第三十一話 二目
閂が受け金に落ちる、重い音。
それで、手が離れた。離したのは、団長様の方だった。私の手の甲から手袋がどいて、宙で止まる。どこへ下ろせばいいのか、わからない手。
私の手のひらには、乾いた泥の粉が、ざらりと残っていた。
「宿は、こちらです」
団長様は、うなずいた。
歩きだすと、一歩ごとに、膝がわずかに遅れる。私は、歩幅を半分にした。並んで歩くと、二人ぶんの足音が、秤通りの石の上で、やっと揃う。
宿の食堂は、土間に長い卓が二つ。炉に、大きな鍋がかかっている。
奥の卓の端に、皿が六枚、並べてあった。五枚は揃いの木皿で、六枚目だけ、縁の欠けた陶の皿。椅子も、それだけ隣の卓から引いてきたものだった。
「女将のグレーテさんに、これしか残っていないと言われまして」
ミレイア様が、その椅子を、炉にいちばん近いところまで押した。
団長様は、外套を着たまま座った。座った拍子に、裾から、泥の粉がまた落ちる。
羊と蕪の煮込み。黒パンが、籠にひとつ。
団長様が、匙を取った。皿の底が、見る間に見えてくる。女将さんが黙って二杯目をよそうと、それも同じ速さで減っていく。パンの籠は、いつのまにか、団長様の前へ移っていた。移したのは、コレットの手だった。
イルゼさんが、向かいの席から、その手もとを眺めていた。
「馬が、気の毒ね」
団長様は、匙を止めずに、うなずいた。
三杯目の途中で、匙が止まった。
団長様の顎が、ゆっくり、胸の方へ落ちていく。匙は、指に引っかかったまま。汁が一滴、卓に落ちる。
誰も、声をかけなかった。コレットは、自分のパンを持ったまま、口を開けていた。ミレイア様が、卓の上の灯りを、そっと団長様から遠ざけた。
炉の薪が、はぜた。
顎が、跳ねるように上がった。団長様は匙を握り直し、何事もなかったように、残りを口へ運んだ。
女将さんが、卓の真ん中に、平たい皿を置いた。
「市の日だけ焼くんですよ。蜂蜜の」
薄い焼き菓子が、扇のかたちに並んでいた。
団長様の手が、皿の手前で、一瞬だけ止まった。
それから、一枚。水を一口含んで、また一枚。噛む顎の動きが、煮込みのときより、少し遅い。
皿が空くまで、誰も手を出さなかった。ミレイア様は、はじめから両手を膝の上に置いていた。
空の皿を下げに来た女将さんが、目を丸くした。
「あらまあ。お好きなんですねえ」
団長様は、口の中のものを飲みこんでから、答えた。
「……蜂蜜の、味がした」
女将さんは、笑って皿を下げていった。
嘘のつけない人だ。
殿下が戻ってきたのは、そのあとだった。
茶色の上着の袖が、肘までまくれていた。手首から先が赤く、爪のあいだに泥が詰まっている。髪に、藁が一本。帽子は、後ろについてきたディルク様が、両手で持っていた。
「栗毛は、洗ってきた。脚だけだが」
殿下は、空いた椅子を引いて座った。
団長様が、匙を置いた。
「……助かった」
「鞍は、一度で外れた」
殿下は、それだけ言って、パンの籠に手を伸ばした。籠は空だった。
コレットが、自分の皿のパンを、半分にちぎって差し出した。
卓が片づいて、人が二階へ上がりはじめてから、私は団長様の横に立った。
「外套を、お預かりいたします」
団長様は、私の顔を見た。それから、首もとの留め金を外した。
腕に受けると、重い。泥の重さ。
宿の裏は、薪置き場と、厩へ続く細い通路。軒に、角灯がひとつ。
女将さんに、毛の硬いブラシを借りた。馬のですよ、と言われた。
外套を、薪の山に広げて掛ける。
泥は、乾ききっていた。裾は、ほとんど板。
水は、使わない。濡らせば泥が毛織りの奥へ戻ると、ブロムさんが言っていた。乾いた泥は、乾いたまま落とせ。
ブラシを当てる前に、内ポケットに手を入れる。洗い場へ回す前に、ポケットの中身は出す。ブロムさんの決まり。
指に、紙が触れた。四つ折りの、あの紙ではない。もっと薄い、上等の便箋が、二つに畳んである。その奥に、小さくて固いものが、ひとつ。
便箋は、薪の山の乾いたところに置いた。開かなかった。
固いものは、手のひらに載せた。
木のボタンだった。
角灯の下へ持っていく。表に、小刀の削り跡が、斜めに並んでいる。穴のひとつに、白い糸の切れ端が、爪の先ほど残っていた。
自分の外套の前を、見下ろした。
白い外套の、木のボタン。上から順に、指で触れていく。ひとつ。ふたつ。六つ目まで、どれも、ちゃんとそこにある。
いちばん上のボタンの横に、手のひらのボタンを並べた。
木の色が、同じ。削り跡の斜めの向きも、同じ。穴に残った糸は、白い木綿。親指で幅を測って、気に入らない目はすぐにほどいて縫い直した、あの糸と同じ。
ボタンを、便箋の上に置いた。転がらないように、折り目の谷に沿わせて。
それから、ブラシを取った。
裾から。毛並みに逆らわず、上から下へ。乾いた泥が、粉になって、薪の上に落ちていく。縫い目に詰まった泥は、ブラシでは出てこない。指でつまんで、揉んで、崩す。爪のあいだは、すぐに黒くなった。
右の袖。肘から手首までの鎖目の列に、泥が埋まっている。目をひとつずつ、爪の先でほじる。私が裏から縫った目。どれも、ほつれていない。
黒い毛織りの上に、鎖目の列が、もとどおり浮かんでくる。
背中には、蹄が跳ね上げた泥が、点々と散っていた。
厩の方で、どこかの馬が、鼻を鳴らした。
食堂に戻ると、炉の前に、団長様だけが残っていた。
長椅子に浅く腰かけて、膝に肘をついている。目は、開いていた。
外套を畳んで、両手で差し出す。その上に、便箋とボタンを載せて。
「ポケットの中のものです。出しておきました」
団長様の目が、ボタンの上で止まった。それから、便箋へ移る。
「……読んだか」
「いいえ」
団長様は、外套を膝に受けた。便箋を取って、二つ折りのまま、少しのあいだ持っていた。
それから、自分の指で開いた。
開いた便箋を、私の方へ向ける。
「父だ。……婚約したと、書いた」
便箋の真ん中に、一行だけ。右へ傾いた、太い字。
連れてこい。
書き直した跡は、どこにもなかった。
私は、便箋を見ていた。それから、団長様の顔を見た。炉の火が、無精髭の片側だけを赤くしていた。
団長様の手から、便箋を取った。もとの二つ折りに戻す。
膝の上の外套の、左の前身頃をめくった。内ポケットの口を広げて、便箋を入れる。その奥へ、ボタンを。
自分の衿の裏に、針が一本、いつも刺してある。黒木綿が、通してある。
ポケットの口の、右の端。表に響かないよう、裏地だけをすくって、一目。左の端に、もう一目。
二目。指で引けば、すぐにほどける留め方。
糸を、歯で切った。
団長様は、私の手もとを、最後まで見ていた。何も言わなかった。
針を衿の裏へ戻してから、長椅子の端に腰を下ろした。団長様とのあいだに、外套一枚ぶんの隙間。
「団長様に、まだ申し上げていないことが、ございます」
団長様が、こちらを向いた。
「出発の前に、イルゼさんが、祖母の日記を、鉛筆の粉でこすりました。切り取られた頁の、次の頁を」
炉の中で、薪が崩れた。
「凹みだけが、白く残りました。読めたのは、言葉がいくつかだけです。帳面。北の商人。売った。イェルダには」
膝の上の自分の手を、見ていた。爪のあいだに、外套の泥が、まだ残っている。
「大叔母様が、売ったのだと思います。ご自分の帳面を、冬至の市で、北の商人に」
団長様は、黙っていた。
「今日、一日、あの方の台の横に立っておりました。腰掛けを出していただいて、座りませんでした。糸を巻く指を、ずっと見ておりました。先が、白い指です」
言い終えても、団長様は、何も言わなかった。
大叔母様のことも、日記のことも、売ったという字のことも。
かわりに、手が伸びてきた。私の右手を取って、手のひらを下に向けさせる。親指が、私の爪のあいだの泥を、一度だけ、こすった。
落ちなかった。
「明日も、たぶん、座れません」
団長様の親指が、止まった。爪の上に、置かれたまま。
「……俺も、立つ」




