第十四話 判断の早い人
遠征の出発まで、あと二日になった。
コレットの表の上で、ほどき終わりの数字が二百に届いた。
縫い直し終わりは、百四十六。
被服室は、昼も夜も灯りが消えなかった。
洗濯場の女の人たちは、交代で仮眠をとりながら、しずくを縫い続けた。新兵たちは、ほどく仕事がなくなると、今度は針を持ちたがった。トビくんは、しずくを三つ縫うごとに鼻血を出したけれど、四日目には、しずくの形がマーサさんより上手になっていた。
殿下は、毎晩来た。
近衛を起こさずに、北門まで一刻歩いて。二重の手袋をはめて、ほどく仕事がなくなってからは、しずくを縫う練習をした。
四日目の夜、殿下の縫ったしずくは、まだ、どれも少しずつ歪んでいた。
「……難しいな」
「最初は、みんなそうです」
「お前も、最初はこうだったのか」
「私は、六つのときから縫っていますから」
殿下は、自分の歪んだしずくを見下ろして、小さく笑った。
「そうか。十五年、か」
団長様の腕の傷は、四日目には、もう布を巻かなくてもよくなった。
あの夜のあと、団長様はまた、毎朝来るようになった。
ただし、外套は持ってこなかった。代わりに、「何か手伝えることはあるか」と聞く。私が「ありません」と答えると、「では、見ている」と言って、戸口に立っている。
ブロムさんが「邪魔だ」と言うまで。
型紙の、逆さまの鳥のことは、まだ誰にも話していなかった。
団長様とイルゼさん以外には。
イルゼさんは、型紙を王宮の書庫に持ち帰って、東方の記録を片っ端から調べている。
「あなたのお祖母様の、旧姓と出身の町を教えて」
と聞かれて、私は、答えられなかった。
祖母は、自分の生まれた国の話を、ほとんどしなかった。ただ、「山の向こうの、糸の町」とだけ。
五日目の朝、王宮から使いが来た。
王妃陛下が、ヘッセ男爵を審問の場に呼ぶ。
騎士団長と、宮廷魔術師と、それから、逆さ縫いの証言者として、リゼット・フォルン。
午後、三刻。
審問の間は、王宮の西翼にあった。
高い天井。長い卓。卓の上座に、王妃陛下。その右に、国王陛下の代理だという老齢の宰相閣下。左に、ユリウス殿下。
殿下は、私と目が合うと、ほんの少しだけうなずいた。
左手の親指に、まだ包帯が巻いてあった。
卓の反対側に、ヘッセ男爵が座っていた。
指に四つの指輪。柔和な笑顔。隣に、ミレイア様。
ミレイア様は、ずっと膝の上の手を見ていた。
「では、始めましょう」
王妃陛下の一言で、審問が始まった。
まず、イルゼさんが、外套の裏地の逆さ縫いについて説明した。守り縫いの逆位相。着用者の熱と体力を奪う。新兵十一名の発熱の記録。
男爵は、にこやかに聞いていた。
「まことに、恐ろしい話でございますな。しかし何度も申し上げております通り、私どもは東方の職人から型紙を買っただけ。職人が悪意を持っていたとしても、私どもにそれを見抜く目はございません」
「その型紙が、これだ」
団長様が、丸めた厚紙を、卓の上に置いた。
男爵の笑顔が、一瞬だけ、固まった。
「……それは、私どもの金庫にあったはずの」
「四日前に、見せてもらった」
「見せた覚えは、ございませんが」
「番人が四人いた。ひとりが刃物を持っていた。そちらの方が、よほど問題だと思うが」
宰相閣下が、小さく咳払いをした。
男爵は、すぐに笑顔を取り戻した。
「型紙があったからといって、何だというのです。私どもは、それが保温のための図案だと聞いて買ったのです。騙されたのですよ、陛下。騙された商人を罰するのが、この国の正義でございますか」
「リゼット」
王妃陛下が、私の名を呼んだ。
「この型紙が、保温の図案に見えるかしら」
私は立ち上がった。
足が震えていた。でも、立ち上がれた。
「……見えません。糸の撚りの向き、針の角度、目と目の間隔。全部、守り縫いの、裏返しです。それに、保温の図案なら、試しに一着縫って着てみれば、すぐにわかります。寒くなるので」
「商会の工房では、誰も試しに着てみなかった、と?」
「三百着を縫った工房で、誰も、一度も袖を通さなかったとは、思えません」
男爵の指輪が、卓の上で、かちりと鳴った。
「……小娘が。刺繍が得意なだけで、商売の何がわかる」
初めて、男爵の声から笑いが消えた。
そのときだった。
「わかっていました」
小さな声が、した。
審問の間の全員が、そちらを見た。
ミレイア様が、立ち上がっていた。
顔は真っ白で、両手は震えていた。でも、まっすぐに、王妃陛下を見ていた。
「ミレイア、座りなさい」
男爵が、低く言った。
「座りません」
ミレイア様は、懐から、薄い帳面を取り出した。
「父の、私用の帳簿です。工房の帳簿とは、別の。……父は、外套が人を冷やすことを知っていました。工房の職人が、試しに着て、倒れたからです。三か月前に」
「ミレイア!」
「それから、この帳簿には、北の国境の向こうの国の、商人の名前があります。父は、その商人から、外套一着につき金貨二枚を受け取る約束をしていました。……騎士団が冬の遠征で弱るように」
審問の間が、凍りついた。
宰相閣下が、ゆっくりと立ち上がった。
「……それは、商売ではない。国を売る行いだ」
男爵は、何か言おうとした。
口を開けて、閉じて、もう一度開けた。
言葉は、出てこなかった。
ミレイア様は、帳面を卓の上に置いた。
そして、私の方を見て、泣きそうな顔で、少しだけ笑った。
「……私、判断だけは、早いので」
ヘッセ男爵が近衛に連れていかれたあと、審問の間には、しばらく誰もしゃべらなかった。
ミレイア様は、王妃陛下の侍女に付き添われて、別室へ行った。
出ていくとき、殿下の横を通り過ぎた。殿下は、何か言いかけて、やめた。
宰相閣下が、書類をまとめながら、殿下の方を見た。
「殿下。この契約に、殿下の印が押されている件ですが」
「わかっている」
殿下は、立ち上がった。
「俺が、読まずに押した。言い訳はしない。騎士団の装備の監督権は、母上にお返しする。違約金の件は、詐欺による契約だから、無効になるだろう。……それでも、俺が押した印のせいで、新兵が倒れたことは変わらない」
殿下は、団長様の方を向いた。
そして、頭を下げた。
王太子が、騎士団長に。
審問の間の、全員の前で。
「すまなかった、ガレス。新兵たちにも、そう伝えてくれ」
団長様は、しばらく、黙って殿下を見ていた。
「……自分で、伝えに来ればいい」
「え」
「毎晩、来ているだろう。北門から、ひとりで。近衛を起こさずに」
殿下の顔が、みるみる赤くなった。
「し、知っていたのか」
「本部の中で起きていることで、俺が知らないことはない」
団長様は、ちらりと、私の方を見た。
「……ほとんど、ない」
その夜、被服室に戻ると、コレットの表の数字が、百九十九になっていた。
縫い直し終わり、百九十九着。
「あと一着!」
トビくんが、両手を上げて叫んだ。鼻血は出なかった。
あと一着。
それが、どの外套なのか、私は知っていた。
作業台の端の、私の丸椅子の上。
右の袖を、肘から手首まで切り裂かれた、黒い正装外套。
裏地の左胸に、色あせて、焦げた、青い鳥。
出発は、明日の夜明け。
私は、裁縫箱の蓋を開けた。
祖母の、胡桃材の箱。蓋の裏の、小さな鳥の彫刻。
いちばん上の段から、いちばん細い針と、いちばんいい銀の糸を取り出した。
灯し縫いでは、足りない。
この一着にだけは、本物を縫う。
窓の外は、もう真っ暗だった。
夜明けまで、あと、六刻。




