、目を開けたときには、もう、床に片膝をついていた。


「えっ」


 大広間の扉の前で。

 夜会の客たちが、ちらほらこちらを振り返り始めている場所で。

 王国騎士団長が、私の前に、跪いていた。


「ずっと、礼を言いたかった」


「だ、団長様、あの、立って」


「あなたのおかげで、生きて帰れた。部下を三十人、連れて帰れた」


「わかりました、わかりましたから、あの」


「それから」


 団長様は、まっすぐに私を見上げた。


「俺と、結婚してほしい」


 ……。


 …………。


 私の頭の中で、何かが、ぷつんと切れた音がした。

 たぶん、今夜三本目の糸だ。


「い、今、なんと」


「結婚してほしい、と言った」


「な、なぜ」


「三年、探した。見つけたら、そう言うと決めていた」


 決めていた、って。

 顔も知らない相手に?


「私が、とんでもない悪女だったらどうするおつもりだったんですか」


「あの縫い目を縫う人が、悪女であるはずがない」


「縫い目で人を判断しないでください!」


 思わず大きな声が出て、周りの視線がいっせいに集まった。


 しまった。


 扉の近くにいた年配の侯爵夫人が、扇で口元を隠している。その隣の令息は、露骨にこちらを指さしている。広間の中央では、殿下がまだ鼻をかんでいる。


 今夜、私はもう十分すぎるほど噂の種になった。この上、騎士団長からの求婚まで。


「……団長様。お気持ちは、その、とても、ありがたく」


「断るのか」


「断るとは言っていません!」


「では」


「今は、お返事できません」


 声が震えた。


「さっき、婚約を破棄されたばかりなんです。五年間の婚約を。それで、その足で、別の方の求婚を受けるなんて、できません。……私、自分が今、悲しいのかどうかも、まだよくわからないんです」


 言ってから、恥ずかしくなった。

 初対面の人に、何を話しているんだろう。


 団長様は、しばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がると、やはり、とても大きい。私の頭は、彼の胸の勲章のあたりまでしかない。


「わかった」


「……え」


「では、返事は待つ」


 あっさりと、そう言った。


「その代わり、ひとつ頼みがある」


 頼み。

 私は身構えた。


「騎士団の被服室に、来てもらえないだろうか」


「……ひふくしつ」


「外套や手袋の繕いをする部屋だ。係はいる。ブロムという老軍曹だ。洗濯と糊付けは王国一だが、針を持たせると、指を縫う」


「指を」


「三年で四回、縫った」


 真顔だった。


「新兵が毎年百人入る。服はすぐ破れる。北の遠征は冬だ。……あなたの縫い目があれば、死ななくていい者が、何人かいる」


 私は、手の中の糸玉を見下ろした。


 五年間、ひとりのために縫ってきた。

 そのひとりは、今夜、それを飾り糸と呼んだ。


「給金は出す。部屋も用意する。……求婚とは、関係なく」


 最後の一言だけ、団長様は少し早口になった。


「関係なく、ですか」


「関係なく、だ。あなたが断っても、この頼みは変わらない」


 灰色の目は、嘘をついているようには見えなかった。

 というより、この人は、嘘のつき方を知らないような気がした。


「……考えさせてください」


「ああ」


「一晩だけ」


「わかった。明日の朝、迎えをやる」


「まだ行くとは言っていません!」


「迎えをやるだけだ。来なければ、迎えは帰ってくる」


 それはそれで、迎えの方がかわいそうでは。


 言い返そうとした私の横を、団長様はさっと通り過ぎて、扉を開けてくれた。

 夜風が流れ込んでくる。


「気をつけて帰ってくれ、フォルン嬢」


 私は、礼を言うのも忘れて、外へ出た。


 石段を下り、待たせていた家の馬車に乗り込み、扉を閉めて。

 そこで、ようやく気がついた。


 馬車の座席で、手のひらの糸玉を握りしめたまま。

 私の顔は、火が出そうなほど熱かった。


 窓の外で、御者が困ったように咳払いをした。


「……お嬢様。旦那様から、伝言をお預かりしております」


「お父様から?」


「はい。夜会の騒ぎは、もう屋敷に伝わっております。お嬢様がお戻りになったら、すぐに書斎へ、と」


 御者は、言いにくそうに付け加えた。


「……たいへん、お怒りのご様子で」

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