第十七話 灯りの指
団長様は、今朝も外套を持ってきた。
二人で裾を広げて、どこも破れていないのを確かめて、それで用は済んだ。済んだはずなのに、団長様は、外套を抱えたまま動かなかった。
視線の先で、ミレイア様が、部屋の隅に直立していた。灰色の外出着の上に、コレットの予備のエプロンをつけている。丈が足りなくて、膝の上で終わっていた。
ミレイア様は、膝につくほど、深く頭を下げた。
「……ここの長は、ブロムだ」
団長様は、それだけ言って、出ていった。
糊の桶の前で、ブロムさんのへらが止まった。ほんの少しだけ、背中が伸びた。
ミレイア様の最初の仕事は、雑巾だった。
ブロムさんが、使い古しの敷布を四角く切ったものを十枚、作業台に積んだ。
「端をかがれ。ほつれんように」
それだけ言って、桶の前に戻っていった。
ミレイア様は、針を、ペンのように持った。指三本で、先の方をつまんでいる。
ひと針目で、布の裏から出した針が、自分の親指の腹に刺さった。
声は、出さなかった。親指を一度口に含んで、すぐに離して、ふた針目を刺した。
一枚目がかがり終わったのは、昼前だった。
縫い目は、端から端まで、ひとつとして同じ幅のものがなかった。糸が三か所で団子になって、布の角が、くるんと内側に巻いていた。
「女学校の刺繍の課題は、侍女が縫っていました」
ミレイア様は、巻いた角を指で伸ばそうとして、伸びないのを確かめてから、手を離した。
「先生は、毎回、褒めてくださいました」
隣の作業台から、コレットが、糸を一本差し出した。ミレイア様が使っていた糸の、半分ほどの長さだった。
「長いと、絡みます。腕の長さの、半分」
「……ありがとうございます」
「お礼はいいです。絡んだ糸をほどいているのを見ていると、こっちの手がむずむずするので」
コレットは、それきり、自分の進捗表に戻った。
洗濯場には、一日に四回、お茶の時間がある。
昼のお茶に、私はミレイア様を連れていった。
湯気の中で、マーサさんたちが、長い腰掛けに並んでいた。私たちが入っていくと、話し声が、ふっと途切れた。
マーサさんが、欠けた茶碗に茶を注いで、私に渡した。
それから、もうひとつ、茶碗に茶を注いだ。その茶碗は、ミレイア様の前を通り過ぎて、リーザさんの手に渡った。
リーザさんは、茶碗を両手で包んで、ミレイア様の方を見ずに、飲んだ。
リーザさんの弟は、フリッツくんだ。あの夜、しずくの輪を縫った外套にくるまって、明け方まで歯を鳴らしていた。ハンナさんの従兄弟も、熱を出した十一人のうちの一人だった。
誰も、ミレイア様に、出ていけとは言わなかった。
座れとも、言わなかった。
ミレイア様は、戸口の脇に立ったまま、両手を前で重ねていた。
私は、自分の茶碗を半分飲んで、残りを差し出した。
「いただけません」
ミレイア様は、はっきりと言った。
「ここで、私が先にお茶を飲むのは、違います」
マーサさんが、腰掛けから立って、洗い桶の方へ行った。
その日のお昼のお茶は、いつもより、ずっと短かった。
午後、コレットが、レオ様に進捗表の写しを届けに出た。ブロムさんは、糊の桶を抱えて、干し場へ行った。
被服室に、二人だけになった。
ミレイア様は、三枚目の雑巾をかがっていた。一枚目より、ほんの少しだけ、幅が揃っている。
「リゼット様。北の塔は、十日に一度、家族が面会できるそうです」
針が、布の途中で止まっていた。
「次の面会日は、明後日です」
「行かれるんですか」
「わかりません」
ミレイア様は、止まっていた針を、布から引き抜いた。糸が、しゅっと鳴った。
「帳簿を審問に出すと決めたのは、馬車の中でした。屋敷から王宮まで、四半刻もかからなかった」
「はい」
「あれから、父の顔を、ちゃんと思い出せないんです。思い出そうとすると、先に数字が出てくるので」
外套一着につき、金貨二枚。三百着で、六百枚。
ミレイア様は、指も折らずに、それを言った。
「会いに行ったら、私、父に何を言うのか、自分でもわかりません」
ミレイア様は、次のひと針を刺した。今度は、指に刺さらなかった。
「わからないのが、嫌なんです。今まで、わからなかったことが、なかったので」
私は、自分の手元の布を見た。
家を出た夜、父は、玄関の階段の上にいた。継母の少し後ろで、手すりに片手を置いていた。何か言ったのかどうかは、覚えていない。手すりの上の、その手の甲だけを、覚えている。
「明後日の朝まで、決めなくても、いいと思います」
ミレイア様は、顔を上げた。
「面会は、昼からでしょう。朝に決めても、間に合います」
ミレイア様は、しばらく私を見ていた。それから、少しだけ、口の端を上げた。
「……判断が遅いのは、生まれて初めてです」
冬の日は、早く落ちる。
夕方の鐘より前に、被服室の灯りだけでは、手元が暗くなった。
その日の仕事は、遠征から戻った三百着の点検だった。洗い上がった外套の裏地を一枚ずつ返して、しずくの輪の、ほつれかけた目を探す。見つけたら、絹糸で締め直す。しずくの縁の糸は、髪の毛ほどの細さだ。
ランプの芯を上げると、煤が出る。下げると、暗い。手元に顔を近づけると、自分の頭の影が、ちょうどしずくの上に落ちる。
四十着目で、針穴に糸が通らなくなった。
一回、外した。二回、外した。
目の奥を指で押さえたとき、手元が、白くなった。
ミレイア様が、私の向かいに立っていた。
右手の人差し指の先に、小さな光が灯っている。蝋燭の火くらいの大きさ。でも、揺れない。煤も出ない。
「夜会で、花を光らせるのにしか、使ったことがないんですけれど」
光は、私の頭と反対の側から、手元を照らしていた。影が、どこにも落ちなかった。
針穴が、はっきり見えた。
糸は、一回で通った。
しずくの縁の、ほつれかけた一目が、毛羽の一本まで見えた。
「もう少し、左に」
光が、左に寄った。
「そこで」
五十着目。六十着目。
ミレイア様は、声をかけるより先に、光を動かすようになった。私が裏地を返すと、もう、しずくの上に光がある。
ミレイア様の右腕が、少しずつ下がってきた。
左手に替えた。しばらくして、また右に替えた。
いつの間にか、ブロムさんが、干し場から戻っていた。何も言わずに、ミレイア様の後ろに、丸椅子をひとつ置いた。
ミレイア様は、光を灯したまま、そこに腰を下ろした。肘を、作業台の端についた。光は、それで、もう下がらなくなった。
コレットも、戻ってきていた。壁の進捗表の前に立って、鉛筆を持ったまま、しばらく、ミレイア様の指先を見ていた。
それから、表のいちばん端に、新しい列を一本、引き足した。
七十着目に取りかかったとき、夕方の鐘が鳴った。
鐘の音が消えないうちに、ゆうべの門番が、被服室に来た。ゆうべと同じ、困った顔をしていた。
「フォルン伯爵様が、門にお見えです。リゼットお嬢様に、と」
コレットの手から、鉛筆が落ちた。
床の上を転がって、作業台の脚に当たって、止まった。
ミレイア様の指先の光は、揺れなかった。
私は、手元のしずくを見た。縁の、ほつれかけた一目。締めかけの、絹糸。
「少しだけ、お待ちいただいてください。門の詰め所で」
門番は、頭を下げて出ていった。
「コレット」
「……はい」
「上の部屋にいて。私が呼ぶまで」
コレットは、落ちた鉛筆を拾わなかった。唇を一度、きゅっと噛んで、それから、階段の方へ歩いていった。足音が、いつもより静かだった。
私は、最後の一目を締めて、糸を切った。針を、針山に戻した。
立ち上がって、エプロンの紐をほどこうとした。背中の結び目が、朝に固く結びすぎたせいで、指が滑ってほどけない。
後ろで、ミレイア様が立ち上がる気配がした。
光を灯した指が、私の背中の、結び目に触れた。




