第二十九話 糸屑
ドルンの宿駅に着いたのは、二十七日目の、日が傾きかけたころだった。
馬小屋が中庭の三方を囲んでいて、どの仕切りにも、湯気を上げる馬がいた。
ミレイア様は、馬車を降りると、宿の主人より先に、馬小屋の親方を探した。
「明日の朝、替えを四頭。夜明けの鐘のあとに」
親方は、桶を下ろして、仕切りを端から指でたどった。指は、いちばん奥の栗毛だけを飛ばした。
「あれは出せません。一頭、空けとけと言いつかってるんで」
「はい。では、手前の四頭を」
ミレイア様は、それ以上聞かなかった。
栗毛は、仕切りの奥で、干し草に鼻を埋めていた。背には、何も載っていなかった。
部屋に上がると、コレットが手帳を開いて、「ドルン」と書いた。
ドルンを出ると、道は川に沿って下りになった。
雪は、日の当たる斜面から先に消えていた。白い道が、茶色と黒の道になった。
二十八日目の昼すぎ、馬車の行く手の、空の低いところに、白い線が一本、横に引かれていた。雲だと思っていたが、夕方になっても、形が変わらなかった。
「山です」
ミレイア様が言った。
「関所の向こうの。あれを越えると、糸の町のある谷だと、父の荷を運んでいた人たちが言っていました」
イルゼさんが、頭巾の下で片目だけ開けて、白い線を見た。
「十九日」
それだけ言って、また目を閉じた。
私は、膝の上の両手を、袖口の中へ入れた。指は、冷えていなかった。
二十九日目の夕方、関所の門の前で、馬車が止まった。
石の壁に、荷車一台ぶんの口が開いていた。その前に、荷車と、人と、ロバが、堰に溜まった水のように詰まっていた。市の前の日は、毎年こうなのだと、ミレイア様が言った。
荷改めは、門をくぐった内側の、屋根だけの土間だった。台が三つ並んでいた。
私たちの番になると、ディルク様が、馬車の後ろから鞄を下ろして、真ん中の台に載せた。
役人は、灰色の髭の、背の低い人だった。帆布の口紐をほどいて、両手で口を広げた。
いちばん上に、ショールがあった。
役人は、二本の指で端をつまんで持ち上げた。縁の葉が、吊るした灯りの下に並んだ。
役人の目は、葉の上を、ただ通り過ぎた。畳みもせずに、台の端へ置いた。
次は、裁縫箱だった。役人は中の糸巻きと針山を、指先でつついた。出発の前に、束をほどいて、使いかけのように巻き直しておいた糸ばかりだった。役人は、裁縫箱を脇へ寄せた。
替えの服を持ち上げ、日記の包みを押しのけて、手が、鞄の底へ入った。
手が、止まった。
次の瞬間、引っこめられた。炉の縁に触れたときのような速さだった。
役人は、その指を、自分の上着の胸で二度こすった。目が、鞄の底の隅へ向いていた。道中の揺れで手ぬぐいが一枚ずれて、紙の白が、指一本ぶん覗いていた。
「これは」
「糸屑です」
ミレイア様だった。私より先に、私の横から言った。
役人は、ミレイア様の顔と、指先の開いた手袋を見た。それから、自分の指を、もう一度、上着でこすった。
口紐は、役人が自分で締めた。
「鞄、ひとつ」
帳面に、そう書いた。
嘘ではなかった。ほどいた糸は、糸屑だ。冷たいというだけで。
台の端のショールを取って、畳んだ。鞄はもう締まっていたので、腕に掛けた。
土間の奥では、殿下が、関所の長だという人と向き合っていた。
白髪の人だった。殿下の書状を両手で受け取り、封蝋を確かめてから、深く頭を下げた。
「春のお使いと、承りました。遠いところを、ようこそ」
「国王の名代として、東の隣国へ、雪解けの挨拶を届けに参った。市の日を挟んで、三晩、町に置いていただく」
殿下の声は、まっすぐ出ていた。一度も裏返らなかった。
関所の長は、宿の名を言い、近衛の馬は関所の厩で預かると言った。殿下は、どちらにも「頼む」とだけ返した。
それで、済んだ。関所の長はもう一度頭を下げて、奥へ戻っていった。
殿下は、空になった懐を手のひらで一度押さえてから、こちらへ来た。
「どうだった」
誰に聞いたのか、わからなかった。ミレイア様が答えた。
「二か所、言い回しが古うございました。二十年ほど」
「母上の昔の挨拶状を、写してきた。俺が自分で書くと、長くなる」
殿下は、それだけ言って、厩の方へ歩いていった。近衛が手綱を受け取りに出ても、今日は、払わなかった。
宿に荷を置いて、空が明るいうちに町へ出た。
ミレイア様が先に立ち、コレットが手帳の最後の頁を開いてその横についた。後ろに、殿下の言いつけで、ディルク様がついた。
秤通りは、まっすぐだった。
両側の秤所と両替屋が、軒先に灯りを吊るしはじめていた。軒下では、明日のための荷車が荷を下ろしていた。樽を転がす音と、知らない訛りで数を数える声がした。
ミレイア様が、右側の一軒の前で止まった。秤所の向かいの、三軒目だった。
軒下には、塩の袋を積んだ荷車が一台、入っていた。
ミレイア様は、その荷車を、少しのあいだ見ていた。
「ここから、井戸は見えませんね」
「暗くなってきましたから」
「いいえ。去年までは、荷車の上から見ていたんです。高かったので」
ミレイア様は、外套の前を一度だけ合わせて、また先に立った。
秤通りの突き当たりが、川だった。
塩橋は、思っていたより短かった。
ミレイア様は、橋の手前で一度だけ止まってから、渡った。
渡ってすぐの左手に、羊毛の門があった。
石の柱二本に、木の梁が一本渡してあるだけの門だった。内側の路地の両側で、人が竿に毛織りや糸の束を掛けていた。脂の抜けきらない羊毛の匂いがした。
梁の下で、足が遅くなった。
軒に下がった布の印を、端から見ていった。羊の頭。糸巻き。三本の線。鳥は、なかった。半分ほどの店は、まだ竿しか立てていなかった。
「明日よ」
イルゼさんが、私の肘を、軽く押した。
鍛冶屋小路は、橋を渡って右だった。
炉の熱が頬に来た。軒先の台に、鍋や蹄鉄が並んでいた。金槌の音が、通りの両側から少しずつずれて鳴っていた。
一本目の井戸は、小路の入り口にあった。
少し行って、二本目の井戸があった。
その前は、空いていた。
両隣の鍛冶屋が台を張り出しているあいだに、井戸の前だけ、人がひとり横になれるほどの土が残っていた。竿も、幕も、なかった。昼に溶けた雪がまた凍って、土の上で薄く光っていた。
「去年は、この時刻には、もう竿が立っていました」
ミレイア様が言った。
イルゼさんが、土の端にしゃがんで、手袋を外した指で地面をなぞった。親指ほどの穴が二つ、腕の長さほど離れて開いていて、どちらにも氷が詰まっていた。
「去年の穴ね」
イルゼさんは、手袋をはめ直して立ち上がった。膝についた泥は、払わなかった。
コレットが、手帳の二本目の井戸の丸に、鉛筆の先を当てた。ミレイア様が打った点を、上から一度、なぞった。
私は、腕のショールを、反対の腕に掛け替えた。
宿の部屋は、コレットと二人だった。
宿の灯りがみな落ちても、眠れなかった。
寝台の上に起き上がって、ショールを肩に掛けた。夕方から腕に掛けていたせいで、毛織りには、肘のかたちの癖がついていた。
閲兵は、三日前に済んだはずだった。持っていく先のない外套は、団長室の釘に、掛かったままだろうか。
隣の寝台で、コレットも起きていた。小さな灯りの下で、手帳を膝に開いていた。
「二」の下に、「一」と書いた。
横に一本引くだけの字を、コレットは、端から端まで、ゆっくり引いた。手帳は閉じずに膝に置いたまま、灯りを吹き消した。
暗くなると、町の音が近くなった。
鍛冶屋小路の方から、金槌がひとつだけ、まだ鳴っていた。やがて、それもやんだ。
かわりに、もっと低い、鈍い音がした。土に何かを打ちこむ音だった。三つ。間を空けて、また三つ。
どの通りからなのかは、わからなかった。
ショールの中で、膝を抱えた。音は、それきり鳴らなかった。耳だけが、まだそちらを向いていた。




