第十五話 二羽の鳥
袖の裂け目を閉じるのに、一刻かかった。
刃物の跡は、まっすぐではなかった。団長様が腕を引いたときに、布がねじれたのだろう。裂け目の縁は、ところどころ毛羽立って、赤黒い染みが固まっていた。
染みは、マーサさんが、夕方のうちに落としてくれていた。
「血の染みは水で落とすんだよ、お湯じゃだめ」と言いながら、冷たい井戸水で、何度も、何度も。
だから、今の袖は、ただの裂け目だ。
ひと針ずつ、裏から、縫い合わせていく。
ただ閉じるだけではなく、刃が通りにくいように、袖の内側に、細い鎖目を二重に這わせた。
次に誰かが刃物を向けても、この袖は、もう簡単には裂けない。
裂け目が閉じたとき、窓の外は、まだ真っ暗だった。
夜明けまで、あと五刻。
私は、外套を裏返した。
左胸の、青い鳥。
三年前に私が縫った、あの鳥。
糸は色あせて、翼の端は焦げて、胸には小指の先ほどの穴が空いている。矢じりが止まった跡だ。
この鳥は、もう、ほとんど力が残っていない。
矢を一本止めるのに、三年分の守りを、全部使ってしまったのだと思う。
ほどいて、縫い直すこともできる。
でも。
私は、焦げた鳥を、指先でそっと撫でた。
この鳥は、ほどかない。
この人が、三年間、胸につけて歩いてきた鳥だ。
代わりに、その隣に、もう一羽、縫うことにした。
いちばん細い針に、いちばんいい銀の糸を通す。
息を吸って、ひと針目を入れる。
指先から、魔力が、糸を伝って流れていく。
祖母に習った中で、いちばん難しい形。
飛ぶ鳥。
ただし、今度の鳥は、翼を広げて飛び立つ形ではなかった。
隣の、焦げた鳥の方へ、少しだけ首を傾けて、寄り添う形。
そんな図案は、祖母の裁縫箱のどこにもなかった。
私が、今、ここで、決めた形だった。
こん、こん。
窓ガラスが、二回、鳴った。
顔を上げると、洗濯場の干し場の暗がりに、金色の髪が見えた。
私は、針を置いて、裏口を開けに行った。
「……今夜も、いらしたんですか」
「今夜が、最後だと思って」
殿下は、いつもの二重の手袋ではなく、腕に何かを抱えていた。
白い、布。
「これを、持ってきた」
広げると、それは、殿下のズボンだった。
右の膝に、小さな穴が空いている。
石段で転んだときの、あの穴だ。
「縫ってくれ、とは言わない」
殿下は、ズボンを作業台の上に置いた。
「縫い方を、教えてくれ。自分で繕う」
私は、しばらく殿下の顔を見ていた。
それから、裁縫箱から、太めの針と、白い木綿の糸を取り出した。
普通の、ただの糸だ。魔力は、少しも撚り込まない。
「では、まず、針に糸を通すところから」
「……それくらいは、できる」
「では、どうぞ」
殿下は、針と糸を受け取った。
一回目、通らなかった。二回目、通らなかった。三回目で、糸の先を舐めて、ようやく通った。
少しだけ、誇らしげな顔をした。
「次は、玉結びです」
「たまむすび……?」
殿下の膝の穴が閉じたのは、それから半刻後だった。
縫い目は、ひどかった。
大きさがばらばらで、糸が突っ張って、布が少し引きつれている。穴は塞がったけれど、そこだけ、布がしわくちゃになっていた。
殿下は、自分が縫ったその縫い目を、長いこと眺めていた。
「……五年間」
「はい」
「俺は、こういうものを、一度も見なかった」
殿下は、ズボンを丁寧に畳んだ。
「リゼット。……最後に、ひとつだけ、聞いてもいいか」
「鳥のことですか」
「ああ」
私は、作業台の上の、団長様の外套を見た。
縫いかけの、二羽目の鳥。
「あの鳥は」
ゆっくり、言葉を選んだ。
「十六の冬の私が、殿下のことを、大事に思っていた印です。星だけでは、足りない気がして。空いていた真ん中に、祖母が大事な人を守るときに縫っていた形を、入れました」
殿下は、何も言わなかった。
「でも、それは、十六の冬の私です」
私は、殿下の目を見た。
「今の私では、ありません」
殿下は、長いこと、黙っていた。
それから、静かにうなずいた。
「……そうか」
畳んだズボンを抱えて、殿下は、裏口の方へ歩いていった。
扉の前で、一度だけ、振り返った。
「ありがとう、リゼット。五年間」
それが、あの夜会以来、初めて殿下の口から聞いた、ちゃんとした言葉だった。
扉が閉まった。
私は、作業台に戻って、針を取った。
夜明けまで、あと三刻。
二羽目の鳥の、最後のひと針を入れたとき、窓の外が、うっすらと白み始めていた。
中庭に、騎士たちが整列していた。
三百人。
全員が、黒い外套を着ている。裏地の胸元に、しずく形の輪が、ぐるりと縫い込まれた外套を。
トビくんが、列の後ろの方で、鼻の下をこすっていた。今日は、鼻血は出ていない。
ヨハンくんも、フリッツくんも、いる。
列の脇では、マーサさんたちが、エプロンの端で目を押さえている。ブロムさんは、腕を組んで、そっぽを向いている。コレットが、その隣で、大きく手を振っている。
列の先頭に、黒い馬に乗った団長様がいた。
外套を、着ていなかった。
私は、畳んだ外套を胸に抱えて、中庭を横切った。
騎士たちの列の間を、まっすぐに。
団長様が、馬から降りた。
「……間に合ったのか」
「間に合いました」
外套を、差し出す。
団長様は、受け取って、ばさりと広げた。
右の袖。裂け目のあった場所に、目を留める。縫い目は、裏にしかない。表からは、どこが裂けていたのか、わからない。
それから、裏地を返した。
左胸。
焦げた、青い鳥。
その隣に、寄り添うように首を傾けた、銀色の、新しい鳥。
団長様は、長いこと、その二羽を見下ろしていた。
何も言わなかった。
ただ、外套を持つ手が、少しだけ、震えていた。
「……フォルン嬢」
「はい」
「返事を、もらったと、思っていいか」
中庭じゅうの騎士たちが、息を詰めているのが、わかった。
私は、首を横に振った。
団長様の顔から、すっと色が引いた。
「帰ってきたら、お返事します」
私は、団長様の手から外套を取って、その肩にかけた。
留め具を、喉元で、ぱちんと留める。
「だから、帰ってきてください。全員で」
団長様は、しばらく、私を見下ろしていた。
それから、あの、とても下手な笑い方で、笑った。
「――ああ」
遠征隊が帰ってきたのは、四十日後の、雪の日だった。
三百人、全員。
北の国境で、今年は、一人も凍えなかった。夜営の雪の中で、胸のところだけ焚き火の前にいるみたいに暖かかったと、トビくんが、鼻血を出しながら報告してくれた。
その夜、トビくんの外套の胸に、小さな鳥を一羽、縫ってあげた。
約束は、していなかったけれど。
団長様は、帰ってきた日の翌朝、被服室の戸口に立った。
腕に、畳んだ外套を一枚抱えて。
「……おはよう、フォルン嬢」
「おはようございます、団長様」
「これを、頼みたい」
受け取って、広げる。
四十日の雪と泥で、裾がすっかり汚れていた。でも、どこも、破れていない。
裏地の左胸で、二羽の鳥が、寄り添っていた。
「どこも、ほつれていませんね」
「……ほつれそうな、気がする」
「気がする、では繕えません」
団長様は、少しだけ、黙った。
「では」
灰色の目が、まっすぐに私を見た。
「返事を、聞きに来た」
部屋の隅で、ブロムさんが、糊の桶を持ったまま、そっと戸口から出ていった。
私は、外套を胸に抱えた。
五年間、ひとりのために縫ってきた。
この四十日、たくさんの人のために縫ってきた。
そして、たぶん、これからは。
「……一生、縫いますね」
小さな声で言うと、団長様は、外套ごと、私を抱きしめた。
その腕は、四十日の雪の匂いがした。
――その日の午後、被服室に、一通の手紙が届いた。
届けに来たのは、紫のローブのイルゼさんだった。
いつになく、真剣な顔をしていた。
「東の国境の関所に、預けられていたそうよ。宛名は、あなた」
白い封筒。
見慣れない国の文字で、私の名前が書いてある。
裏返す。
封蝋に、小さな印が押されていた。
翼を広げた鳥。
ただし、その鳥は、逆さまだった。
封を切ると、中の便箋には、この国の言葉で、たった一行だけ書かれていた。
『リゼット・フォルン殿。あなたのお祖母様の、妹より』
(第一部 完)




