第二十一話 折り目
団長様の外套は、朝の最初の鐘より少し前に来た。
黒い毛織りが、畳まれもせずに作業台へ置かれた。団長様は、置いた手を一度だけ外套の上に残して、それから何も言わずに出ていった。二人で裾を広げることも、ほつれそうな気がする、と言うこともなかった。剣帯の金具の鳴る音がして、すぐに聞こえなくなった。
コレットが、進捗表の前で、鉛筆を持ったまま振り返った。
「来ましたね」
「来たわね」
コレットはそれ以上何も聞かずに、鉛筆の先を舐めて、昨日の欄に線を一本引いた。
外套を広げた。右袖の、肘から手首まで裏から縫った鎖目は、どこもゆるんでいない。焦げた鳥の隣の銀の鳥も、糸一本浮いていなかった。襟にも裾にも、ほつれはない。毎朝、そうだった。
裏を返して、内ポケットの縫い代を指でたどった。洗い場へ回す前に、ポケットの中のものは全部出す。ブロムさんが十五年守ってきた決まりで、私もここへ来た最初の週に教わった。
指の先で、紙が鳴った。
四つに折った紙が一枚、入っていた。取り出した拍子に、折り目がひとつ、ひとりでに開いた。
団長様の字だった。
王妃様への手紙を書きあぐねて丸められた紙を、私は開かずに焚きつけにした。そのとき、皺のあいだからのぞいていた字と、同じだった。
私は、残りの折り目も開いた。
宿駅の名前が、縦に並んでいた。東門。ザール。ミルデ。ホーエンブルク。ドルン。いちばん下に、関所。
名前の横に、時刻があった。夜半。夜明け。昼の鐘。日暮れ。どれも一度消して、書き直した跡がある。
紙の下の端に、日数の欄があった。そこだけ、鉛筆の跡が何重にも重なって、紙が毛羽立っていた。いちばん奥に「六」が透けていた。その上に「五」。その上に、消しきれていない線が何本か。最後に、太い字で「四」と書いてあった。四の右肩で、紙が破れかけていた。
私は、紙を元の折り目どおりに畳んだ。角を揃えて、内ポケットに戻した。歩いても鳴らないように、縫い代の奥まで押しこんだ。
それから、外套を畳んだ。
いつもなら、外套は、団長様が取りに来るまで作業台の端で待っている。
今日は、腕に掛けた。
昼前に、ミレイア様が上の部屋から降りてきた。
来た夜と同じ、灰色の外出着だった。髪をきつくまとめて、手には何も持っていなかった。手袋も、していなかった。
「コレットさん。肩掛けを、貸していただけますか」
コレットは、鉛筆を進捗表の溝に置いた。何も聞かずに階段を上がって、灰色がかった青の毛織りを抱えて降りてきた。父が門の詰め所で、コレットの肩に掛けていったものだった。
コレットはそれを広げて、ミレイア様の肩に回した。胸の前で、端と端を結ぶ。背が足りなくて、少し爪先立ちになっていた。
「固く結んでおきます。風でほどけないように」
「ありがとうございます」
ミレイア様は、結び目に一度だけ手を当てた。
「北の塔へ、行ってまいります。夕方の鐘までには戻ります」
門には、朝のうちに、レオ様が馬車を一台回してくださっていた。
昼の鐘が鳴る前に、外套を腕に掛けて、中庭を渡った。
団長室の前で声をかけると、返事より先に、レオ様が中から開けた。眼鏡の奥の目が、一度、私の腕の外套に落ちた。
「閲兵の割り振りは、午後にいたしましょう」
レオ様は団長様にそう言って、帳面を脇に挟んで出ていった。出ていくとき、扉を閉めずに、半分開けたままにしていった。
団長様は、机の向こうに立っていた。机の上で、閲兵の書類が三つの山になっていた。
「外套を、お返しにまいりました。ほつれは、ございませんでした」
「そうか」
団長様は外套を受け取って、椅子の背に掛けた。内ポケットのある側が、壁を向いた。
「それと、ひとつ、申し上げることがございます」
団長様は、座らなかった。私も、立ったままだった。
「昨夜、殿下が被服室においでになりました。東の関所へは、殿下が護衛を出してくださいます。近衛からお出しになるので、閲兵の方には一人も手をつけない、と。春の使いの名目で、殿下ご自身も、関所までおいでになるそうです」
団長様の目が、私の顔に止まった。
「殿下が、ご自分から団長様にお話しになると仰いました。私から申し上げます、とお答えしました。ですから、今、申し上げております」
団長様は、書類の山のいちばん上の一枚を、指で揃えた。もう揃っていた紙だった。
「そうか」
それだけだった。
私も、それ以上は言わなかった。椅子の背の外套は、内ポケットを壁に向けたまま、動かなかった。
団長様の右の手のひらは、もう赤くなかった。親指の付け根のところだけ、まだ少し色が濃かった。昨日、ショールの下で、いちばん長く私の左手の真下にあったところだった。
私は頭を下げて、向きを変えた。
「リゼット」
部屋を出る一歩手前で、呼ばれた。
「……明日も、持っていく」
外套のことだとわかるまで、少しかかった。
「はい。お待ちしております」
午後は、コレットと二人で、遠征帰りの外套のしずくを締めた。百八十一着目から、百九十着目まで。
針を持つたびに、右の人差し指の爪が目に入った。白いところは、もう爪の先に細く残っているだけだった。
夕方の鐘が鳴り終わるころ、ミレイア様が戻ってきた。
肩掛けの上に、うっすらと雪が載っていた。頬が白く、唇の色が薄かった。手袋のない手は、胸の前の結び目を握っていた。
「戻りました」
ミレイア様は、作業台の前に立った。コレットがストーブの前から丸椅子を引いてきたが、座らなかった。
「父は、痩せていました。それから、私の手を見て、手袋はどうしたのかと聞きました。要りません、と答えました」
「コレットさん。書き取っていただけますか。父の言ったとおりに申しますので」
コレットは、新しい紙を一枚、作業台に広げた。
「北の商人は、毎年、関所の市に外套の型紙を持ってきたそうです。会うたびに、同じことを言ったそうです。――印を消すな」
コレットの鉛筆が、紙の上で一度止まって、また動いた。
「なぜかは、聞かなかったそうです。父は、儲かる話の理由を聞かない人ですので」
私の左手が、裁縫箱の横の紙包みに触れていた。ショールからほどいた糸の包みだった。紙越しに、まだ冷たかった。
「それから、もうひとつ」
ミレイア様は、初めて私の方を見た。
「三年前、父は、ヘルツ銀行から、フォルン伯爵家の借金の証文を買い取っていました。銀行は、証文を売ったあとも、何も変わらない顔で、取り立ての使いを出し続けていました。父がそう頼んだので。フォルン伯爵は、今も銀行に借りているのだと、思っておいでのはずです」
コレットの鉛筆が止まった。今度は、動かなかった。
来月の二十日。父の中指の横の、インクの染み。毎晩つけている帳簿。
糸の包みの上で、私の指が、紙を少しだけ握りつぶした。
「初めてここへ伺った日、私は、父の伝言で、借金のご相談を、と申しました」
「はい。覚えております」
「あのとき、私は、自分が何を運んでいるのか知りませんでした。今日、知りました」
ミレイア様は、頭を下げなかった。まっすぐ立ったまま、結び目を握っていた。
コレットが、鉛筆を紙の上に置いた。
「じゃあ、お父様が毎晩つけている帳簿は、誰に払うための帳簿なんですか」
「私の父に、です」
ミレイア様は、すぐに答えた。
それから、結び目に爪を立てた。返そうとしているのだと、手つきでわかった。何度か引っかいたが、結び目は少しもゆるまなかった。指の先が、外の寒さで、血の気をなくしていた。
私は立って、作業台を回った。
「ミレイア様。座ってください」
ミレイア様は、今度は丸椅子に座った。
私はその前に膝をついて、結び目に指をかけた。雪を吸った毛織りは、コレットが爪先立ちで結んだときより、ずっと固く締まっていた。目打ちを使えば早い。使わずに、爪の先で、ひと巻きずつ、ゆるめていった。




