第二十話 三十日
王妃様は、何もおっしゃらなかった。卓の上の茶器を、黙って脇へ寄せてくださった。
ショールを卓に広げて、縁の蔓草を指でたどった。ひと巡りで、葉は四十八枚あった。
一枚目の葉の、茎の根元に針先を差し入れて、糸を一本すくう。引くと、糸は引っかかりもせずに浮いてきた。抜けた糸が指に巻きつくと、雪解けの水のように冷たかった。
二枚目にかかったところで、団長様が立ち上がった。
卓を回ってきて、私の横に膝をついた。革の手袋を、歯で引いて外した。
それから、ショールの下に手のひらを差し入れた。布と卓のあいだ、私の左手が押さえている、ちょうどその下に。
「団長様の手が、冷えます」
「いい」
布越しに、下から熱が上がってきた。団長様の指が、一度だけ、ぴくりと動いた。手は、引かなかった。
葉を一枚ほどくたびに、糸を茶の受け皿に置いた。白に近い灰色の糸が、少しずつ溜まっていく。王妃様が一度、そこへ指を伸ばして、触れる前に引っこめた。
二十枚を過ぎたころ、王妃様はご自分で暖炉に薪を足した。薪を置く音が、いつもより静かだった。
三十枚目で、針を持つ指の感覚がなくなった。持ち替えて、続けた。団長様は、ショールの下の手を、私の針の動きに合わせて、少しずつずらしていった。
四十八枚目の最後の糸を抜いたとき、受け皿の上の糸は、焼き菓子ひとつぶんの高さになっていた。
縁には、針の穴だけが残った。葉の形に並んだ、小さな穴の列だった。
毛織りの地は、どこを触っても、もう温かかった。
団長様が、ショールの下から手を抜いた。手のひらが、赤くなっていた。その手を膝の上で握って、開いた。
「母の手は、冬のあいだ、いつも冷たかった」
団長様は、縁の穴の列を見ていた。
「そういう手の人なのだと、思っていた」
王妃様が、茶碗を持ち上げた。口もとまで運んで、飲まずに下ろした。受け皿は糸で埋まっていたので、茶碗は卓にじかに置かれて、小さく鳴った。
「リゼット。これを縫った人を、知っているの」
「存じません。ただ、同じ向きに糸を通す人が、祖母の妹におりました」
ショールを、葉の穴が内側になるように畳んだ。
「春の最初の市の日に、東の関所の町で、と手紙にございました。行きます」
「春は、閲兵がある」
団長様の声は、私の言葉のすぐあとに来た。
「存じております」
王妃様は、どちらの顔もご覧にならなかった。杉の箱の薄紙を、一枚ずつ、畳み直していらした。
帰りの馬車で、団長様は、剣帯の留め具に一度も触らなかった。膝の上で両手を組んでいた。右の手のひらだけ、まだ赤かった。
約束どおり、日記のことを話した。母さんの糸の家。心臓の方へ通す糸と、反対へ通す糸。指先の白いイェルダ。冬至の市。切り取られた七枚。
団長様は、一度も口を挟まなかった。私が話し終えると、車輪が雪を噛む音だけになった。
膝の上の杉の箱の中で、ショールが、馬車の揺れに合わせてかすかに動いた。蓋の上から触っても、もう冷たくはなかった。
「ヘッセの型紙に、逆さの鳥があった」
「はい」
「新兵が、十一人倒れた」
「はい。存じております」
「閲兵が終わるまで、待てないか」
「市の日は、動きません」
「次の市がある」
「次の市においでになるとは、どこにも書いてございませんでした」
「一人では、行かせられない」
「コレットを連れてまいります」
「そういうことでは」
「では、どういうことでございましょう」
団長様は口を開いて、そのまま閉じた。組んだ手の、赤いほうの親指が、もう片方の手の甲を強く押していた。
私は、膝の上の杉の箱に両手を置いた。箱の角が、手のひらに食いこんだ。
本部の門で馬車を降りると、団長様は「閲兵の書類がある」とだけ言って、中庭を横切っていった。雪の上に、大きな足跡がまっすぐ並んだ。
私は、杉の箱を抱えて、その足跡の横を歩いた。歩幅が合わなくて、一つも踏めなかった。
被服室では、ミレイア様とコレットが、遠征帰りの外套のしずくを締めていた。
杉の箱を作業台に置くと、コレットが鉛筆を止めた。
「おかえりなさい。何か、いただいたんですか」
「団長様のお母様のショール。……春の最初の市の日に、東の関所の町へ行くことにしたの」
「三十日後です」
ミレイア様だった。針を布に刺したまま、顔を上げていた。
「東の関所の市は、雪解けのあとの最初の新月の、翌日に立ちます。父の商会が、毎年そこへ荷を出していましたので」
コレットが、壁の暦をめくって、指で日を数えた。数え終わって、ミレイア様を見た。
「……三十日です」
「それから、荷は鞄ひとつになさってください。あの関所は、鞄の数で税をかけます」
ミレイア様はそれだけ言うと、刺したままだった針を引いた。糸が、腕の長さの半分で、ぴんと張った。
夜の最初の鐘が鳴ったあと、殿下が被服室に見えた。
供はなく、手提げの灯りをひとつ提げていた。冬のあいだ、毎晩北門から歩いてきていたときと同じ格好だった。外套の袖口に、縫い目がひとつあった。まっすぐではないが、ほつれてもいなかった。
「母上から聞いた。東の関所へ行くそうだな」
「はい」
「護衛は、俺が出す」
殿下は、灯りを作業台の端に置いた。
「東の国境の向こうとは、春に使いを出す話が、去年から宙に浮いている。王太子が関所を見に行くなら、名目はいくらでも立つ。近衛から出すから、ヴァルトの閲兵には一人も手をつけない」
「殿下が、どうして」
「逆さの鳥の型紙に印を押したのは、俺だ。あの鳥を描いた者の顔を、俺も見ておきたい」
殿下は、袖口の縫い目を、親指でなぞった。
「ヴァルトには、俺から話そうか」
「私から、申し上げます」
殿下は頷いて、灯りを持ち上げた。
中庭の向こうの団長室には、夜半の鐘が鳴っても、灯りがついていた。
被服室の灯りを落として、外の階段を上がるとき、一度だけ振り返った。灯りの中を、影がひとつ、行ったり来たりしていた。書類を読む人の動き方ではなかった。
私は、そちらへは行かなかった。
部屋に戻って、ショールを膝に広げた。受け皿から紙に移してきた糸の包みは、裁縫箱の横に置いた。紙越しに触ると、まだ冷たかった。
人差し指の爪の色は、半分まで戻っていた。
隣の部屋から、コレットが寝間着に肩掛けを重ねて顔を出した。
「お姉さま。明日の朝、団長様の外套、来ますか」
私は答えずに、自分の絹糸を針に通した。一回で通った。
穴の列の、一枚目の葉の根元に、針先を当てる。首に当たる内側から、胸の方へ向けて。




