第二十五話 四十八枚目
十七日目の外套の裾には、練兵場の土が、乾いて白くこびりついていた。
団長様は、外套を作業台に置くと、すぐに出ていった。閲兵まで十日を切って、隊列の合わせが夜まで続いている。
ブラシで土を落としてから、内ポケットの縫い代を指でたどった。紙は、同じ向きのまま、奥にあった。
十八日目の昼過ぎ、イルゼさんが、洗濯場の裏から入ってきた。今日は鉛筆ではなく、封をした紙を一通、紫の袖から出した。
「陛下から。ミレイア・ヘッセ宛て」
ミレイア様は、しずくを締めていた針を布に刺して、立ち上がった。封を切って、立ったまま読んだ。読み終わるのが速かった。それから、紙をこちらへ向けた。
――関所の市の案内として、ミレイア・ヘッセの同行を許す。
その下の署名は、思っていたより大きな字だった。
「参ります」
ミレイア様は、紙を畳んで、エプロンのポケットに入れた。コレットの予備のエプロンだった。膝の上までしかない丈に、まだ慣れないらしく、ポケットの位置を一度手で探した。
コレットが、進捗表の隅に並べていた名前の下に、「ミレイア様」と書き足した。お姉さま、コレット、ミレイア様。
「私のも書いておいて」
イルゼさんが、作業台の端に腰かけたまま言った。
「東方写本係として、自分で願い出たの。出発は、朝なんですってね」
心の底から嫌そうな声だった。コレットは、「イルゼさん」と、いちばん下に書いた。
十九日目の昼のお茶に、ミレイア様は、自分から洗濯場へ行くと言った。
湯気の中に、マーサさんたちが並んでいた。マーサさんが、欠けた茶碗に茶を注いで、私に渡した。二つ目の茶碗は、リーザさんの手に渡った。前のときと、同じだった。
ミレイア様は、壁際に立って、両手を前で重ねていた。手袋はしていなかった。指の先に、針の刺し跡が、いくつも並んでいた。
リーザさんが、茶碗を腰掛けに置いた。
エプロンのポケットから、丸めた毛糸のものを出して、ミレイア様の前まで歩いていった。
手袋だった。灰色の毛糸が、手首のあたりから茶色に変わっている。指の先は、五本とも、編まずに開けてあった。
「フリッツのを編んだ、残り」
リーザさんは、それだけ言った。
ミレイア様は、受け取った手袋を、しばらく両手で持っていた。それから、片方ずつ、はめた。親指の先も、人差し指の先も、外に出ていた。針を持つ形に、指を一度曲げてみていた。
「指は、出しといた」
「……ありがとうございます」
リーザさんは、腰掛けに戻って、自分の茶碗を取った。取ってから、腰掛けの端の方へ、ひとりぶん寄った。
ミレイア様は、その空いたところを見た。今度は、何も言わずに座った。
ハンナさんが、黙って、ミレイア様の膝の横に茶碗を置いた。マーサさんが、そこへ茶を注いだ。
二十日目の晩から、ブロムさんの針の音がしなくなった。
白い木綿は、畳まれて、棚のいちばん上に載っていた。何になったのかは、聞かなかった。ブロムさんも、言わなかった。糊の桶の前で、片方しかない目を細めて、自分の太い針を、針山に挿し直していた。
二十二日目の朝、外套は、いつもの時刻に来た。
「お待ちしておりました」
「……持ってきた」
団長様は、作業台の足もとの鞄に目を落とした。持ち手の付け根の、二目のところを、しばらく見ていた。それから、出ていった。
ほつれは、どこにもなかった。紙も、奥にあった。
コレットが、進捗表の「九」に線を引いて、「八」と書いた。その下の「七」には、殿下が見えた日から、もう丸がついている。
その晩、四十七枚目の葉を埋めた。
裏で糸を留めて、歯で切った。縁のいちばん端に、葉の形の穴が、ひとつだけ残った。
四十八枚目には、針を入れなかった。
膝の上のショールを持ち上げて、広げた。肩に掛けた。
毛織りが、首の後ろから、両方の肩へ落ちてきた。埋めた葉の重さが、鎖骨の上に並んだ。
「お姉さま」
作業台の向こうで、コレットが、鉛筆を止めていた。
「掛けたところ、初めて見ました」
私は、裁縫箱の蓋を閉めて、脇に抱えた。
外の階段を降りて、中庭に出た。
昼のあいだに溶けた雪が、また固くなりかけていた。中庭の向こうの団長室に、灯りがひとつついていた。影は、動いていなかった。
あの夜、私は、外の階段で振り返って、行かなかった。
灯りの方へ、雪を踏んだ。
団長室の前で、名前を言った。
少しして、「入れ」と返ってきた。
団長様は、机の前に立っていた。練兵場から戻ったばかりなのか、髪の先が少し湿っていた。机の上に、手袋が片方、裏返しのまま置いてあった。ストーブの火は、落ちかけていた。
外套は、椅子の背に掛かっていた。内ポケットの側が、壁を向いていた。
団長様の目が、私の肩で止まった。
白に近い灰色。縁の蔓草の、葉の形の列。首の側から胸の方へ、私の糸で埋めた葉が、灯りを受けて並んでいる。胸の前のいちばん端だけが、穴のままだった。
「一枚、残してまいりました。ここで、縫わせてくださいませ」
団長様は、何も言わなかった。
椅子の背から、外套を外した。空いた椅子を、灯りの下まで引いた。それから、外套を腕に掛けたまま、立っていた。
椅子に座って、裁縫箱を膝に載せた。蓋を開けると、裏に彫られた鳥が、頭を上にして灯りを受けた。
ショールは、肩に掛けたままにした。縁を胸の前に引き寄せて、最後の葉を膝の上まで持ってくる。
針を、縁から入れる。布の内側へ抜く。首に当たる側から、胸の方へ。
糸を引くと、手の甲が、自分の胸に当たった。膝に広げて縫っていたあいだは、胸の前の空気までしか戻ってこなかった手だった。
次のひと針も、その次も、同じところに当たった。
団長様は、机の端の灯りを持ち上げて、私の手もとの近くに置き直した。それきり、動かなかった。腕に掛けた外套の裾が、床につきそうになっていた。
葉の先まで来て、裏で糸を留めた。歯で切った。
縁に、葉が四十八枚、並んだ。どの葉も、同じ向きの目で埋まっていた。
肩の上で、毛織りが、さっきより少し重かった。
団長様が、外套の内ポケットに手を入れた。
縫い代の奥から、紙を出した。最初の朝に、私が押しこんだ奥だった。
机の上に、広げた。二十二日分の畳み皺で、折り目が柔らかく毛羽立っていた。東門。ザール。ミルデ。ホーエンブルク。ドルン。関所。いちばん下の太い「四」の右肩は、破れかけたまま、破れてはいなかった。
団長様は、紙の上に、手のひらを置いた。指の先が、関所の行の、日暮れの字にかかっていた。
「市の日の、日暮れだ」
私は、返事をしなかった。
団長様の手のひらの下から、紙を抜いた。
元の折り目どおりに、四つに畳む。角を揃える。膝の上の裁縫箱の蓋を、もう一度開けた。
蓋の裏には、祖母が張った布の帯がある。針を挿しておくための、色の褪せた帯だった。その下に、紙を差しこんだ。頭を上にした鳥の、すぐ下だった。
蓋を閉めた。
団長様の手は、紙のなくなった机の上に、置かれたままだった。
指の節が、白っぽかった。練兵場の夜の冷えが、まだ抜けきっていなかった。
裁縫箱を床に置いて、立った。
その手を取った。冷たかった。
ショールの縁を片手で持ち上げて、その下へ、団長様の手を入れた。首と肩のあいだに。四十八枚目の葉の、すぐ上に。
団長様の手が、一度、引こうとした。
私は、毛織りの上から、それを押さえた。
首の横で、冷たい指が、少しずつ、私の熱を持っていく。毛織りの下で、私の首の方が、先に冷えた。押さえた手は、離さなかった。
団長様の唇が、声を出さずに、小さく動いていた。同じ形を、何度も繰り返していた。数を数えるときの、動き方だった。




