第十八話 二つ目のボタン
エプロンの結び目は、ミレイア様の光る指で、ひと引きでほどけた。
中庭の雪は、夕方のうちに、くるぶしまで積もっていた。団長様は、朝から王宮に出ていて、まだ戻っていない。門の詰め所の煙突から、煙が一本、まっすぐ上がっていた。
父は、ストーブの前の腰掛けに座っていた。
帽子を膝の上に載せて、そのつばを、両手で少しずつ回していた。
私が入っていくと、父は立ち上がった。帽子が膝から落ちかけて、慌てて押さえた。
「……リゼット」
「お父様」
父は、登城のときにしか着ない、濃い灰色の外套を着ていた。袖口の毛羽が、ストーブの火の色に光っている。胸の、上から二つ目のボタンが、糸一本でぶら下がっていた。
私の目は、父の顔より先に、そこへ行った。
門番さんが、湯気の立つ茶碗を二つ置いて、外へ出ていった。
「座っても、いいか」
「どうぞ。こちらは、お父様のお屋敷ではございませんので、私にお断りいただく必要はございません」
父は、黙って腰を下ろした。私は、向かいの腰掛けに座った。茶碗には、二人とも手を伸ばさなかった。
「ヘルツ銀行の使いが、屋敷に来た」
父は、帽子のつばを見ながら言った。
「騎士団長殿と、婚約したそうだな。使いの方が、私より先に知っていた」
「はい」
「……そうか」
帽子が、また、ひと回りした。
「返済の期限が、来月だ。二十日」
五年の約束の借金。殿下との婚約があったから、待ってもらえていた借金。
被服室の給金を、頭の中で一年分、足してみた。利子の半分にも、届かなかった。
「ロザリンドが、お前を呼び戻せと言っている」
「お義母様が」
「私も」
父は、帽子から手を離した。膝の上で、両手の指を組んだ。
「私も、お前に戻ってきてほしい」
その手の甲を、私は見ていた。
あの夜、階段の手すりに置かれていた手。近くで見ると、甲の皮膚が乾いて、指の節に細かいひびが入っていた。中指の横に、インクの染みが、落ちきらずに残っていた。帳簿の字を、毎晩、書いている手だった。
「戻りません」
声は、自分で思っていたより、静かに出た。
「こちらで、お仕事をいただいております。遠征から戻りました外套が三百着ございまして、本日は七十着目まで、縫い目を改めたところでございます。明日の分も、明後日の分も、ございますので」
父は、組んだ指を、ほどかなかった。
ストーブの中で、薪が崩れる音がした。
「……そうか」
借金の話は、それきり、どちらも口にしなかった。来月の二十日は、茶碗の湯気と一緒に、詰め所の低い天井のあたりに、ずっと浮かんでいた。
父は、足元に置いていた紙包みを、膝の上に取り上げた。茶色の紙に、麻紐がかけてある。
「ここへ来る前に、女学校に寄った」
エプロンのない膝の上で、私の指が止まった。
「コレットに、冬の肩掛けを届けようと思った。寮監が、そういう生徒は、秋から一度も来ていないと言った」
父は、麻紐の結び目を、指でなぞった。
「リゼット。コレットは、どこにいる」
私が口を開くより先に、詰め所の戸が開いて、雪まじりの風が吹き込んできた。
コレットだった。
肩掛けも、外套もなかった。作業用のエプロンのまま、髪に雪をつけて、右手に鉛筆を握っていた。被服室の床に転がって、拾わずに置いてきたはずの鉛筆だった。
「ここにいます」
コレットは、父の前まで歩いてきて、止まった。
「寮には、一日も入っていません。お姉さまのところへ行くと言ったら、お父様は、止めたでしょう」
父は、コレットの顔を見上げた。
「……止めた、だろうな」
「だから、嘘をつきました。ごめんなさい」
コレットは、頭を下げなかった。鉛筆を握った手が、エプロンの横で、白くなっていた。
「私、ここで、壁の表を書いています。三百着の表です。毎日、数字が減っていくのを、私が書いています」
「コレット。上にいてって、言ったでしょう」
「お姉さまが一人でお父様に会うのは、嫌だったので」
コレットは、私の方を見ずに言った。
父は、しばらく、コレットの手を見ていた。
鉛筆の粉で、中指の横が、黒くなっていた。父のインクの染みと、同じところだった。
父は立ち上がって、紙包みの麻紐をほどいた。
中から、灰色がかった青の、毛織りの肩掛けが出てきた。父はそれを両手で広げて、コレットの肩に掛けた。髪から落ちた雪の粒が、毛織りの上で、ゆっくり溶けて染みになった。
コレットは、肩掛けの端を、鉛筆を持っていない方の手でつかんだ。
「……帰れって、言わないんですか」
「言っても、帰らないだろう」
「帰りません」
「リゼットも、そう言った」
父は、腰掛けの上から帽子を取り上げた。
帽子をかぶろうとして、父が顎を引いたとき、胸の二つ目のボタンが、糸一本で、くるりと回った。
「お父様。動かないでください」
襟の裏には、いつも針を一本、刺してある。黒い木綿糸が、ひと巻きしてある。
私はそれを抜いて、父の前に立った。
父は、帽子を持ったまま、止まった。
ボタンの足に、古い糸がからみついていた。爪で切って外すと、布に残った穴が、ほつれて広がりかけていた。穴の少し横に、新しく針を入れた。
登城用の外套は、生地が厚い。指ぬきのない中指で、針の頭を押し込んだ。
布の裏に指を回すと、指の背に、硬くて四角いものが当たった。
内ポケットに、何か入っている。
ボタンの足に糸を四回巻いて、裏で二度留めた。歯で、糸を切った。
顔を上げると、父は、私の頭の上のあたりを見ていた。
それから、外套の内側に手を入れて、さっきの四角いものを取り出した。
古い、革表紙の帳面だった。角がすり切れて、丸くなっている。留め金が、片方しかない。
父は、それを、私の手の上に載せた。
「母上は、ロウエンから逃げてきた。妹を置いて」
それだけ言うと、父は帽子をかぶって、詰め所を出ていった。
門の灯りの下を通るとき、外套の胸を、一度だけ手で押さえた。二つ目のボタンのあたりだった。
革表紙は、父の体温で、まだ少し温かかった。
コレットが、肩掛けの端を握ったまま、私の手の中の帳面を見ていた。
「ロウエンって」
「イルゼさんが言っていた町」
「おばあさまの、字ですか」
「開けてない」
中庭を戻るあいだ、コレットは、それ以上何も聞かなかった。雪を踏む音が、二人ぶん、きゅっ、きゅっ、と鳴った。
被服室には、まだ灯りがついていた。
ミレイア様が、丸椅子に座ったまま、作業台に肘をついて、指先に光を灯していた。光は、私が締め終えた七十着目のしずくの上に、そのままあった。
「消していいと、言われませんでしたので」
ミレイア様の右の指先が、少し震えていた。光は、震えていなかった。
私は、帳面を、裁縫箱の横に置いた。革表紙に、一度だけ手のひらを当てた。まだ、温かかった。
それから、腰掛けに座って、七十一着目の外套を膝に引き寄せた。裏地を返す。しずくの輪の縁を、指でたどる。
針に、糸を通した。一回で通った。
コレットは、肩掛けを掛けたまま、壁の進捗表の前に立って、鉛筆の先を舐めた。
「お姉さま。今夜、あと何着やりますか」
「三十」
ミレイア様の光が、私の手元へ寄ってきた。
「ミレイア様、もう少し、右に」




