第二十四話 鉛筆の粉
十一日目の昼過ぎ、イルゼさんは、洗濯場の裏から入ってきた。
作業台の端に腰かけるなり、外套の袖の中から、鉛筆を一本と、小さな刃物を出した。
「日記。春の最初の頁」
鞄の底から、敷布の切れ端にくるんだ日記を出した。出したり入れたりしているうちに、くるみ方だけがうまくなっていた。
イルゼさんは、鉛筆の芯だけを、刃物の先で削りはじめた。黒い粉が、茶の受け皿の上に、少しずつ溜まっていく。
「綿を、少しちょうだい」
中綿の袋から、指でひとつまみちぎって渡した。イルゼさんはそれを丸めて、受け皿の粉に押しつけた。
「前に言ったでしょう。性格の悪い書き手なら、下に白紙を一枚挟む。あなたのお祖母様は挟まなかった。だから、性格の悪い読み手が、こうするの」
粉をつけた綿が、春の頁の上を、撫でるように滑った。
――山を越えて、十九日目。
祖母の硬い字のまわりが、薄い灰色になっていく。その灰色の中に、粉の乗らない細い線が、白く残りはじめた。凹んだところにだけ、粉が届かないのだった。
コレットが、鉛筆と紙を持って、イルゼさんの隣に座った。
白い線は、祖母の春の字とは、傾きが違っていた。ロウエンの綴りだった。私には、形しかわからなかった。
イルゼさんは、綿を止めて、頁に顔を近づけた。
「帳面」
コレットの鉛筆が、紙の上を走った。
「……北の商人。売った。それと、ここ。イェルダには」
四つの言葉は、頁のあちこちに、ばらばらに浮いていた。あいだの字は、祖母の春の字に重なって、灰色の中に沈んでいる。
「売った」のすぐ前だけ、灰色が、ほかより濃かった。
「そこは」
「潰れてる」
イルゼさんは、綿の先で、その濃いところを軽く叩いた。
「紙の繊維が潰れて、平らになってるの。凹みが残っていない。だから粉が、全部乗ってしまう。読めないわ」
私は、白い線を、ひとつずつ見た。
帳面。イェルダが、母さんにも見せずに書きつけていた帳面。冬至の市までに仕上げる、と言っていたもの。
北の商人。逆さまの鳥の型紙を毎年持ってきて、印を消すな、と言っていった人たち。
「大叔母様が、売ったんですね」
声に出すと、それは、もう決まったことのように聞こえた。
「自分の帳面を、冬至の市で、北の商人に」
コレットの鉛筆が、止まった。
「ここ、空けておきますか。売った、の前」
「書いて。大叔母様が、と」
コレットは、私の顔を一度見てから、書いた。いつもより、少しだけ小さな字だった。
イルゼさんは、綿を受け皿に戻して、指についた粉を、紫の袖で拭いた。
「読めないものは、読めないのよ」
それだけ言って、日記を閉じた。閉じた頁のあいだから黒い粉が少しこぼれて、作業台の木目に入った。
十二日目の朝、外套を置いた団長様の目が、作業台の反対の端で止まった。
ショールを、畳まずに広げたままにしていた。ゆうべ埋めた葉が、縁の半分を少し越えたところまで並んでいる。その横に、コレットの書き取りの紙が、昨日のまま置いてあった。
団長様は、外套から手を離した。
「陛下の台帳に、あった」
針山から針を抜きかけていた指が、止まった。
「二十二年前の秋。北の国の使節からの、陛下の婚礼の祝いだ。最初の冬に、陛下が母に譲った」
それだけだった。団長様は、葉の並んだ縁を見ていた。
北の、と口の中で繰り返した。
書き取りの紙の「北の商人」が、目の端にあった。私は、ショールの縁を少し引いて、その紙の上に掛けた。
「使節の方の、お名前は」
「書いていなかった」
団長様は、まだ穴のままの葉に指を一本下ろしかけて、下ろさなかった。
「二十六枚目まで、埋まりました」
「……十九までは、数えた」
団長様は、それだけ言って出ていった。いつ数えたのかは、聞きそびれた。
十三日目の夕方、殿下が見えた。
手提げの灯りは持っていなかった。後ろに近衛がひとり、背筋を伸ばして立っていた。
「今日は、起こしてきた」
殿下が顎で示すと、近衛は、何のことかわからない顔をした。
「関所へ出す近衛は、八人。出発は、十日後の朝。東門からだ」
コレットが、進捗表の前で鉛筆を構えた。
「十日後は……二十三日目です。市の、七日前」
「馬車で六日かかる。一日、余る」
殿下は、作業台のショールに目を落とした。埋まった葉と、穴のままの葉の境目を、しばらく見ていた。
「余った一日は、雪のぶんだ。ヴァルトなら、そう言う」
コレットは、進捗表の数字の列のずっと下、まだ何も書いていないところに「七」と書いて、小さな丸で囲んだ。
十五日目の昼、門番さんが、伯爵様がお見えです、と言いに来た。
詰め所のストーブの前で、父は腰掛けに座っていた。帽子を膝に載せていたが、今日は、つばを回していなかった。
私の目は、やっぱり、父の顔より先に胸へ行った。上から二つ目のボタンは、私が四回巻いた糸のまま、きちんと留まっていた。
「……取れていない」
父はそう言って、ボタンを指で一度押さえた。
コレットが、私の後ろから入ってきた。今日は、上にいなさいとは言わなかった。
「手紙を、読んだ」
父は、外套の内側から、四つに畳んだ便箋を出した。祖母の日記が入っていた内ポケットだった。
「銀行から、書き付けが来た。当行のお取り次ぎは終わりました、と。それだけだ」
「来月の二十日は、もう来ません」
コレットが言った。手紙と、同じ言い方だった。
「……ああ。来ない」
父の手の甲は、前と同じに乾いていた。中指の横のインクの染みは、前より薄かった。
「お父様。八日後に、東の関所へ参ります。祖母の妹に、会いに」
便箋を戻しかけていた父の手が、内ポケットの上で止まった。
「……そうか」
そこへ、レオ様が入ってきた。脇に、帳面を一冊抱えていた。
「騎士団副団長の、レオと申します。伯爵様がお見えと伺いましたので」
帳面のあいだから、厚い紙を一枚抜いて、卓の上に置いた。騎士団の紋章の箔が、ストーブの火を映した。いちばん下の四角い枠の横に、鉛筆の点が、ひとつついたままだった。
「ご当主の、ご同意の欄でございます」
レオ様は、自分のペンを紙の横に置いて、インク壺の蓋を開けた。
父は、紙を見ていた。枠を見て、それから、鉛筆の点を見た。点を、長いこと見ていた。
ペンには、手を伸ばさなかった。
「戻ってきたら、書く」
「どうして、今じゃないんですか」
コレットだった。
父は答えなかった。帽子を膝から取り上げて、つばを、一度だけ回した。
私は、何も聞かなかった。卓の下で、エプロンの端を握っていた。
レオ様が、インク壺の蓋を閉めた。紙を帳面に挟み直すとき、鉛筆の点を指でこすらないように、紙の端だけを持った。
「では、ここは、最後のままにいたします」
帰り際、父は、内ポケットの上を一度押さえた。コレットの手紙が入っているところだった。
十六日目の夜、ショールの葉は、三十四枚目に入った。
ストーブの向こうでは、ブロムさんがまだ白い木綿を縫っていた。昼のうちに、布は膝から床まで届く長さになっていた。何になるのかは、まだ聞いていない。
埋めた葉のところだけ、膝の上の毛織りが、わずかに重かった。
針を縁から入れて、布の内側へ抜く。糸を引くたびに、手が自分の胸の前まで戻ってくる。
コレットは、進捗表の「十五」に線を引いて、「十四」と書いた。それから、作業台の上の書き取りの紙を取り上げた。
「お姉さま」
「なに」
「大叔母様が売ったのなら。それでも、会いに行くんですか」
糸が短くなった。歯で切って、次の糸を、腕の長さの半分に切った。
「行くわ。これを、肩に掛けて」




