第二十三話 余白(ガレス視点)
外套は、朝の最初の鐘より前に、壁の釘から下ろす。
右袖の鎖目を、肘から手首まで、親指でたどる。リゼットが裏から縫った目は、遠征の四十日を越えても、一つも浮いていない。浮いていないのを確かめてから、内ポケットに指を入れる。紙は、奥にある。
あれを書いたのは、王宮から戻った夜だった。
宿駅を五つ、縦に並べた。馬車なら六日。替え馬で駆ければ、と書き直して、五。宿駅ごとの替えは四半刻で済む。夜も駆ければ、と引いて、四と書いたところで、鉛筆の先が紙を破りかけた。夜半の鐘が鳴ったのは、部屋を何往復かしたあとだった。何往復したかは、数えていない。
内ポケットの中身は、洗い場へ回す前に全部出される。ブロムが十五年、俺の外套でそうしてきた。知っていて、入れた。
次の朝、戻ってきた外套の中で、紙は元の折り目どおりに畳まれて、縫い代のいちばん奥まで押しこまれていた。俺は、あんな奥までは入れていない。
六日目の朝、被服室の進捗表の隅には「二十四」とあった。コレットの字だった。
作業台に外套を置くと、リゼットが手を伸ばした。右の人差し指の爪の先に、白いところが、糸一本ぶんだけ残っていた。
「お待ちしておりました」
「……持ってきた」
作業台の足もとに、帆布の鞄が立っていた。持ち手の付け根に、新しい目が二つ。昨日、俺が張って持っていたところだった。
閲兵の日程表は、レオが三晩かけて清書した。
団長室の机に広げると、端から端まで腕の長さがあった。閲兵は二十日後。十日前から、隊列の合わせ。前の日に、王宮から検分の役人が来る。当日は朝の鐘から昼過ぎまで、新兵百十二人を含めた全員が、北の練兵場に並ぶ。
「新兵の列は、背の順でよろしいですか。トビが、前から三番目に上がります」
「いい」
トビは、冬のあいだにまた背が伸びた。胸の上の方、襟の折り返しのすぐ下に縫った鳥が、少しのぞくようになった。本人はそれが気になるらしく、点呼のたびに、襟を立てたり伏せたりしている。
レオが、日程表の行を読み上げていく。俺は鉛筆を持って、聞いていた。
気がつくと、余白に字が並んでいた。東門。夜半。その下に、五。四半刻。四。
閲兵の日の行の、すぐ横だった。
レオの声が止まった。
眼鏡の奥の目が余白に落ちて、そこで一度止まった。レオは眼鏡を外して、上着の裾で拭いた。かけ直して、次の行を読んだ。
「閲兵の翌朝。新兵の配属替えの発表。これは例年どおり、団長から」
「……ああ」
余白の字は、消さなかった。レオも、消せとは言わなかった。日程表は、その日のうちにもう一枚清書されて、俺の字のない方が王宮へ回った。
七日目の昼、王妃陛下の使いが門に来た。
門番が、追い返しますか、と聞きに来た。待たせておけ、と言った。自分で門まで行って、封を受け取った。
――ヴァルト団長お一人で。今日のうちに。
応接間の卓には、茶も、菓子も出ていなかった。
角の擦り切れた厚い台帳が一冊だけ、開いて置いてあった。陛下の袖口に、灰色の埃が一筋ついていた。
「座りなさい」
俺は座った。陛下は座らなかった。台帳の頁に、指を一本置いていた。
「王宮の贈答品台帳よ。私が嫁いできた年の分。書記に探させれば半日で済んだのに、自分でめくったら、三日かかったわ」
陛下の指が、行をたどった。書記の、細い字だった。
「二十二年前の秋。私の婚礼の祝いに、北の国の使節から。毛織りの肩掛け、一枚。白に近い灰色。縁に、蔓草の刺繍」
指が、そこで止まった。
「最初の冬に、アデーレにあげたの。あの子は、冬になると手が冷たかったから。朝、私の髪を結いながら、陛下の首は温かいって、私の首で指を温めるような人だった。だから、あげたの。私が」
台帳の上で、陛下の指の先が、爪の色が変わるほど紙を押していた。
「使節の名は」
「書いていないわ。北の国の使節、とだけ。……礼状は、書いたはずよ。何と書いたかは、覚えていない」
首で指を温める、と聞いて、出てきたことがあった。
六つの冬だった。母は王宮から夜遅く帰ってきて、玄関で、後ろから俺の頬を両手ではさんだ。
冷たくて、声が出た。母は笑って、手を引っこめようとした。俺はその手をつかんで、両方とも、自分の脇の下に挟んだ。
百、数えた。
数え終わっても、脇の下の指は冷たいままだった。母の肩には、白っぽい灰色の肩掛けが掛かっていた。その端が、俺の耳に当たっていた。
「もういいわ、ガレス。あなたが冷えるから」
俺は、もう百、数えた。
陛下が、台帳を閉じた。真鍮の留め金が、小さく鳴った。
「それだけよ。手紙には、書けなかったの」
俺は口を開いて、陛下の手もとの留め金を見て、閉じた。
立ち上がるとき、陛下の袖口の埃を、指で払った。陛下は、払われた袖口を、もう片方の手で押さえた。
八日目の朝、リゼットの爪には、もう白いところがなかった。
九日目の朝も、なかった。進捗表の隅の数字は、俺が外套を置くたびに、ひとつずつ減っていった。
十日目の夜、夜半の鐘のあとで、中庭を横切った。
昼のあいだに半分溶けた雪が、また凍っていた。被服室に、灯りがひとつだけ残っていた。
窓の前で、足が止まった。
リゼットは、ストーブの前の丸椅子にいた。膝に、白に近い灰色の毛織りを広げていた。
針が縁から入って、布の内側へ抜ける。糸を引く手は、毎回、自分の胸の方へ戻ってきた。首に当たる側から、胸の方へ。
葉の形の穴の列が、端から少しずつ埋まっていた。埋まったところは、灯りを受けて、穴のままのところより、わずかに明るかった。
コレットは作業台に突っ伏して眠っていた。肩に、灰青の肩掛けが掛かっていた。
埋まった葉を、数えようとした。灯りが揺れて、十九から先がわからなくなった。
リゼットは、一度も顔を上げなかった。糸が短くなると、歯で切って、次の糸を取った。
内ポケットに手を入れた。紙の角が、指に当たった。
外套の肩に積もりかけた雪を払わずに、そこを離れた。
部屋に戻って、引き出しから便箋を出した。
領地の父に書くのは、北の戦から戻ったとき以来だった。三十人連れ帰りました、と一行だけ書いた。返事は、ひと冬かかって、承知した、とだけ来た。
インク壺の蓋を開けた。ペン先を浸して、壺の縁でしごいた。
王妃陛下への手紙は、五枚丸めて、一通も出せなかった。その五枚がどうなったかは、聞いていない。
父上、と書いた。
次の字のところで、紙が少しずれた。左の手のひらを、便箋の端に置いた。手のひらに、紙の角が当たった。
押さえたまま、ペン先を紙に戻した。




