第二十七話 雪のぶん
ミルデの宿駅は、ザールより小さかった。
中庭は馬車が一台回れば塞がるほどで、宿の部屋には、寝台が二つずつしかなかった。
ミレイア様が宿の主人に部屋のことを言い終えるより先に、イルゼさんが、紫の袖を持ちあげた。
「私は、この子と」
指の先は、ミレイア様を向いていた。
「寝言を言わなさそうだから」
ミレイア様は、一度だけ瞬きをして、「はい」と言った。
私とコレットは、廊下の向かいの部屋になった。コレットは、鞄を下ろすより先に手帳を開いて、「ザール」の下に「ミルデ」と書き、その下に「六」と書いた。
夕食のあと、イルゼさんの部屋に呼ばれた。
小さなストーブの前で、ミレイア様が寝台の端に座っていた。
「関所の町のこと、この子に聞くの。あなたたちも聞きなさい。私は、一度で覚えたいから」
コレットが、手帳のいちばん後ろの頁を開いて、鉛筆と一緒にミレイア様へ差しだした。
ミレイア様は、少し迷ってから、頁の下の端に、短い横線を一本引いた。
「ここが、関所の門です。荷改めを抜けると、まっすぐ一本、秤通り。両側に、秤所と両替屋が並びます」
線が、上へ伸びた。途中の右側に、小さな四角がひとつ。
「父の商会の荷は、毎年、ここでした。秤所の向かいの、三軒目。軒下を借りて、荷車ごと並べるんです」
縦の線は、横に引いた二本の線にぶつかって止まった。
「川です。塩橋という石の橋があって、渡ると左が羊毛の門。糸や毛織りの店は、だいたい、その内側に小さく固まって出ます」
鉛筆の先が、橋を渡って、左ではなく右へ折れた。川に沿って、細い線が続いた。
「こちらが、鍛冶屋小路。入ってすぐに井戸がひとつ。少し行って、もうひとつ」
ミレイア様は、二つ目の井戸の丸の手前に、小さな点を打った。
「北の商人の店は、ここに立ちました。毎年、同じ場所です。二本目の井戸の、前」
「店の形は」
イルゼさんが聞いた。
「竿に幕を一枚下げただけの店でした。荷は、ほとんど出ていませんでした」
「幕の色は。印は」
「わかりません」
鉛筆が、点の上で止まった。
「私は、荷車から降りるなと言われていました。秤所の向かいから見えたのは、川向こうの井戸と、幕の端と、父の背中だけです。父は、毎年、ひとりで塩橋を渡っていきました」
イルゼさんは、「そう」とだけ言った。それ以上は聞かなかった。
コレットが手帳を受け取って、二つ目の井戸の横に「鍛冶屋小路」と、小さく書き足した。秤通りの三軒目には、何も書かなかった。
夜のうちに、雪になった。
二十五日目の朝、中庭は白く埋まっていた。馬車の車輪が、半分まで見えなかった。
馬小屋の主人が、この先の峠は昼まで通れないと言いに来た。
イルゼさんは、それを聞くなり、外套を頭までかぶり直した。
「出なくていい朝って、あるのね」
昼の鐘の少し前に、殿下が、肩に雪を載せたまま宿の土間へ入ってきた。毛皮の衿の先が、凍って固まっていた。
「雪のぶんだったな」
誰に言ったのでもない声だった。
ミレイア様が、手袋から出た指を、一本ずつ折った。
「今日のうちに出て、ホーエンブルクに着くのが夜です。峠のあとの道は、雪が締まるまで、馬が速く歩けません。ドルンの手前で、一晩、余計に要ります」
指が、四本目で止まった。
「関所の町に着くのは、二十九日目の夕方です。市の、前の日になります」
殿下は「そうか」と言って、衿の雪を手で払った。払いきれなかった分が、土間の上で溶けた。
コレットが手帳を開いた。今朝書いた「五」の横に、小さく「二十九」と書いた。その下に、線を一本引いた。
馬車は、昼過ぎにミルデを出た。
峠の手前の窪みで、右の車輪が雪の下の轍にはまって、動かなくなった。
馬車を軽くするために、四人とも降りた。白い外套の裾が、膝の下まで雪に沈んだ。雪の下は、泥だった。裾を持ちあげたときには、白いところより、茶色いところの方が多くなっていた。
近衛が後ろへ回って、馬車を押した。
三度目に押したとき、車体が前へ大きく揺れた。いちばん端にいた近衛の肩が、荷台の金具に引っかかった。乾いた音がした。
車輪は、窪みを抜けた。
その近衛は、自分の右肩に手をやって、裂け目の端を指でつまんでいた。十三日目に、殿下が起こしてきた近衛だった。
「ディルク」
年かさの近衛が、名前を呼んだ。
「平気です。縫い目のところですから」
肩の縫い目が、袖の付け根の手前まで、手のひら一枚ぶん口を開けていた。中の綿入れの裏地が、白く覗いていた。
ホーエンブルクに着いたのは、日がすっかり落ちてからだった。
二十六日目の朝、夜明けの鐘のあと、宿の土間で、ディルク様の外套を膝に広げた。
土間は、中庭に向かって半分開いていた。奥の東の壁に、大きな炉があった。替え馬を待つあいだ、近衛たちは炉のまわりで手を炙っていた。
私は、炉の前の腰掛けに座った。背中に、中庭の冷えが当たった。背中の側が、来た道だった。
裂け目の両側を、指で揃えた。もとの糸の切れた端が、毛羽立っていた。ほどけかけた古い目を、目打ちで一つずつ抜いていった。
ディルク様は、外套のない肩をすくめて、炉の横に立っていた。
「騎士団の繕い物係に縫ってもらうと、外套に鳥がつくというのは、本当ですか」
炉の向こうで、別の近衛が、手を炙りながら言った。
「黒の鬼の外套の鳥が、北の戦で矢を止めたんだろう。三本」
「五本と聞いたぞ」
「新兵は、全員、襟に鳥をもらったそうだ。従兄弟の、厩番の友だちが言ってた」
年かさの近衛が、鼻で笑った。笑ってから、私の手もとを、ちらりと見た。
糸を引く手に、少し力が入った。引きすぎた一目を、戻した。
ディルク様が、裂けていない方の肩を、少し前に出した。
「その……私の肩にも、ひとつ」
「肩の縫い目を、縫わせていただきます」
針を、裂け目の端に入れた。表から裏へ。裏から半目戻って、表へ。
「一本です」
コレットだった。炉の脇の木箱に腰かけて、膝の上に手帳を開いていた。「ホーエンブルク」の下に、もう「四」と書いてあった。
「矢は、一本です。三本でも、五本でもありません。新兵も、全員じゃありません。一人だけです」
近衛たちが、コレットの方を向いた。コレットは、鉛筆を握ったまま、顔を上げていた。
「コレット。鋏を」
コレットは、手帳を閉じて、裁縫箱から鋏を出した。刃を閉じて、私の膝の横に置いた。
まだ、切る糸はなかった。
そのとき、鐘が鳴った。
宿駅の外れの、小さな聖堂の鐘だった。ひとつ目の音が、土間の梁の下を通っていった。
炉のまわりの近衛たちが、話をやめた。手を炙っていた者が、炉から手を引いた。年かさの近衛が、外套の前を合わせて、背を伸ばした。
「始まったな」
誰も、答えなかった。
背中の側の中庭で、替えの馬が鼻を鳴らした。殿下の声は、しなかった。
私は、針を入れた。
ひと目。
鐘の、ふたつ目が鳴った。
ふた目。糸を引く。裂け目の両側の布が、寄って、合わさる。
三目。四目。
鐘の数は、数えなかった。目を、数えた。
五目。六目。針の先が、炉の火で温まった布に、抵抗なく沈む。七目。
鐘が鳴りやんだとき、裂け目は、半分まで閉じていた。十一目だった。
土間の誰も、しばらく口をきかなかった。炉の薪が、一度はぜた。
膝の上の外套から、顔を上げなかった。
十二目。糸を引く。
十三目めの針を、布に入れた。




