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第十話 獅子と王冠(ユリウス視点)

 生まれて初めて、膝にかさぶたができた。


 三日前、庭の石段で転んだ。いつもなら、転んでも痛くなかった。痛くないどころか、転んだことにすら気づかないことがあった。服が、いつも先に地面を受け止めてくれていたから。


 ――服が。


 いや、服ではない。

 服を縫っていた、あいつが。


「殿下。お加減はいかがですか」


「……悪くはない」


 寝台の上で、膝の布を取り替えに来た侍女に、そう答えた。


 嘘だった。

 熱は下がったが、体がひどく重い。朝起きると、首が冷えている。窓を閉めても、寒い。こんなことは、これまで一度もなかった。


 五年間、一度も。


 昨日、イルゼが部屋に来て、あいつが縫っていたものの一覧を、淡々と読み上げていった。

 解毒。防刃。衝撃緩和。体温保持。落馬の際の骨の保護。手首の古傷の保護。


 十四の冬、狩りで猪に突っ込まれて、無傷だったこと。

 十六の春、晩餐会で出された菓子を毒見なしで食べて、腹を下しただけで済んだこと。あのとき、同じ菓子を食べた侍従は、三日寝込んだ。


 全部、俺の運の強さだと思っていた。

 王家の血の強さだと。俺自身の、何かだと。


「……馬鹿か、俺は」


 侍女が、びくりと手を止めた。


「なんでもない。下がっていい」


 侍女が出ていくと、入れ替わりに、母上が入ってきた。


 手に、羊皮紙の束を持っていた。


「起きていられる?」


「ああ」


「では、これを読みなさい。自分で」


 母上は、羊皮紙の束を、寝台の上に置いた。


 いちばん上の紙に、見覚えのある文字が並んでいた。


『騎士団冬季外套三百着 納入契約書 ヘッセ商会』


 そして、いちばん下に、赤い封蝋。


 獅子と、王冠。


 俺の印だ。


「……これが、どうした」


「読みなさい、と言ったのよ」


 母上の声は、静かだった。静かなときの母上が、いちばん怖い。


 俺は、紙をめくった。


 納入の時期。数量。価格。

 それから、最後の紙に、イルゼの字で走り書きがあった。


『裏地の縫製:守り縫いの逆位相(逆さ縫い)。着用者の体温・体力を吸収。新兵十一名発熱、うち一名意識混濁。リゼット・フォルンの応急処置により全員回復傾向。残り二百着、三日後納品予定』


 手が、止まった。


「……新兵が」


「倒れたのよ。あなたが印を押した外套を着て」


「待ってくれ、母上。俺は、こんな――」


「知らなかった?」


「知らなかった!」


 声が裏返った。

 くそ。この声も、あいつの縫い目がなくなってからだ。


「ヘッセ男爵が、ミレイアの茶会に来て。騎士団の外套を、もっといいものに替えたいと。保温性の高い、新しい縫製だと。母上の管轄だとは知っていたが、母上の手を煩わせるまでもないと、あいつが――男爵が言うから、俺が、代わりに」


「読まずに、押したのね」


「……」


 読んでいなかった。


 ミレイアが笑っていて、紅茶が甘くて、男爵が「殿下のご英断で、騎士たちも喜びましょう」と言った。それで、押した。


 母上は、しばらく俺を見ていた。

 それから、寝台の端に腰を下ろした。


「ユリウス。あなたは悪い子ではないわ」


「……」


「でも、あなたは、自分が何に守られているのかを、一度も考えたことがない子よ。それは、私の育て方のせいでもある」


 母上は、窓の外を見た。


「今日の午後、ヘッセ男爵を呼んであるわ。契約の件で。……あなたも同席しなさい」


 ヘッセ男爵は、午後の鐘が三つ鳴ったときに、母上の応接間にやってきた。


 でっぷりと太った、柔和な顔の男だ。指に、大きな指輪が四つ。いつも笑っている。

 その後ろに、ミレイアがいた。


 ミレイアは、俺と目が合うと、すぐにうつむいた。


「王妃陛下、殿下。本日はお招きいただき、光栄の至りにございます」


「挨拶はいいわ、男爵。外套の裏地の件よ」


 母上が、卓の上の見本を指さした。


 男爵は、ほんの一瞬だけ、目を細めた。

 すぐに、また笑顔に戻った。


「ああ、あの保温の縫い込みでございますか。東方から来た職人の、秘伝の技法でして。新兵が熱を出したと伺い、心を痛めておりました。しかしながら、季節の変わり目でございますし、外套のせいというのは、いささか」


「宮廷魔術師が、縫い目を調べたわ」


「魔術師殿が」


「逆さ縫いだそうよ。着ている者の熱を奪う」


「それは、それは」


 男爵は、大げさに目を丸くした。


「私どもは商人でございます、陛下。職人の技法の細かいところまでは存じません。東方の職人に型紙を買い、工房で縫わせただけのこと。もし本当に不具合があったのなら、職人に騙されたのは私どもの方で――」


「では、残りの二百着の納品を止めなさい」


「それは、できかねます」


 男爵は、笑顔のまま、はっきりと言った。


「契約は、既に成立しております。殿下のご承認のもとで」


 男爵の視線が、俺に向いた。


 柔らかい、笑っているのに、少しも笑っていない目だった。


「王太子殿下の印が押された契約を、一商人の都合で反故にするわけにはまいりません。それは、殿下のご判断を否定することになります。……もちろん、陛下のご命令とあらば、違約金をいただいた上で、ということになりましょうが」


 違約金。


 俺は、契約書の数字を思い出した。

 三百着の代金。その三倍の違約金。王家の年間の衣装費を、軽く超える額だ。


「それに」


 男爵は、声を少しだけ落とした。


「もし外套に本当に問題があったとして、それが公になったら。……印を押された殿下の、お立場が」


 部屋の空気が、冷えた。


 ミレイアが、父親の背中を見つめていた。

 その横顔が、紙のように白かった。


「……考えておくわ」


 母上は、それだけ言った。

 男爵は深々と一礼して、ミレイアを連れて出ていった。


 扉が閉まる直前、ミレイアが一度だけ振り返った。


 俺を見た。

 何か言いたそうな顔をして、何も言わずに、行ってしまった。


 その夜、俺は眠れなかった。


 寝台の上で、何度も寝返りを打った。首が冷える。膝のかさぶたが、ひきつれる。


 三日後に、二百着が届く。

 止めれば、違約金と、俺の印の不始末が公になる。

 止めなければ、騎士団の新兵が、また倒れる。いや、今度は北の遠征で、雪の中で。


 俺のせいで。


 起き上がった。


 椅子の背に、あの夜の礼服が掛かっていた。

 イルゼが返しに来たまま、誰も片づけていない。


 手に取って、裏返す。


 窓からの月明かりに、かざしてみた。


 何も見えない。俺には、穴しか見えない。


 イルゼは言っていた。胸の紋章の裏。七重の星。その中心に、ひとつだけ。


 目を凝らす。


 ……あった。


 小さな、小さな、鳥の形。


 イルゼの報告書の最後に、一行だけ書いてあった。


『術式としての意味はない。ただの鳥。本人に理由を尋ねたが、答えなかった』


 意味のない、鳥。


 あいつは、五年間、毎晩、俺の服を縫っていた。

 俺はそれを、夜会で、飾り糸と呼んだ。


 外套を羽織った。

 どれも、あいつが縫わなかった、普通の外套だ。夜風が、首筋から入ってくる。


 寝室の扉を、そっと開ける。

 廊下に、見張りの近衛がひとり、立ったまま居眠りをしていた。


 その横を、足音を殺して、すり抜けた。


 北門までは、歩いて一刻。


 騎士団本部の、裏手の洗濯場の方に、ひとつだけ、灯りのついた窓があった。

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