第三十話 竿
三十日目の朝、宿の前の通りは、もう歩けなかった。
荷車が、関所の門から秤通りの突き当たりまで、切れずに続いていた。
ミレイア様は、宿を出るとすぐ、秤所の向かいの両替屋に入った。出てきたときには、小さな革袋をひとつ、殿下の手に載せていた。
「こちらの銅貨です。大きい方が、小さい方の十二枚ぶんです」
今朝の殿下は、飾りのない茶色の上着を着て、髪を帽子に押しこんでいた。袖口に、歪んだ縫い目が一列、覗いていた。ディルク様たちが、少し後ろからついてきた。
私は、ショールを肩に掛け、その上に、ブロムさんの白い外套を着ていた。広く取った衿ぐりから、縁の葉が、首のまわりにぐるりと覗いていた。
塩橋を渡った。羊毛の門の内側には、どの店にも布が下がっていた。羊の頭。糸巻き。三本の線。端から端まで、二度見た。鳥は、なかった。
鍛冶屋小路は、炉の火を落として、台に鍋を並べていた。
一本目の井戸を過ぎた。
二本目の井戸の前に、竿が二本、立っていた。
竿のあいだに横木が渡してあって、布が一枚、下がっていた。生成りの麻に、焦げ茶の糸で、鳥が一羽、刺してあった。
頭が、下を向いていた。
祖母が小刀で彫った鳥と、同じ形だった。向きだけが、違った。
足が止まった。
二本目の井戸の前。ミレイア様がコレットの手帳に点を打った場所だった。北の商人が、毎年、店を出す場所。
私は、コレットの手首をつかんで、自分の後ろへ引いた。コレットは逆らわなかった。殿下の足も、私の横で止まっていた。
「荷が、あります」
ミレイア様が、私の肩越しに言った。
「父が言っていました。北の商人の店には、竿と幕しかない、と。物を並べない店だ、と」
竿の下に、低い台が据えてあった。平たい籠に、糸の小さな束が、色ごとに寝かせてあった。生成り。茜。藍。くすんだ緑。
台の後ろの腰掛けに、年寄りの女が一人、座っていた。
イルゼさんが、竿の根もとにしゃがんだ。
足もとの土は、掘り返されたばかりで、まだ凍っていなかった。すぐ横に、去年の穴が二つ、氷を詰めたまま並んでいた。
「新しい穴ね」
三つ。間を空けて、また三つ。昨夜の、あの音だった。
女は、膝の上で、糸を紙の札に巻いていた。
小さな人だった。頭巾から白い髪が少しだけ出ていて、背は、まっすぐだった。
糸を巻く指の、先だけが白かった。十本とも、第一関節のところで、色が切れていた。粉をはたいたような白だった。
――イェルダの指先が、また白い。コレットの字で紙に並んだ祖母の日記の一行を、私は覚えていた。
女が、顔を上げた。
私の顔は、見なかった。目は、私の首のあたりで止まった。白い外套の衿ぐりから覗いている、縁の葉だった。
巻きかけの糸が、膝から垂れた。女は、拾わなかった。
腰掛けから立って、台を回って、私の前まで来た。
右手が上がった。白い指先が、いちばん手前の葉に向かってきて、触れる前に、止まった。糸一本ぶんの隙間を残したまま、葉の目の上を、ゆっくり動いた。首の側から、胸の方へ。
私は、動かなかった。後ろで、コレットの指が、私の外套の背をつかんでいた。
「マルグリットは」
低い、かすれた声だった。母音が、少しだけ長かった。
「糸を、胸の方へ引く子だった」
白い指が、下りた。
女は腰掛けに戻って、垂れた糸を拾い、また札に巻きはじめた。
「リゼット・フォルンと申します」
声が、自分で思っていたより、固く出た。
「祖母マルグリットの、孫でございます。お手紙を頂戴いたしまして、まことにありがとう存じました」
外套の背で、コレットの指が、つかみ直された。
女は、糸を巻く手を止めなかった。
「イェルダ」
それだけだった。
殿下が、私の横から、台の前へ出た。
帽子のつばの下から、イェルダさんの顔を、長いこと見ていた。イェルダさんは、顔を上げなかった。
殿下は、台の端の籠から、生成りの束をひとつ取った。
「これを、もらう」
「銅貨、三枚」
殿下は、ミレイア様に朝渡された革袋から、銅貨を一枚ずつ出した。大きい方を一枚出して、イェルダさんに、黙って押し戻された。小さいのを三枚、台に並べ直した。
糸の束を、自分の袖口の、歪んだ縫い目の横に当てた。色は、ほとんど同じだった。
「顔は、見た」
私にだけ聞こえる声で言って、殿下は糸を懐にしまった。それから、ディルク様たちの方へ下がっていった。
昼のあいだ、私は、台の横に立っていた。
イェルダさんは、台の下から腰掛けをもうひとつ出して、私の方へ押した。私は座らなかった。その腰掛けには、コレットが座った。
客は、途切れなかった。イェルダさんは、束の端をつまんで差し出した。客の手には、一度も触れなかった。
子どもが籠をかき回して、藍と緑が混ざった。コレットが、黙って、色ごとに分け直した。三度目からは、イェルダさんが、籠をコレットの膝の前へ押しやった。
イルゼさんは、鳥の布を、鼻がつくほど近くで眺めていた。
私は、イェルダさんの指を見ていた。
白い指が、糸を札に巻いていく。くるり、くるりと、手前から向こうへ。私なら、向こうから手前へ巻く。祖母も、そうだった。
帳面。北の商人。売った。
鉛筆の粉の中に白く浮いた字を、思い出した。白い指は、同じ速さで糸を巻いていた。
私は、外套の上から、肩のショールの端を押さえた。
日が傾くと、鍛冶屋小路の台が、端から畳まれはじめた。
イェルダさんは、籠を重ねて台の下へ入れた。腰掛けに上がって、横木から鳥の布を外し、四つに畳んで、懐に入れた。竿は、立てたままだった。
「明日も、ここにいる」
私の方は、見なかった。
「……かしこまりました」
私は、深く頭を下げた。いつもより、ひと呼吸ぶん長く。
塩橋を渡って、秤通りを戻った。
関所の門の上の空が、赤かった。
紙の上の、日暮れ、の字を、思い出した。門の方は、見なかった。
日暮れの鐘が鳴った。門番が、閂の太い木を、二人がかりで抱え上げた。
そのとき、門の外で、蹄の音がした。
一頭だった。
閉まりかけた門のあいだを、栗毛の馬が、首を低くして入ってきた。腹から下が、泥で黒かった。
馬上の人は、鞍から降りた。地面に足が着いたとき、膝が一度、沈んだ。鐙を握ったまま、少しのあいだ、そこに立っていた。
黒い外套の、右の袖。肘から手首まで、泥の下に、鎖目の列が、うっすら盛りあがっていた。
私が、裏から縫った目だった。
その人が、こちらを向いた。
顔の下半分が、無精髭に覆われていた。頬骨の下が、出発の前より削げていた。目の縁が赤く、唇が乾いて割れていた。頬に跳ねた泥が乾いて、白くひびになっていた。
紙の、日数の欄の、太い「四」。右肩で、紙が破れかけていた。
団長様は、左の胸を、外套の上から、一度だけ押さえた。
私より先に、殿下が動いた。人のあいだを抜けて、栗毛の前へ行き、手綱を取った。
「鞍は、俺が外す」
団長様は、殿下の顔を見た。それから、手綱から手を離した。
殿下は、栗毛の首を一度叩いて、関所の厩の方へ引いていった。
ミレイア様が、コレットとイルゼさんの腕を、片方ずつ取った。
「宿の夕食の数を、直してまいります」
三人の背中が、人混みの向こうへ遠ざかった。コレットが一度だけ振り返って、ミレイア様に腕を引かれた。
団長様が、歩いてきた。
一歩ごとに、外套の裾から、乾いた泥が粉になって落ちた。
私の前で、止まった。
目が、私の首もとへ落ちた。縁の葉と、その上の、白い外套の衿を見た。それから、私の顔を見た。
「……日暮れだ」
声が、かすれていた。
私は、返事をしなかった。
両手を上げて、団長様の頬を、両側からはさんだ。
冷たかった。手のひらに、髭が刺さった。乾いた泥が、指の下で、ぽろぽろと崩れた。
団長様は、動かなかった。目が、少しだけ見開かれて、それから、ゆっくり伏せられた。
「汚れる」
「汚して帰ってこいと、言われておりますので」
手のひらの下で、頬の冷たさが、少しずつ薄くなっていった。団長様の手が上がって、私の手の甲に重なった。手袋の革は、まだ冷たかった。
その手は、私の手を、頬から離させなかった。




