第三十二話 首巻き
イェルダさんの目が、団長様の右の袖で止まっている。
肘から手首まで、黒い毛織りに浮いた鎖目の列。昨夜、私が爪の先で泥をほじり出した目。
団長様は、台の端に立ったまま動かない。今朝、髭を当たってきた。顎の下に、刃の当たった細い赤い線がひとつ。唇の割れは、まだ塞がっていない。
イェルダさんの視線が、鎖目を肘から手首まで、一度だけたどった。それから、糸を巻く手に戻った。何も言わなかった。
殿下は朝から、イルゼさんを連れて、関所の長のところへ行っている。古い荷改めの帳面を、蔵から出してもらうのだという。
市の二日目は、初日より荷車が少ない。そのぶん、人の足が遅い。籠の前で立ち止まり、束をつまみ、光にかざして、また戻していく。
コレットは、昨日と同じ腰掛けで、籠の糸を色ごとに揃えている。ミレイア様は台の前に立って、値を聞く客に、イェルダさんより先に銅貨の数を答えていた。
「それを」
イェルダさんが、顎で、私の首もとを指した。
「台に、広げな」
自分では、手を伸ばさない。
白い外套の木のボタンを、上から外していく。脱いだ外套は、団長様の腕が受けた。肩からショールを下ろし、籠を脇へ寄せた台の上に、端から広げる。
白に近い灰色の毛織り。縁に、私の糸で埋めた葉が、四十八枚。
イェルダさんの指が、隅をひとつ、つまんだ。葉の列が尽きた、そのさらに内側。
裏返す。
灰色の地に、灰色の糸。
親指の爪ほどの、小さな鳥。
頭が、下を向いている。
王妃様の応接間で、四十八枚の葉を、一枚ずつ裏から見た。ほどいて、穴を数えて、埋めた。団長室で、最後の一枚を縫った。そのあいだ、この隅を何度、指で押さえたかわからない。地と同じ色の糸は、一度も目に引っかからなかった。
人差し指で、触れる。
冷たくない。
肩から下ろしたばかりの毛織りの、ぬくみがそのまま残っている。縁の葉の糸に触れたときの、指の芯へ刺さってくるあの冷たさが、どこにもない。
衿の裏には、いつもの針が刺してある。私の手は、そこへ行かなかった。
「これは、大叔母様の」
「わたしの鳥だ」
それだけだった。イェルダさんは、隅をもとどおりに返した。
団長様は、台の端に手を置いていた。私の外套を腕に掛けたまま、何も言わない。
ショールを肩に戻して、外套を着る。ボタンを、下から留めていく。いちばん上で、指が一度すべった。
昼の鐘より少し前、小路の奥から、女の人が走ってきた。
前掛けの紐がほどけて、後ろへなびいている。胸に、小さな子。二つか三つ。頬も額も、首まで赤い。目は半分閉じたまま、口で息をしている。
「婆さま」
隣の鍛冶屋の、おかみさんだった。昨日、台の前を通るたびに、イェルダさんへ会釈していた人。
「朝から、下がらないんだよ」
イェルダさんは、もう腰掛けから立っていた。台の下に手を入れて、紙の包みをひとつ出す。開くと、細長い布。子どもの首にひと巻きするほどの長さで、生成りの地に、刺し目が細かく詰まっている。
イェルダさんが、布の端を返した。
裏の目が、全部、同じ向きだった。心臓の、反対へ。
隅に、焦げ茶の糸で、頭を下にした鳥が一羽。
私の手が、先に動いていた。
イェルダさんの手首を、つかんでいた。
細い。指の輪の中に、骨の形がそのまま当たる。昨日、この人が客の手に一度も触れなかったのを、私は見ている。
イェルダさんは、振りほどかなかった。私の顔を見た。市に来て、初めて、まっすぐに。
「熱のある子にだけだ」
子どもの喘ぐ息が、すぐそばにある。
指を、ほどいた。
おかみさんが、あたりを見回した。いちばん近くに立っていた、いちばん大きな人の胸へ、子どもを押しつける。
「ちょいと、持ってておくれ」
団長様だった。
左の腕に子どもの尻を載せ、右の手のひらで背中を支える。慣れた抱き方ではない。けれど、腕は少しも揺れない。
イェルダさんが、子どもの首に布を巻いた。結ばずに、端を襟の内側へたくしこむ。
それから、半刻ほど。
団長様は、台の横に立ったまま、一歩も動かなかった。子どもの熱い頬が、黒い外套の衿に押しつけられている。小さな手が、団長様の顎の、剃刀の跡のあたりをつかんで、離さない。
おかみさんは、台の角を握っていた。ミレイア様が、その肩に手を置いて、客には自分で銅貨を受け取っていた。
イェルダさんは、子どもの顔だけを見ている。
赤みが、額から引いていく。頬の色が、ゆっくり薄くなる。口で吸っていた息が、鼻へ移る。顎をつかんでいた手が、ほどけて、外套の衿の上に落ちた。
寝息。
イェルダさんの手が、すぐに布を外した。子どもの首から抜いて、紙の上に置き、端から折って包む。白い指先が、紙の角を揃えた。
おかみさんが、両腕を差し出す。団長様が、子どもを渡す。
渡し終えてからも、団長様の腕は、しばらく、子どもを抱いていた形のまま下りなかった。衿に、小さなよだれの染みがひとつ。あの衿は、宿に戻ったら、私が拭いておこう。
隣の炉の方から、大きな男の人が来た。
革の前掛け。まくった袖から出た両の前腕に、古い火傷の痕が、縄目のように這っている。おかみさんの腕の中を覗きこんで、子どもの額に、手の甲を当てた。
それから黙って、竿の根もとへ行った。
肩に担いでいた金槌を下ろし、竿の根を叩く。
三つ。
間を空けて、また三つ。
もう一本の竿も、同じように。
この町に着いた夜、寝床の中で聞いた音。
「ウドだ」
金槌を肩に戻しながら、男の人は、団長様に向かって言った。
「昼になると、土がゆるむ。夜のうちに、また凍るんだがな」
竿を、手のひらで押して確かめる。びくともしない。
「婆さんは、毎年、羊毛の門のいちばん奥に出すんだ。今年は、ここがいいと言いだした。おかげで、夜中に叩かされた」
イェルダさんは、腰掛けに戻って、紙の包みを膝に載せていた。その上で、糸を札に巻いている。手前から、向こうへ。
「どうして、ここに」
自分の声だった。
イェルダさんの手が、止まる。
「ここに来るやつの顔を、見たかった」
巻きかけの糸が、また動きだした。
朝のうちに、ミレイア様が小路を端から端まで歩いて確かめている。竿と幕だけの店は、昨日も、今日も、どこにも出ていない。二本目の井戸の前で足を止めるのは、糸を買う客ばかり。
団長様の手は、台の端に戻っていた。
日が傾くと、小路の台が、端から畳まれていく。
イェルダさんは腰掛けに上がって、横木から鳥の布を外し、四つに畳んだ。コレットが、分けた束を、籠の中に色の順で寝かせていく。生成り、茜、藍、くすんだ緑。イェルダさんは、その順を崩さずに籠を重ねて、台の下へ入れた。
ウドさんは、炉の前から、こちらを見ていた。
「今夜、ウドの家に来な」
何を、とは言わない。ウドさんが、顎で炉の奥を指した。
台の上が、空になる。
最後に、イェルダさんが、膝の上の紙の包みを取った。私の方へ、差し出す。
両手を出した。
客の手には触れない人の指が、包みだけを、私の手のひらに置いていく。
昼から、もう何刻も経っている。
紙の向こうから、手のひらへ、温かさがじわりと移ってくる。




