第十二話 糊と目打ちと二百着
翌朝、団長様は来なかった。
朝の鐘が六つ鳴って、新兵たちの素振りの音が聞こえ始めても、被服室の扉の前に、黒い影は立たなかった。
七つ鳴っても。
八つ鳴っても。
「……来ねえな」
糊の桶をかき回しながら、ブロムさんがぼそりと言った。
「今日は、お忙しいんだと思います」
「昨日の夜、見回りのあと、団長の部屋の灯りが朝まで消えなかったって、マーサが言ってた」
「……」
私は、目打ちを握る手に力を入れた。
昨夜のことが、頭から離れない。
殿下が帰ったのは、夜明けの少し前だった。二重の手袋をはめて、親指に包帯を巻いたまま、見本の外套の袖の逆さ縫いを、たった十二目だけほどいて。
「また来る」と言って、裏口から出ていった。
鳥のことは、答えられなかった。
団長様が扉を閉めた音で、何を言おうとしていたのか、わからなくなってしまった。
きっと、怒っている。
夜中に、騎士団の本部に、勝手に殿下を入れたから。護衛も連れていない王太子を。何かあったら、責任を問われるのは団長様なのに。
私は、また、勝手なことをした。
「お嬢ちゃん」
マーサさんが、戸口から顔を出した。
「届いたよ。ヘッセのやつ」
中庭に、荷馬車が四台、並んでいた。
荷台に、黒い外套が、山と積まれている。
ヘッセ商会の紋章をつけた御者が、受け取りの書類をひらひらさせて、にやにや笑っていた。
「二百着、確かに。代金は後日、王宮に請求いたしますので」
副団長のレオ様が、無表情で書類に署名した。
荷馬車が去っていくのを見送ってから、レオ様は眼鏡を押し上げて、私の方を振り返った。
「フォルン嬢。団長から、指示を受けています。この二百着は、誰にも着せず、全て被服室へ。人手は、動ける者を全員出せ、と」
「団長様、から」
「今朝早く、書き置きがありました。団長ご自身は、王宮へ行かれました」
書き置き。
顔は、見せてくれなかった。
「……わかりました。お願いします」
二百着の外套が、被服室に運び込まれた。
布の山が、また、天井まで届いた。
せっかく顔を出した窓が、また半分埋まった。
私は、作業台の前に立って、手を叩いた。
ぱん、と乾いた音が、部屋に響いた。
部屋に集まった人たちが、私を見た。
ブロムさん。マーサさんと、洗濯場の女の人たちが六人。トビくんと、ヨハンくんと、フリッツくんと、熱の下がった新兵たちが十一人。それから、「暇だから」と言ってついてきたイルゼさん。
二十人と少し。
二百着。
五日。
「……今から、説明します」
声が震えないように、お腹に力を入れた。
「まず、ほどきます。裏地の逆さ縫いを、全部。手袋を二重にして、目打ちで、ひと目ずつ起こして、抜きます。引っぱると布が裂けるので、ゆっくり」
新兵たちが、真剣な顔でうなずいた。
「一着ほどくのに、一刻半くらいかかります。だから――」
「待ちな」
ブロムさんが、手を上げた。
「一刻半は、長え」
「でも、糸が細くて、目が詰まっているので」
「だから、待てって」
ブロムさんは、のそのそと部屋の隅の糊の桶のところへ行き、刷毛を一本、手に取った。
そして、灰色の裏地の一角に、糊を、べったりと塗った。
「ブロムさん、何を」
「いいから、見てろ」
ブロムさんは、糊を塗った部分に、窓から差し込む日の光を当てた。
それから、しばらく待った。
糊が、乾いていく。
布が、ぱりぱりに固くなる。
そして、固まった布の上で、逆さ縫いの糸だけが――ほんのわずかに、浮き上がっていた。
「糊ってのはな、布には染みるが、細い絹糸にはあんまり染みねえ。布だけ固めて縮めりゃ、糸が勝手に起きてくる」
ブロムさんは、手袋をはめた太い指で、浮いた糸の端をつまんだ。
そして、すうっと、引いた。
糸が、するすると、抜けていく。
布は、裂けない。糊で固まっているから。
私は、口を開けたまま、それを見ていた。
「……洗濯と糊付けは、王国一だって、言ったろ」
ブロムさんは、欠けた前歯を見せて、にやりと笑った。
それから、作業は、嘘みたいに速く進んだ。
マーサさんたちが、裏地に糊を塗る。洗濯場の干し場で、日に当てて乾かす。乾いたものを、新兵たちが手袋をして、浮いた糸を抜いていく。
一着、四半刻。
六倍の速さだった。
「リゼットさんリゼットさん! 見てください、一本で全部抜けました!」
トビくんが、抜いた糸の束を掲げて、鼻血を出した。
「トビ、糸に血をつけるな」
「すみません!」
ほどき終わった外套は、私のところへ回ってくる。
ここからが、本当の仕事だった。
ほどいただけでは、ただの薄い外套だ。北の雪の中では、寒さを防げない。
だから、縫い直す。
本物の守り縫いを二百着に入れるのは、私ひとりでは無理だ。だから、灯し縫いを使う。マーサさんたちが一晩で覚えた、あのしずく形の輪。守り縫いほど強くはないけれど、縫い手の熱を、着る人に分けてくれる。
三人で一着。途中で交代。
洗濯場の女の人たちと、新兵たちと、それから――
「あの、リゼット様」
戸口から、小さな声がした。
振り返ると、栗色の髪の女の子が、旅行鞄を抱えて立っていた。
「コレット!?」
「手紙、毎週書くって言ったでしょう」
妹は、少しだけ得意げに、胸を張った。
「書くより、来た方が早いと思って。お父様には、女学校の寮に入るって言ってきたわ」
「嘘じゃない、それ」
「嘘よ」
コレットは、鞄を置いて、腕まくりをした。
「私、刺繍はお姉さまの百分の一もできないけど、字は書けるわ。二百着、どれが終わってどれが終わってないのか、誰がどれを縫ってるのか、全部書いて、壁に貼ってあげる」
その日の夕方、被服室の壁には、コレットのきれいな字で、大きな表が貼り出されていた。
外套の番号。ほどいた人。縫った人。終わった時刻。
ほどき終わり、六十一。
縫い直し終わり、二十三。
イルゼさんが、表を見上げて、眼鏡を押し上げた。
「……宮廷魔術師団の研究日誌より、よほどきれいね」
夜になって、みんなが交代で食堂へ行ったあと、私はひとり、作業台に残っていた。
しずくを、ひとつ、縫う。
指先が冷える。火鉢にかざす。また、縫う。
団長様は、まだ帰ってこない。
レオ様に聞いても、「王宮で、陛下とお話を」としか教えてくれなかった。
ふと、作業台の端の、私がいつも座る丸椅子の上に、何かが置いてあるのに気がついた。
黒い、畳まれた外套。
いつの間に。
さっき、食堂へ行く前には、なかったのに。
手に取って、広げた。
騎士団の正装外套。団長様のものだ。裏地の左胸に、見覚えのある、色あせた青い鳥がいる。
そして、右の袖が。
肘から手首まで、ざっくりと、切り裂かれていた。
刃物の跡だ。
裂け目の縁が、赤黒く、固まっていた。
外套の間から、小さな紙が一枚、ひらりと落ちた。
拾い上げる。
大きな、角張った、ぎこちない字で、一行だけ。
『今日のは、本当に破れた』




