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第二十二話 持ち手

 次の朝も、外套は朝の最初の鐘より少し前に来た。


 団長様は、作業台に外套を置くと、「持ってきた」とだけ言って出ていった。昨日より、ひとこと多かった。


 内ポケットの縫い代を、指でたどった。紙は、まだ入っていた。昨日、私が押しこんだ奥に、同じ向きのまま。開かずに、袖を確かめた。

 コレットは、昨日から進捗表の隅に数字を書いている。「二十九」に線を引いて、その下に「二十八」と書いた。


 その次の朝は、外套と一緒に、レオ様が来た。

 レオ様の後ろに、知らない男の人が立っていた。四十を過ぎたくらいの、痩せた人だった。黒い上着の両肘が、机にこすれて光っている。脇に抱えた帳面は、角が四つとも丸く擦り切れていた。


「ヘルツ銀行の、クルツさんです。門で、団長と、フォルン家のお嬢様に、とおっしゃるので」


 レオ様は、眼鏡を押し上げた。


「この時刻なら、お二人ともこちらですから」


 団長様の手が、外套の上で止まった。作業台の向こうで、しずくを締めていたミレイア様の針も止まった。コレットは、鉛筆を耳に挟んだ。


 クルツさんは、帽子を胸に当てて、頭を下げた。


「突然に、失礼いたします。フォルン伯爵家のご返済の件で、上の者から言いつかってまいりました」


 帳面を開いて、指で行をたどる。読み上げる声に、上がり下がりがなかった。


「ご返済の期限は、来月の二十日でございます。伯爵家のご事情は、当行も承知しております。つきましては、このたびご婚約なさったヴァルト家のお名前で、ご保証の一筆を頂戴するように、と」


 帳面のあいだから、四つに折った紙が出てきた。署名の欄だけが空いた、きれいな清書だった。


 団長様が、手を出した。


「家の名は、父のものだ。俺の名で書く」


 クルツさんが、紙を差し出しかけた。

 私は作業台を回って、その紙の上に、手のひらを置いた。


「団長様。お待ちくださいませ」


 紙の下で、クルツさんの指が止まった。


「これは、フォルン家の借金でございます。父が借りて、父が毎晩、帳簿をつけているものでございます。団長様のお名前を、お書きいただくようなものでは、ございません」


 団長様の手は、出したままだった。


「その証文は、もう銀行のものではありません」


 ミレイア様だった。針を布に刺したまま、立ち上がっていた。

 クルツさんが振り向いて、ミレイア様の顔を見た。


「……ヘッセ男爵の、お嬢様で」


「ミレイア・ヘッセです。三年前、父がそちらの銀行から、フォルン家の証文を買い取りました。取り立ての使いを続けてほしいと頼んだのも、父です。ヘッセ商会は、審問の日から、王家の差し押さえを受けています。倉庫も、帳簿も、証文も、今は王家のお預かりです。裁きが済むまで、誰も取り立てはできません。銀行も、商会もです」


 クルツさんは、帳面を開き直した。前の方へ、何枚もめくっていく。ある頁で、指が止まった。その行を、二度、指でなぞった。

 それから、帳面を閉じた。


「……当行の帳面にも、三年前に譲渡済み、とございます」


 クルツさんは、私の手の下から、そっと紙を抜いた。四つに折り直して、帳面のあいだに戻した。


「私は、上の者から、伺ってこいと言われただけでございました。お騒がせいたしました」


 帽子をかぶり直して、もう一度頭を下げた。レオ様が、黙って先に立った。


 作業台の上に、私の手だけが残った。手のひらに、紙の角の跡が、薄くついていた。

 団長様が、出していた手を下ろした。


「軽く書くつもりでは、なかった」


「では、なおさら、お書きにならないでくださいませ」


 団長様は、私の顔を見た。それから、台の端から垂れていた自分の外套の袖を台の上に戻して、レオ様の後を追っていった。


 ミレイア様が、丸椅子に座り直した。針を引こうとして、糸が途中で絡まっているのに気づいた。ほどこうとはしないで、鋏で根元から切った。


 コレットが、耳から鉛筆を抜いた。


「ミレイア様。来月の二十日には、何が起きますか」


「何も起きません。取り立ての期限としては、もう、ありません」


 コレットは、しばらく進捗表を見ていた。


「お父様に、書きます」


 その晩、コレットは、作業台のいちばん明るいところに便箋を広げた。

 女学校の先生が写本の手本にしたいと言った字が、便箋を埋めていった。


――お父様へ。

――今日、銀行の使いの方が、本部にいらっしゃいました。

――来月の二十日は、もう来ません。

――肩掛けは、ミレイア様にお貸ししました。雪がついたので、ブロムさんが干してくれました。


「二十日は来るわよ。暦の上では」


「来ません」


 コレットは書き直さなかった。最後に自分の名前を書いて、ペンを私の方へ向けた。


「お姉さまも、何か」


 ペンを受け取って、コレットの名前の下に、一行だけ書いた。


――上から二つ目のボタンが、また取れたら、お持ちください。リゼット


 コレットは、それを読んで、何も言わずに砂をかけた。


 四日目の昼、ブロムさんが、棚のいちばん上から、帆布の鞄をひとつ下ろした。


「将校の遠征鞄だ。持ち主は、十年前に足を悪くして辞めた」


 鞄は、洗って糊を引いてあった。帆布が石鹸の匂いをさせて、作業台の上でひとりでに立った。いつ洗ったのかは、言わなかった。


 中に入れるものを、作業台に並べた。

 裁縫箱。替えの服が二枚。祖母の日記を、古い敷布の切れ端でくるんだもの。

 裁縫箱を入れただけで、鞄は半分になった。


「糸は、束のまま入れないでください」


 ミレイア様が、並べたものを一つずつ見ていった。


「関所では、鞄を開けさせられます。束ねた糸は、売り物と見なされて、税がかかります。裁縫箱の中に、使いかけのように入れておけば、通ります。それから、いちばん上には、見られて困らないものを」


 言われたとおりに、絹糸の束をほどいて、裁縫箱の段に分けた。替えの服の一枚を、棚に戻した。

 鞄の上の方に、畳んだショールが入るぶんだけ、何も入れずに空けておいた。


 最後に、ショールからほどいた糸の紙包みを手に取った。手ぬぐいで二重にくるんで、鞄の底の隅に入れた。

 ミレイア様は、それについては何も言わなかった。


 その晩、灯りを落としに降りると、ブロムさんがまだ糊の桶の前にいた。

 膝の上に、白い木綿が広がっていた。いつか棚の奥から引っぱり出した、あのいちばん白い一反だった。


 ブロムさんは、太い針で、それを縫っていた。片方しかない目を布に近づけて、ひと針ごとに、親指で縫い目の幅を測っている。測って、気に入らないと、目打ちでその一目をすぐにほどいた。ほどく手だけは、迷いがなかった。冬のあいだに、三百着ぶん覚えた手だった。


「お手伝い、しましょうか」


「これは、俺が縫う」


 ブロムさんは、顔を上げなかった。また一目ほどいて、同じところに、針を入れ直した。


 五日目の朝、外套を持ってきた団長様は、作業台の足もとの鞄に目を留めた。

 黙って持ち手をつかんで、片手で持ち上げた。一度下げて、上げて、台に置いた。


「鞄は、これひとつか」


「はい。関所が、鞄の数で税をかけますので」


 団長様は、持ち手の付け根を、親指でなぞった。


「ここが、ほつれている」


 顔を寄せると、持ち手を留めた縫い目が、二目ぶん浮いていた。

 毎朝、ほつれていない外套を広げてきた台の上で、それだけが本当にほつれていた。


「縫います」


「今か」


「今です」


 団長様は、自分の外套を台の端に寄せた。それから、ブロムさんの丸椅子を引いて腰を下ろし、鞄を膝に載せた。持ち手を、私の針が入りやすい角度に、両手でぴんと張って持った。


「もう少し、こちらへ」


 団長様は、鞄を膝に載せたまま、丸椅子ごと、ひとつぶんこちらへ寄った。

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