第十三話 ほつれそうな気がする
団長様の部屋は、本部の三階の、いちばん端にあった。
場所は知っていた。でも、行ったことはなかった。騎士団長の私室に、繕い物係が夜中に押しかけるなんて、どう考えても普通ではない。
普通ではないと、わかっていた。
わかっていて、私は、破れた外套を抱えて、階段を駆け上がっていた。
扉の隙間から、灯りが漏れていた。
叩く。返事がない。
もう一度、叩く。
「……開いている」
低い声がした。
扉を開けると、団長様は、窓際の椅子に座っていた。
上着を脱いで、白いシャツ一枚だった。
右の袖が、肘までまくり上げてある。前腕に、白い布が、ぐるぐると巻きつけてあった。その布の、手首に近いところが、赤く滲んでいる。
巻き方が、ひどかった。
ゆるいところと、きついところがあって、端が結ばれずに垂れ下がっている。
「……フォルン嬢」
団長様は、私の顔を見て、少しだけ目を見開いた。
それから、私が抱えている外套を見て、気まずそうに目をそらした。
「何を、なさったんですか」
自分の声が、思ったより低かった。
「その腕。この外套。何を、なさったんですか」
「……ヘッセ商会の、倉庫に行った」
「おひとりで?」
「レオを連れていくと、書類上の問題になる。騎士団としてではなく、俺個人として行った」
「倉庫で、何を」
「型紙を」
団長様は、机の上を顎で示した。
丸められた、古びた厚紙の束が、置いてあった。
「逆さ縫いの型紙と、工房の帳簿だ。職人に騙されたのなら、型紙は捨てているはずだ。捨てていなかった。金庫にしまってあった。……番人が四人いて、ひとりが刃物を持っていた」
「それで、切られたんですか」
「かすっただけだ」
「かすっただけで、この外套の袖が、肘から手首まで裂けるんですか!」
大きな声が出た。
夜中の騎士団本部の廊下に、たぶん、響いた。
団長様は、黙った。
私は、抱えていた外套を、ベッドの上に置いた。
それから、団長様の前に膝をついて、腕の布に手を伸ばした。
「……ほどきます」
「いい、自分で」
「自分で巻いて、これですか」
団長様は、何も言い返さなかった。
結び目のない端を持って、ゆっくりと布をほどいていく。
一巻き。二巻き。
最後の一巻きをはがすと、前腕の内側に、指の長さほどの切り傷が、一本、走っていた。深くはない。でも、浅くもない。縫うほどではないけれど、放っておいていい傷でもない。
裁縫箱を持ってくればよかった、と思った。
持ってきていなかったので、自分のハンカチを裂いた。
傷口を拭いて、新しい布を当てる。
きつすぎず、ゆるすぎず。最後に、端を結ぶ。
その間、団長様は、ずっと黙って、私の手を見ていた。
「……なぜ、書き置きだったんですか」
布を結び終えてから、私は、聞いた。
「今朝。いつもみたいに、来てくださらなくて。レオ様に、書き置きで指示を」
「……」
「昨日の夜のこと、怒って、いらっしゃるんですよね」
団長様が、顔を上げた。
「殿下を、勝手に、本部に入れました。護衛もいない王太子殿下を、夜中に。何かあったら、責任を問われるのは団長様なのに。私、また、勝手なことを」
「違う」
「でも」
「違う。怒っていない。……いや」
団長様は、自分の膝の上で、両手を組んだ。
ほどいて、また組んだ。
「怒っていたのかもしれない。だが、あなたにではない」
「では、誰に」
「俺にだ」
灯りが、じじっと小さく鳴った。
「あなたが、殿下の手を握っているのを見た。……それで、今朝、あなたの顔を見る自信がなかった」
え。
「だから、代わりに、何か役に立つことをしようと思った。型紙を取ってくれば、あなたの役に立つ。……そう思った。それだけだ」
私は、団長様の顔を見上げていた。
見上げたまま、何も言えなかった。
殿下の手を、握っていた。
握っていた、けれど、あれは。
「……あれは、殿下が、目打ちで指を刺して。包帯を、巻いていただけです」
「……」
「今、団長様に、しているのと、同じです」
言ってから、自分が何を言ったのかに気がついて、顔が一気に熱くなった。
団長様も、たぶん、同じことに気がついた。
巻いたばかりの包帯を見下ろして、耳の先が、ゆっくりと赤くなっていった。
部屋が、ひどく静かになった。
「……あの、団長様」
沈黙に耐えられなくなって、私は、ずっと聞きたかったことを口にした。
「毎朝の、外套。どこも傷んでいない外套を持っていらっしゃるのは、私の、試験なんですか」
「試験?」
「騎士団の服を預けて大丈夫な人間かどうか、確かめていらっしゃるのかと」
団長様は、しばらく、本当に意味がわからないという顔をしていた。
それから、片手で顔を覆った。
「……違う」
「違うんですか」
「顔を、見に行っていた」
指の間から、くぐもった声がした。
「用がないと、行けない。だから、用を作っていた。……ほつれそうな気がする、と言えば、行ける」
私は、口を開けて、閉じた。
三日間、真剣に悩んでいた自分が、急に、ものすごく恥ずかしくなった。
「……今日のは」
ベッドの上の、裂けた外套を見る。
「今日のは、本当に、破れていましたね」
「ああ」
「破れていたら、来てくださればよかったのに。丸椅子に置いて、書き置きじゃなくて」
「……次からは、そうする」
「次、があったら困ります!」
思わず言い返すと、団長様が、顔から手を下ろした。
そして、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
笑った、のだと思う。
とても下手な笑い方だった。でも、確かに、笑っていた。
私は、慌てて立ち上がった。
顔がどうしようもなく熱くて、どこを見ていいかわからなくて、机の上の型紙の束に、目を逃がした。
「こ、これが、ヘッセ商会の型紙ですね。見せていただいても」
「ああ」
丸まった厚紙を、そっと広げる。
古い紙だった。何度も使われたらしく、端がすり切れている。
表面に、逆さ縫いの図案が、細い墨の線で描かれていた。私の裁縫箱の底にあった、祖母の黒い紙の図と、ほとんど同じ形。
ほとんど、同じ。
違うのは、ひとつだけだった。
型紙のいちばん下の、右の隅。
図案を描いた人が、署名の代わりに入れたのだろう、小さな印が、墨で描かれていた。
翼を広げた、鳥の形。
ただし、その鳥は――
逆さまだった。
頭を下に、翼を下に向けて、落ちていくような形で。
指先が、すうっと冷たくなった。
逆さ縫いに触れたときとは違う、もっと深いところからの冷たさだった。
祖母が、大事な人を守るときに縫っていた形。
私が、殿下の服の真ん中に、団長様の外套の胸に、縫った形。
それを、逆さまにした印。
「……フォルン嬢?」
団長様の声が、遠くで聞こえた。
「この鳥を」
私は、型紙から目を離せないまま、言った。
「この鳥を描ける人は、私と、祖母しか、いないはずなんです」




