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第十一話 夜の訪問者

 被服室の灯りを消さなかったのは、眠れなかったからだ。


 イルゼさんが契約書を持ってきた朝から、丸一日が経った。

 新兵たちの熱は、全員下がった。トビくんは昼には起き上がって、ハンネスさんの焦げた粥を三杯おかわりして、「やっぱりまずい」と言って笑っていた。


 でも、あと二日で、二百着が届く。


 その先の五日後には、北の遠征が出発する。


 私は作業台の上に、見本の外套を一枚広げていた。

 厚手の手袋を二重にはめて、裏地の逆さ縫いを、ひと目ずつ、ほどいてみている。


 ほどくことは、できる。

 ただ、時間がかかる。一着ほどくのに、一刻半。二百着なら、三百刻。昼も夜も休まずにほどいても、十日以上かかる。


 ほどいたあとに、正しい守り縫いを入れ直すなら、もっとだ。


 間に合わない。


 針を置いて、目を閉じた。


 窓の外で、こつん、と小さな音がした。


 風で、枝が当たったのだろうか。

 目を開けると、もう一度、こつん。


 窓ガラスに、小石が当たっている。


 私は立ち上がって、窓を開けた。

 夜の冷たい空気が流れ込んでくる。洗濯場の裏の、干し場の暗がりに、誰かが立っていた。


 月明かりに、金色の髪が光った。


「……殿下?」


 ユリウス殿下が、外套の襟を立てて、所在なげに立っていた。

 供も連れずに、たったひとりで。


「……リゼット」


 殿下は、私の顔を見ると、一瞬、逃げ出しそうな顔をした。

 それから、ぐっと踏みとどまった。


「話が、ある」


「こんな夜中に、おひとりで、ですか」


「近衛は、寝てた」


「起こしてください」


「起こしたら、来られなかった」


 殿下は、干し場の物干し竿の下で、落ち着きなく足を踏みかえた。

 首元を、しきりに手でさすっている。寒いのだ。


 私は、少し迷ってから、言った。


「……洗濯場の、裏口が開いています。そこから、どうぞ」


 被服室に入ってきた殿下は、布の山を見て、目を丸くした。


「なんだ、この部屋は」


「被服室です」


「服しかないぞ」


「被服室ですから」


 殿下は、布の山と、作業台と、壁に貼られた灯し縫いの図案と、私の手の二重の手袋を、順番に見た。

 それから、作業台の上の、灰色の裏地の外套に目を留めた。


「……それが」


「ヘッセ商会の外套です。触らないでください。素手で触ると、指が凍えます」


 殿下は、伸ばしかけた手を引っ込めた。


 そして、長いこと黙っていた。


 暖炉代わりの小さな火鉢が、ぱちりと鳴った。


「母上から、聞いた。全部」


 殿下は、作業台から少し離れたところに立ったまま、言った。


「新兵が倒れたこと。お前が縫って、治したこと。契約書に押してある印が、俺のものだということ」


「……はい」


「ヘッセ男爵に会った。違約金を払えば止められると言われた。止めなければ、残りが届く。止めれば、俺の印の不始末が、表に出る」


 殿下の声が、少しだけ揺れた。


「どうすればいいのか、わからない」


 私は、殿下を見た。


 夜会のときとは、別の人みたいだった。

 あの夜の殿下は、広間の真ん中で、指を突きつけて、大きな声を出していた。今の殿下は、布の山の間で、首をさすりながら、小さな声で話している。


「……それを、私に、聞きにいらしたんですか」


「ほかに、聞ける人間が、いなかった」


 殿下は、自嘲するように笑った。


「母上は怒っている。イルゼは俺を馬鹿だと思っている。ガレスは、昔から俺が嫌いだ。ミレイアは……わからない」


「……」


「お前も、俺のことを怒っているだろう。わかってる。でも、お前は、あの外套が何なのかを、この国でいちばんよく知っている」


 私は、手袋の指先を見下ろした。


 怒っているか、と聞かれたら。

 たぶん、怒っている。でも、怒っているのとは、少し違う気もする。


 あの夜、この人が私の糸を飾りと呼んだとき、感じたのは、怒りよりも、たぶん、もっと――


「止めないでください」


 口から出たのは、自分でも意外な言葉だった。


「……え?」


「二百着の納品を、止めないでください。受け取ってください」


「なぜだ。受け取ったら、また誰かが」


「着せなければいいんです」


 私は、作業台の外套を指さした。


「届いたら、誰にも着せずに、全部ここへ運んでください。この部屋に。私たちで、逆さ縫いをほどいて、縫い直します」


「二百着を? 五日で?」


「間に合わないかもしれません」


 正直に言った。


「一着ほどくのに、一刻半かかります。縫い直すなら、もっと。でも、止めてしまったら、代わりの外套はどこからも来ません。騎士団は、去年の古い外套で北へ行くことになります。去年の外套は、半分が、あの布の山の中です」


 殿下が、布の山を振り返った。


「それに、止めてしまったら、証拠が残りません。ヘッセ男爵は、職人に騙されたと言って、逃げるでしょう。でも、二百着が全部、逆さ縫いだったら。全部、同じ型紙で縫われていたら」


「……騙された、では済まない」


「はい」


 殿下は、長いこと、黙って私を見ていた。


 それから、ふいに、作業台の方へ歩いてきた。


「俺にも、何かできるか」


「殿下が?」


「縫い方は知らない。でも、ほどくくらいなら」


「手袋をしないと、指が」


「するよ。貸してくれ」


 私は、しばらく迷ってから、予備の手袋を二組、殿下に渡した。


 殿下は、ぎこちない手つきで手袋を二重にはめ、作業台の、私の向かい側に座った。

 私が見本にほどきかけた外套の、反対側の袖を、殿下の前に置く。


「この糸の端を、目打ちで、少しずつ起こして。引っぱらないでください。引っぱると、布ごと裂けます」


「わかった」


 殿下は、目打ちを握った。


 ひと目。

 ふた目。


 みっつ目で、目打ちが滑った。


「いっ……!」


 手袋の上から、目打ちの先が、殿下の左の親指を突いた。

 二重の手袋を、突き抜けていた。


「殿下!」


「平気だ、たいしたことは」


 手袋を外すと、親指の腹に、赤い玉がぷくりと浮いていた。


 私は、とっさに殿下の手をつかんで、清潔な布切れで押さえた。

 裁縫箱から、細い包帯を取り出す。親指に、くるくると巻いていく。


 殿下は、されるがままになっていた。


「……五年間」


 ぽつりと、殿下が言った。


「お前は、毎晩、こんなふうに、指を刺しながら」


 私の手が、止まった。


「なあ、リゼット」


 殿下の声が、少しだけ、かすれた。


「服の、胸の紋章の裏に。鳥が、いたんだ。イルゼが見つけた。……あれは、なんだったんだ」


 答えようとした。


 答える前に、背後で、扉の開く音がした。


 振り返ると、戸口に、黒い軍装の大きな影が立っていた。


 夜の見回りの、角灯を手に提げて。


 団長様の灰色の目が、作業台の上で、私が握っている殿下の手に落ちた。


 それから、私の顔に。

 それから、殿下の顔に。


 団長様は、何も言わなかった。


 角灯の光が、少しだけ揺れた。


 そして、団長様は、静かに扉を閉めた。


 廊下を遠ざかっていく足音が、いつもより、ずっと速かった。

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