第十六話 届け出の欄
昼の鐘が鳴る前に、本部じゅうが知っていた。
洗濯場の前を通ると、マーサさんが洗い桶から濡れた手を上げて、「おめでとう」と言った。厨房の裏では、ハンネスさんが、焦げたパンの山のいちばん上に、一個だけ焦げていないパンを載せて差し出してきた。新兵棟の前では、名前も知らない新兵が三人、私を見るなり気をつけの姿勢をとった。
今朝、被服室にいたのは、私と、団長様と、ブロムさんだけだった。
「……ブロムさん」
「俺は、マーサにしか言っとらん」
ブロムさんは、糊を練るへらを止めなかった。片方しかない目が、桶の中から動かない。
「マーサさんに言ったら、同じことです」
「わかっとる」
へらが、桶の縁で、かん、と鳴った。
「あいつの外套はな、見習いで袖が余ってた頃から、俺が洗ってる。十五年だ」
ブロムさんは、糊のついたへらを桶に立てかけて、棚の奥から、いちばん白い木綿を一反、引っぱり出した。何に使うのかは、言わなかった。
「……黙っとれるか」
耳の後ろが、赤かった。
昼過ぎ、副団長のレオ様が、帳面ではなく、一枚の厚い紙を持ってきた。
「フォルン嬢。婚約の届け出の書式です」
騎士団の紋章が箔押しされた、立派な紙だった。
「騎士団長の婚姻には、騎士団からの届け出と、王宮の許可が要ります。下書きはこちらで作りますので、いくつか確認を」
レオ様は眼鏡を押し上げて、ペンを構えた。
「お名前、リゼット・フォルン。十九歳。ご実家、フォルン伯爵家。……ご当主の同意の署名を、この欄に」
ペンの先が、紙のいちばん下の、四角い枠を指した。
私は、その四角を見ていた。
隣の作業台で、進捗表の数字を消していたコレットの手が、止まった。
レオ様は、枠の横に、鉛筆で小さな点をひとつ打った。
「ここは、最後にします」
それだけ言って、紙を帳面に挟んだ。
午後、イルゼさんが届けてくれた手紙は、一行だけだった。
読み終えた私の手から、イルゼさんは便箋を取り上げて、作業台の灯りにかざした。紫の袖が、灯りの前でひらひら揺れた。
「紙が、この国のものじゃないわね。絹の屑が漉き込んである。こういう紙を作るのは、東の山の向こうの、ロウエンって町だけ」
「ロウエン」
「糸の町。染め糸と絹で食べてる町よ。お祖母様の言っていた町、たぶんここ」
祖母の声が、耳の奥で、「山の向こうの」と言った。
イルゼさんは、便箋を裏返して、灯りの火に、指一本ぶんまで近づけた。
「ちょっと、焦げます」
「焦がさないわよ。私、あなたより指先が器用なの。刺繍以外は」
白い紙の裏に、茶色い線が、じわりと浮かんできた。
薄い、細い字。
『春の最初の市の日、東の関所の町で』
「コレット」
呼ぶより先に、コレットは紙とペンを持って、私の横に来ていた。浮かんだ字が消えないうちに、一字ずつ、同じ形で写していく。コレットの字は、昔から、手本より手本らしい。
灯りから離すと、茶色い字は、紙の白にまぎれて、ほとんど見えなくなった。
コレットの写しの方が、ずっとはっきりしていた。
コレットは、写した紙を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
「おばあさま、妹がいるなんて、一度も言わなかった」
「私にも、言わなかった」
私は、裁縫箱の蓋を開けた。
蓋の裏の、小さな鳥の彫刻。祖母が自分の小刀で彫った鳥は、頭を上にして、翼を広げている。
その横に、封筒の封蝋を並べてみた。
同じ鳥だった。翼の数も、尾の切れ込みも。向きだけが、違った。
私は、封筒を裏返して、蓋を閉めた。
「果汁で書いて、乾かしたのね。子どもの遊びよ。相手が子どもの遊びを知っていると思って書いてる」
イルゼさんは便箋を封筒に戻して、それから、思い出したように言った。
「ああ、それと。王妃陛下から伝言」
「陛下から」
「ヘッセ男爵令嬢ミレイア。騎士団被服室にて、一年間の奉仕を命ず。父親は北の塔、商会は昨日付けで差し押さえ。今夜、ここに来るわ」
イルゼさんは、被服室をぐるりと見回した。
「罪人の娘の置き場にされたわね、あなたの部屋」
「ここは、ブロムさんの部屋です」
「そういうところよ、あなたの面倒なところ」
それから、もうひとつ。
「陛下、婚約のこと、お昼にはもうご存じだったわよ。洗濯場の誰かの従姉妹が、王宮の厨房にいるんですって」
団長様は、朝から執務室にこもっていた。
マーサさんのビスケットを皿に盛って持っていくと、机の上には、書きかけの紙が一枚。床には、丸めた紙が五つ落ちていた。
書きかけの紙には、「王妃陛下」とだけあった。その上に、線で消された、別の呼び方が見えた。
「陛下へのご報告ですか」
「……ああ」
「陛下は、もうご存じだそうです。お昼には」
団長様の手から、ペンが落ちた。
しばらく、机の上の紙を見ていた。
それから、ビスケットを一枚取って、食べた。二枚目も食べた。甘いものは苦手なはずなのに、皿が空になるまで、黙って食べ続けた。
「それなら、なおさら、書かないと」
「何と、お書きになるんですか」
「あの方は、昔――」
団長様は、そこで口を閉じた。
指についたビスケットの粉を、じっと見ていた。
「……今夜中に、書く」
私は、床の丸めた紙を五つ拾って、エプロンのポケットに入れた。開かずに。
「それは」
「焚きつけにします。ハンネスさんが、いつも足りないと言っているので」
団長様は、ポケットのふくらみを見て、それから、新しい紙を一枚、机の上に広げた。
ミレイア様が来たのは、日が落ちて、雪がちらつき始めた頃だった。
門番が、困った顔で知らせに来た。
迎えに出ると、門の灯りの下に、ミレイア様がひとりで立っていた。
侍女も、御者もいない。
足元に、大きな革の鞄がひとつ。自分の背丈の半分くらいある鞄だった。
淡い黄色のドレスではなく、灰色の、飾りのない外出着を着ていた。
「ミレイア・ヘッセです。本日より、一年間、お世話になります」
深く頭を下げた。髪に積もった雪が、ぱらぱらと落ちた。
手袋をしていなかった。鞄の持ち手を握っていた指が、関節のところまで赤くなっていた。
洗濯場から、女の人たちが何人か、湯気の立つ桶を抱えて出てきた。ミレイア様を見て、誰も何も言わずに、また中へ戻っていった。
ミレイア様は、その背中を見ていた。
「お荷物は、それだけですか」
「役人が来るまで、四半刻しかなかったので。手に触ったものを、順番に詰めました」
「何が入っているんですか」
「わかりません。開けるのが、少し怖いです」
ミレイア様は、鞄の持ち手を両手でつかんで、持ち上げようとした。鞄は、雪の上から少し浮いて、すぐにまた沈んだ。
私は、持ち手の片側をつかんだ。
「お部屋は、被服室の上です。コレットの隣」
「……はい」
せえの、と言ったのは、ミレイア様の方だった。
鞄は、ずしりと重かった。二人で傾きながら持ち直して、雪の中庭を、灯りのついている方へ歩きだした。




