第二十六話 白い外套
二十三日目の朝、最初の鐘が鳴ったとき、私は作業台の前に立っていた。
台の上には、何もなかった。ゆうべのうちに鋏も糸くずも片づけて、木目を布巾で拭いておいた。鞄は足もとで、口を閉じて立っている。
鐘の音が、本部の屋根の上を通りすぎていった。
台の上は、何もないままだった。
コレットが、階段を降りてきた。外出着の上に、灰青の肩掛けを巻いている。手に持っているのは、進捗表の鉛筆ではなく、手のひらに載るくらいの手帳だった。表紙の角が、まだ硬かった。
壁の進捗表は、「八」のまま、その下の「七」に丸がついて、そこに残っていた。
ブロムさんが、糊の桶の前から立ちあがった。
棚の前まで行って、片手を伸ばした。いちばん上に、白いものが畳んで載っている。二十日目の晩から、そこにあったものだった。
ブロムさんは、それを下ろして、作業台の上で広げた。
外套だった。
白い木綿の、裾の長い、旅の外套だった。肩には、雪を落とすための短いケープが一枚重ねてある。前は、木のボタンが六つ。袖口は、手首のところで紐で絞れるようになっていた。
丈は、私の背に合わせてあった。
「昔は、遠征に出る者の外套は、被服係が縫った」
ブロムさんは、台の向こうから言った。
「決まりだった」
手を伸ばして、肩の縫い目に触れた。
目が、揃っていなかった。広いところと、詰まったところがある。ところどころ、縫い目の脇に、針の穴だけが点々と並んでいた。一度縫って、ほどいて、縫い直した跡だった。袖の付け根には、その穴の列が三本あった。
縫い目を、両手の親指で、左右へ引いた。
布だけが張って、糸は、一本も浮かなかった。
ブロムさんは、片方しかない目で、私の親指を見ていた。
「ほつれん」
「……はい」
鞄の上の空きに入れるつもりだったショールを、出した。肩に掛けて、首の前で端を重ねた。その上から、白い外套に腕を通した。
衿ぐりが、思っていたより広かった。ショールの縁の葉が、衿の下で潰れずに、首のまわりにそのまま収まった。
「首は、広くした」
ブロムさんはそれだけ言って、糊の桶の前に戻った。桶の縁を、布巾で拭きはじめた。もう乾いている縁だった。
ボタンを、下から留めていった。六つめを留めると、ケープが肩の上で落ちついた。木綿は、糊を引いてから何度も洗ったのか、硬くなくて、雪の日の干し物の匂いがした。
コレットが、手帳を開いて、鉛筆を走らせた。何を書いたのかは、見なかった。
本部の門の前に、馬車が一台、もう回してあった。
御者台の横に、レオ様が立っていた。脇に帳面を挟んで、眼鏡の縁が、自分の息で白く曇っていた。
「おはようございます」
レオ様は、私の外套に一度だけ目を落とした。それから、黙って鞄を受け取って、馬車の後ろに括りつけた。結び目を、二度確かめた。
そのあとで、帳面を脇に挟み直した。
「団長は、夜明け前から練兵場です。隊列の合わせで」
「はい」
レオ様は、それ以上言わなかった。
建物の向こうから、号令の声が、風にちぎれて届いた。何と言っているのかは、わからなかった。
門の脇に、マーサさんがいた。
洗い桶から来たままの、赤い腕だった。腰に、空の籠を抱えている。干し場へ行く途中のような顔をしていたが、干し場は、反対の方角だった。
マーサさんは、私の外套の裾を指でつまんで、白さを確かめるようにこすった。
「汚して、帰っといで」
それだけ言って、籠を抱え直して、干し場の方へ戻っていった。
東門には、殿下が先に着いていた。
馬の上で、毛皮の衿を立てていた。後ろに、近衛が八人、二列に並んでいる。いちばん端の一人は、十三日目に殿下が「起こしてきた」近衛だった。今朝は、自分で起きた顔をしていた。
門番の詰め所の前で、イルゼさんが、紫の外套に顎まで埋まって立っていた。王宮から、ひとりで歩いてきたのだという。
馬車に乗りこむなり、いちばん奥の隅に背中を押しつけて、目を閉じた。
「話しかけないで。朝は、人間の時間じゃないの」
ミレイア様は、その向かいで、リーザさんの手袋をはめ直していた。灰色が茶色に変わる境目を、手首の上でそろえる。指の先は、五本とも外に出ていた。
殿下が、馬を馬車の横まで寄せてきた。鞍の上から、私の白い肩を見下ろした。
「白いな」
「被服係の、ブロムさんが」
「そうか」
殿下の目が、ケープの縫い目のところで止まった。揃っていない目を、端から端まで、ゆっくりたどった。自分の袖口のまっすぐでない縫い目を、手綱を持ったまま親指でなぞった。
それから、何も言わずに、馬を列の先頭へ戻した。
東門の下をくぐるとき、石の影が、馬車の中を一度だけ暗くした。
街道は、まだ半分凍っていて、車輪が轍の縁を割るたびに、座席が小さく跳ねた。
コレットは、膝の上で手帳を開いていた。揺れるたびに鉛筆の先を紙から浮かせ、揺れが止まると、また下ろした。
イルゼさんは、昼の鐘の時刻まで、一度も目を開けなかった。
ザールに着いたのは、日の暮れる少し前だった。
宿駅は、街道の両側に石の建物が向かい合っていて、あいだが広い中庭になっていた。片側が宿で、片側が馬小屋だった。
馬車が止まると、ミレイア様が先に降りた。
宿の主人が出てくるより早く、中庭の真ん中で、馬小屋の方へ声をかけていた。
「明日の朝、馬車の替えを四頭。夜明けの鐘のあとに」
それから、宿の主人の方を向いた。
「お部屋は、厨房の上を。四人で一つ。使者様に一つ。近衛の方々に、馬小屋の側を二つ」
主人が帳面を開いたときには、ミレイア様はもう言い終えていた。
私の顔を見て、ミレイア様は、手袋の開いた指先を一度曲げた。
「父の荷が、毎年ここを通りましたので」
中庭の隅で、殿下が、自分の馬の腹帯と向き合っていた。十三日目の近衛が、そばで手を出しかけては引っこめている。
「俺がやる」
留め金が、外れなかった。殿下が引くたびに、馬が横へ一歩ずれて、殿下も一歩ついていった。
「殿下。いったん、締める方へ引いてから」
「わかってる」
わかっていない手つきだった。三度目で、ようやく留め金が外れた。
殿下は、鞍を自分で抱えて、馬小屋の中へ運んだ。重さで、膝が一度沈んだ。棚に下ろしてから、殿下は、自分の手のひらを開いて見ていた。革の跡が、赤く残っていた。
「ヴァルトは、これを毎日やるのか」
「団長は、ご自分の鞍を、人に触らせないと聞いております」
十三日目の近衛が答えた。殿下は、手のひらを閉じた。そのまま、馬の首を、ぎこちなく二度叩いた。
部屋は、厨房の真上だった。床板の隙間から、煮込みの匂いと、温い空気が上がってきた。
イルゼさんは、寝台に倒れこむなり、紫の外套のまま壁の方を向いた。
「明日も、朝なんでしょう」
誰も答えないうちに、寝息になった。
ミレイア様は、手袋を外して、枕もとに、指の開いた方を揃えて置いた。
コレットは、灯りの下で手帳を開いていた。進捗表と同じ字で、「ザール」と書き、その下に「七」と書いた。丸は、つけなかった。
私は、白い外套を脱いだ。
裾に、街道の泥が、細く跳ねていた。指でこすると、乾いた泥は粉になって、木綿の目に少し残った。そのままにした。
外套を、毛布の上に広げた。
ショールを肩から外して、畳んだ。鞄の口を開けて、いちばん上の空きに入れた。灰色の毛織りの上には、何も載っていなかった。
その下から、裁縫箱を出して、膝に載せた。
蓋を開けた。色の褪せた布の帯から、紙の角が、少しだけ覗いていた。馬車に揺られて、出てきたのだった。
角に指を当てて、帯の下へ押しこんだ。紙は、帯の奥で少し撓んで、止まった。
蓋を閉めた。
裁縫箱は、鞄に戻さなかった。自分の枕もとに置いた。
灯りを落とした。
暗い中で、毛布の上の外套の衿を、引き寄せた。指の下で、揃っていない縫い目が、ひとつも浮かずに、肩の方まで続いていた。




