第二十八話 先触れ(ガレス視点)
二十六日目、外套を壁の釘から下ろしたのは、夜明けの鐘より、まだずっと前だった。
右袖の鎖目を、肘から手首まで、親指でたどった。浮いている目は、ひとつもなかった。
内ポケットに指を入れた。
何も当たらなかった。縫い代のいちばん奥まで入れると、布の底に指先が届いた。紙は、二十二日目の夜から、そこにない。
外套は、腕に掛けずに、そのまま着た。三日前から、そうしている。
中庭を横切るとき、被服室の前を通った。
灯りは落ちていた。窓の硝子越しに、ストーブの黒い胴と、作業台の角と、壁に貼った進捗表の白さだけが見えた。
数字は、ここからは読めなかった。読めなくても、わかっていた。「八」。その下の「七」に、丸。
三日前から、ひとつも減っていない。
硝子に映った自分の外套の肩を見てから、練兵場へ下りた。
練兵場には、篝火が六つ焚いてあった。
霜の降りた土の上に、隊ごとの列が、端から少しずつ組みあがっていった。号令は、まだ誰もかけていない。踏まれた霜の鳴る音と、鼻をすする音だけがしていた。
新兵の列は、背の順だった。前から三番目に、赤い頭があった。
トビは、襟を立てていた。
俺が前を通ると、伏せた。三歩過ぎたところで、後ろで、また布の擦れる音がした。
引き返した。
トビは顎を引いて、目だけで俺を見上げた。見上げる角度が、冬の初めより浅かった。
「団長。立てますか。伏せますか」
声が、去年の秋より低くなっていた。
「伏せろ」
トビの指が、襟の端にかかった。かじかんで、折り目がうまく決まらなかった。二度やり直して、三度目に、指が止まった。
俺は手を伸ばして、襟を折った。
厚い毛織りの下で、指の腹に、糸の盛りあがりが触れた。小さな鳥だった。頭が、上を向いていた。翼の先の細かい目まで、ひとつも浮いていなかった。
朝の鐘が鳴った。
練兵場の端から端まで、話し声が消えた。新兵百十二人と、その後ろに並んだ全員が、背を伸ばす音がした。
俺は、襟から手を離さなかった。
折り目を、親指で、首の後ろから前へ向かって押さえていった。鳥の頭が、襟の縁から爪の先ほどだけ覗くところで、止めた。
鐘が鳴りやむまで、そこを押さえていた。
鳴りやんでから、手を離した。トビは、鼻から長く息を吐いた。俺は列の先頭へ戻った。
国王陛下の検分は、昼の鐘の少し前だった。
陛下は馬を降りず、役人を三人連れて、列の前をゆっくり進んだ。王太子殿下の馬が並ぶはずの左側は、空いていた。陛下は、そちらへ一度だけ目をやって、すぐに前を向いた。
新兵の列の前で、陛下の馬が止まった。
王の目が、前から三番目の襟に落ちた。
「それが、噂の鳥か」
トビの喉が、上下に動いた。
「一羽だけです」
俺が答えた。
王は、髭の下で短く息を吐いて、手綱を緩めた。馬が、また歩きだした。
検分は、それで済んだ。
隊列が練兵場を一周して、旗が降ろされたのは、昼の鐘からしばらくしてだった。
列を乱した者は、一人もいなかった。役人たちの馬が門を出ていくと、新兵の列のどこかで、誰かが小さく笑った。それを叱る声は、どこからも上がらなかった。
団長室に戻ると、レオが先にいた。
机の上に、紙が一枚、載っていた。明朝の、新兵の配属替えの表だった。百十二人の名前が、日程表と同じ字で並んでいた。
いちばん下に、欄が二つあった。読み上げ、の欄には、レオの字で、副団長、と書いてあった。署名の欄だけが、空いていた。
俺はペンを取って、自分の名を書いた。
レオは、インクが乾くのを待ってから、紙を取った。帳面のあいだに挟んで、脇に抱え直した。
それから、壁の地図の方へ顔を向けた。
「ザール、ミルデ、ホーエンブルク、ドルン。どの宿駅にも、替えの馬を一頭ずつ空けておくよう、先触れを出してあります」
地図の上の、東へ延びる街道の線を、レオは見ていた。
「十日前に」
レオは、それ以上、何も言わなかった。一礼して、背を向けた。
「レオ」
レオが、振り向いた。
俺は、その先を言わなかった。レオは、少しのあいだ待っていた。それから、もう一度だけ頭を下げて、出ていった。
礼を、言っていなかった。
日の暮れる前に、門番が封書を一通持ってきた。
領地からだった。宛名の字を見て、父の字だとわかった。
十日目の夜に書いた手紙は、父上、のあとに、二行しか続かなかった。婚約しました。相手は、リゼット・フォルンです。それだけを、次の朝、自分で門の使いに渡した。
前の返事は、ひと冬かかった。今度は、十六日だった。
封を切った。
便箋の真ん中に、一行だけあった。
――連れてこい。
父の字は、前より右へ傾いていた。最後の払いが、紙の端近くまで流れていた。インクは一度で引いてあって、書き直した跡はなかった。
便箋を、元の折り目どおりに畳んだ。外套の内ポケットに入れた。縫い代のいちばん奥まで、指で押しこんだ。
布の上から、一度だけ押さえた。
夕食は、食堂で、新兵と同じ鍋から取った。ハンネスの煮込みは、今日も底が焦げていた。トビは、焦げたところを匙で集めて、黙って食べていた。襟は、伏せたままだった。
部屋に戻って、鞍に油を引いた。
鞍袋には、水筒と、乾いたパンと、地図を入れた。机の端に、手袋が片方、二十二日目の夜から裏返しのまま載っていた。表に返して、もう片方と揃えて、それも入れた。
ほかに要るものは、思いつかなかった。
ストーブの火を落として、灯りを消した。
夜半の鐘の少し前に、厩へ下りた。
鞍は、自分で載せた。腹帯を締めると、馬が息を吸って、腹をふくらませた。吐くのを待って、もう一段締めた。
轡をはめて、手綱を引いて、中庭を出た。本部の建物は、どこも暗かった。
東門の篝火は、ひとつだけ焚いてあった。
門番の詰め所の横に、ブロムが立っていた。
洗濯場の前掛けの上に、古い軍の外套を羽織っていた。片方しかない目は、篝火の方ではなく、俺の外套の右袖を見ていた。
馬を止めた。
ブロムは、前掛けのポケットから手を出して、俺の手のひらに、何かを載せた。
木のボタンだった。親指の先ほどの大きさで、削り跡が残っていた。二つの穴に、白い木綿の糸の切れ端が、短く残っていた。
「予備だ」
ブロムは、手を前掛けに戻した。それきり、何も言わなかった。
ボタンを、内ポケットに入れた。父の便箋の隣に、並べて置いた。
鐙に足を掛けて、鞍に上がった。
外套の前が合わさると、左の胸に、小さく硬い丸が、ひとつ当たった。
門番が、閂を外した。重い木の擦れる音が、暗がりに長く響いた。
馬が、首を東へ向けたがって、蹄を一度、踏みかえた。
手綱を、短く持ち直した。




