第一話 一本の糸
「リゼット・フォルン! 地味な刺繍しかできない女はいらない! お前との婚約は破棄する!」
その声が大広間に響いたとき、私はちょうど、ハンカチの小鳥の左の翼に、最後のひと針を入れようとしていた。
針が止まる。
楽団の音が止まる。
千本の蝋燭の炎だけが、何事もなかったように揺れている。
顔を上げると、広間の中央でユリウス殿下がこちらを指さしていた。白い礼服。金の縁取り。胸にはこの国の紋章。その腕には、蜂蜜色の髪の令嬢がしっかりと絡みついている。
ヘッセ男爵家のミレイア様。
光魔法の使い手で、今夜はドレスそのものを淡く光らせていらっしゃる。春の夜会でも秋の園遊会でも、いつも殿下のそばにいた方だ。
……ああ、やっぱり。
驚かなかった、と言えば嘘になる。けれど、心のどこかで、いつかこうなる気はしていた。殿下は私と話すとき、いつも少しだけ退屈そうだったから。
「見ろ! ミレイアの華やかさを! それに比べてお前はどうだ。夜会でも壁際でちまちまと針を動かして。陰気にもほどがある!」
くすくす、と誰かが笑った。
笑い声は、池に落ちた石の波紋みたいに広がっていく。
私は膝の上のハンカチに視線を落とした。
青い小鳥が、片方の翼だけを広げて、こちらを見ている。
五年前、十四の春に、殿下との婚約が決まった。
伯爵家の三女が王太子妃に。父は泣いて喜び、継母は三日間、機嫌がよかった。
そして祖母は、私を部屋に呼んで、古い裁縫箱を開けた。
『リゼット。あなたの縫い目は、私のよりまっすぐね。だから教えておくわ。フォルンの女が、大事な人を守るときの縫い方を』
守り縫い。
糸に魔力を撚り込み、布に術式を縫い止める、古い手業。祖母の故郷ではそう呼ばれていたらしい。この国では誰も知らない。知られてもいない。刺繍に魔法が宿るなんて、子どもの読むおとぎ話の中だけのことだと、みんな思っている。
祖母は翌年に亡くなった。
だから、それを知っているのは、この広間で私ひとりだ。
「……聞いているのか、リゼット!」
「はい、殿下」
私はハンカチをたたみ、針を針山に戻して、立ち上がった。
スカートの裾を整え、ゆっくりと一礼する。
「承知いたしました」
広間が、別の種類の静けさに包まれた。
殿下が、ぽかんと口を開けている。
ミレイア様の光るドレスが、少しだけ明滅した。
「……な、なんだ。それだけか。泣いてすがらないのか」
「すがりません」
自分でも驚くほど、声は平らだった。
泣くのは、たぶん、家に帰ってからだ。いや、泣かないかもしれない。わからない。今はただ、指先が妙に冷たい。
「ですが殿下。婚約が解消されるのでしたら、ひとつだけ。お貸ししていたものを、返していただけますか」
「貸していたもの? 俺がお前から何を借りたというんだ」
答えずに、私は歩き出した。
人垣が、音もなく割れる。
殿下の前で足を止めると、ミレイア様がほんの半歩、殿下の陰に下がった。
私は殿下の右手を、そっと取った。
「なっ、何を――」
白い袖口。金糸の縁取り。
そのいちばん端、手首の骨の下あたりに、銀色の糸が一本だけ、ちょこんと顔を出している。
五年前、最初に縫ったのがここだった。
剣の稽古で手首を痛めたと聞いたから。
私は、その糸の端を指でつまんだ。
そして、引いた。
するり。
糸は、あっけないほど素直にほどけ始めた。
するする、するする。
袖口から肘へ。肘の内側の、打ち身をしないための小さな渦巻き。肩へ。落馬しても骨を折らないための、肩甲骨に沿った二重の鎖目。襟へ。首筋を冷やさない細い波線。胸元の紋章の、裏側。
あの紋章の裏には、いちばん時間をかけた。毒を弾く、七重の星。十六の冬に、ひと月かかった。
するする、するする、するする。
裾をぐるりと一周し、最後に、殿下の靴の中敷きから、しゅるりと抜け出して。
銀の糸は、私の手のひらの上で、小さな糸玉になった。
広間の誰も、しゃべらなかった。
殿下の服は、見た目には何も変わっていない。
金の縁取りも、紋章も、そのままだ。私の糸は、いつも裏地の側にだけ縫っていたから。
「……な、なんだ今のは。手品か?」
殿下は自分の袖を眺め、鼻で笑った。
「くだらない。飾り糸の一本や二本、抜いたところで――」
そこで、言葉が途切れた。
殿下の鼻が、ひくり、と動いた。
「……っ、ぶえっくしょい!」
盛大なくしゃみだった。
大広間の天井に、見事に反響した。
ミレイア様が、びくりと肩を跳ねさせる。
「失礼。冷えますか、殿下」
私は糸玉を手の中で転がした。
「首元の、体温を保つ縫い目をほどきましたので。この広間、北側の窓の立て付けが悪くて、隙間風がひどいんです。殿下は毎年、冬の夜会でも平気な顔をしていらっしゃいましたけれど」
「な、何を言って……ぶえっくしょい!」
二度目。
誰かが、咳払いでごまかしきれない笑い声を漏らした。
私はもう一度、深く頭を下げた。
「五年間、お世話になりました。どうか、お風邪など召されませんように」
そして、背を向けた。
背中に、殿下の声が飛んでくる。
「待て、リゼット! 今のは何だ、説明しろ! おい、誰か、あいつを――ぶえっくしょい!」
三度目。
私は振り返らなかった。
ヒールの音が、やけに大きく聞こえた。大理石の床が、こんなに長いとは知らなかった。
ポケットの中で、糸玉がかすかに温かい。
五年分の魔力が、まだ少しだけ残っているのだろう。
扉までの距離の半分ほど来たところで、ようやく、指先に血が戻ってきた。
そして、遅れて、胸の真ん中が、ぎゅっと痛んだ。
……ああ、やっぱり、少しは悲しいんだ。
好きだったわけじゃない。たぶん。
でも、五年間、毎晩ひと針ずつ、あの人が怪我をしないようにと思いながら縫ってきた。その時間まで、全部、なかったことにされた気がした。
明日から、どうしよう。
父は怒るだろう。継母はもっと怒るだろう。婚約破棄された伯爵家の三女に、次の縁談なんて来ない。
街で繕い物屋でも開こうか。看板は小さくていい。
そんなことを考えながら、扉の取っ手に手を伸ばした、そのときだった。
横から伸びてきた大きな手が、私の手首を、つかんだ。
強くはなかった。
でも、振りほどけそうにもなかった。
「――待ってくれ」
低い声。
見上げると、黒い軍装の、ひどく背の高い男の人が立っていた。
夜会服ではない。騎士団の正装だ。肩章には、剣と鷲。
その顔を、この国で知らない人はいない。
王国騎士団長、ガレス・ヴァルト様。
戦場では「黒の鬼」と呼ばれ、王宮では「笑わない団長」と呼ばれている方。
その人の灰色の目が、私の顔ではなく、ポケットからはみ出した銀の糸を、じっと見ていた。
「その糸を」
団長様は、ひとつ、息を吸った。
「……その糸を、見せてもらえないだろうか」




