第十九話 降りてくる鳥
イルゼさんは、朝の二つ目の鐘と一緒に、洗濯場の裏から入ってきた。
外套の肩に雪を載せたまま、被服室の作業台の端に腰かけて、マーサさんのビスケットを一枚、黙って齧った。
「朝に呼びつけるなんて、あなたも性格が悪くなったわね」
「すみません」
「謝らなくていい。読めないんでしょう。見せて」
祖母の日記は、ひと晩、裁縫箱の横に置いたままだった。明け方に一度だけ留め金を外して、最初の頁に知らない文字が並んでいるのを見て、閉じた。
イルゼさんは、片方しかない留め金を指で弾いて、革表紙を開いた。
「ロウエンの古い綴りね。王宮の東方写本と同じ系統。……あなたのお祖母様、字が汚いわ」
頁の隅に、小さく名前が書いてあった。マルグリット。そこだけは、私にも読めた。
コレットが、進捗表の前から鉛筆を持ってきて、イルゼさんの隣に座った。紙を一枚、作業台に広げる。
「読んでください。私が書きます」
イルゼさんは、コレットの手元をちらりと見て、読みはじめた。
――母さんの糸の家で、今日から針を持つ。イェルダは七つ、私は九つ。
コレットの鉛筆が、紙の上を走った。読み上げる声より少しだけ遅れて、きれいな字が並んでいく。
日記は、ほとんどが二行か三行だった。糸の値段。市で買った染め粉。母さんに叱られたこと。
――母さんは、守り縫いの糸を、着る人の心臓の方へ向けて通せと言う。熱は、そちらへ集まるから。
――イェルダは、鳥を逆さに縫う。落ちてくる鳥だと母さんに叱られた。本人は、降りてくる鳥だと言っている。
私は、裁縫箱の蓋を開けた。裏に、祖母が小刀で彫った鳥がいる。頭が、上を向いている。
イルゼさんは、そちらを見なかった。頁をめくった。
年が進むにつれて、イェルダという名前が増えていった。
――イェルダが、糸を心臓の反対へ向けて縫ってみている。どうなるのか知りたいのだと言う。
――イェルダの指先が、また白い。夕飯のあいだ、ずっと両手を膝に挟んでいた。
――布の熱がどこへ行くのか、あの子は帳面に書きつけている。私には見せない。
気がつくと、私は、自分の右の人差し指を、左手で握っていた。
秋の頁で、祖母の字が、急に小さくなった。
――冬至の市までに仕上げると、イェルダが言う。何を、とは言わない。
イルゼさんが、次の頁をめくった。
めくった先は、もう春だった。
綴じ目のところに、紙の端が、細く並んで残っていた。イルゼさんが、爪の先で数えた。七枚。
「破ったんじゃないわね」
イルゼさんは、残った紙の端を、窓の明かりにかざした。
「切り口がまっすぐ。小さな刃物で、綴じ目ぎりぎりを、一枚ずつ。慌てた人の手じゃない」
春の頁は、この国の言葉で書かれていた。一画ずつ、確かめるような、硬い字だった。
――山を越えて、十九日目。指が、まだ温まらない。
そこから先は、私にも読めた。知らない町の名前。祖父の名前。私の知っている祖母の暮らしが、少しずつ始まっていた。
イェルダという名前は、最後の頁まで、一度も出てこなかった。
コレットが、鉛筆を置いた。
「おばあさまは、七枚ぶん、何も書かなかったんですか。それとも、書いてから切ったんですか」
「書いてから切ったのよ」
イルゼさんが、春の最初の頁を、指の腹でなでた。
「ペン先の凹みが、次の紙に写ってる。読めるほどじゃないけど。性格の悪い書き手なら、下に一枚、白紙を挟んでおくわ。あなたのお祖母様は、そこまで性格が悪くなかった」
それから、日記を閉じて、私の手の上に戻した。外套の袖の中から、封をした小さな紙を一枚、引っぱり出す。
「ついでに、これ。陛下から。ヴァルトの坊やは、陛下の使いを門で追い返すでしょう。だから私に持たせたの。私は伝令じゃないって、三回言ったんだけど」
今日の午後。ヴァルト団長とリゼット・フォルンのお二人で。供は要らない。
王妃様の字は、祖母の字よりずっと読みやすかった。
王宮へ向かう馬車の中で、団長様は、剣帯の留め具を、何度も確かめていた。外して、留めて、また外した。
「祖母の日記を、イルゼさんと読みました」
「そうか」
「祖母の妹のことが、書いてありました。途中まで」
「途中まで」
「七枚、切り取られていました」
団長様は、留め具から手を離した。
「……帰りに、聞かせてくれ」
王妃様の応接間には、侍女が一人もいなかった。
北の山の風景画の下で、王妃様は、ご自分で茶を注いでいた。長椅子の端に立てかけた刺繍枠の野の花が、前に見たときより、三輪増えていた。
「座りなさい。二人とも」
卓の上に、蜂蜜の焼き菓子が山になっていた。
団長様は、勧められる前に一つ取って、食べた。二つ目も、食べた。
王妃様の灰色の目が、それを見ていた。
「相変わらずね。嫌いなものほど、先に片づけようとする」
団長様は、三つ目を取った。
「婚約の知らせは、洗濯場から厨房を回って、お昼には届きました。あなたからの手紙は、まだ一通も届いていないけれど」
「……申し訳ありません」
「責めていないわ。あなたの母親も、手紙の書けない人だった」
王妃様は、茶碗を両手で包んだ。
「アデーレは、私の侍女だった。私が王宮に上がった年に、最初に付いてくれた人。私が泣くと、あなたとそっくりの顔で怒ったわ。侍女が主人に怒るのよ。親友だったの」
団長様は、三つ目の焼き菓子を、口に運ばずに持っていた。
「二十年前の冬に、亡くなった。あなたが七つのとき」
「覚えています」
それだけ言って、団長様は、焼き菓子を皿に戻さなかった。
王妃様は立ち上がって、長椅子の後ろから、平たい杉の箱を持ってきた。
「お祝いを何にしようか考えて、これしか思いつかなかったの」
蓋を取ると、薄紙に包まれた、白に近い灰色の毛織りが出てきた。
「アデーレのショール。冬になると、いつも肩に掛けていた。ヴァルトの家に返しそびれて、二十年、私が持っていたわ。あの子の息子のお嫁さんに渡すのが、いちばんいいと思って」
団長様は、箱の中を見ていた。焼き菓子を持った手は、膝の上から動かなかった。
私は、両手で受け取った。
軽かった。細い糸で、目が詰んでいる。縁に沿って、蔓草の刺繍が一周していた。葉の一枚一枚が同じ大きさで、同じ角度で並んでいる。上手な人の手だった。
縁の刺繍に、親指が触れた。
冷たかった。
二十年、箱の中にあった布だから。一度は、そう思った。
でも、毛織りの地は、もう私の手の温かさを吸って、ぬくもりはじめていた。縁の糸だけが、いつまでも冷たいままだった。
私は、ショールを膝の上で裏返した。
蔓草の裏の糸は、どれも、首に当たる内側から、外へ向かって流れていた。一本残らず、心臓の反対の方へ。
――イェルダが、糸を心臓の反対へ向けて縫ってみている。
今朝、コレットの字で紙に並んだ一行だった。
指先から、熱が抜けていく。爪の色が、少しずつ薄くなる。
手は、離さなかった。蔓草の葉を、裏から一枚ずつ、数えた。十二枚。十三枚。
「リゼット?」
王妃様が、茶碗を置いた。
隣で、団長様の手の中の焼き菓子が、ほろりと崩れた。
私は、襟の裏から、針を一本抜いた。
「陛下。これは、逆さ縫いです。縁の刺繍を、ほどかせてください。今、ここで」
人差し指は、もう、爪の根元まで白かった。




