第三十三話 綴じ目(コレット視点)
背中が、温かい。
壁の向こうは、ウドさんの炉。鍛冶場のいちばん奥を、厚い垂れ布で仕切っただけの部屋で、市のあいだはイェルダさんが借りているのだという。寝台がひとつ。卓がひとつ。腰掛けが三つ。
そのうちのひとつを、私は知っている。昨日と今日、市の台の下から出てきた腰掛け。脚の一本だけ、色の違う木で継いである。お姉さまのために出されて、二日とも、私が座っていたもの。
今夜も、イェルダさんは、それをお姉さまの方へ押した。お姉さまは、また座らなかった。炉の壁に寄って、立っている。
壁の向こうで、鞴が鳴っている。吸って、吐いて、また吸う。ときどき、低い声がひとつ。ウドさんのか団長様のか、壁が厚くて聞き分けられない。
ミレイア様と殿下は、宿に残った。イルゼさんは、寝台の端に腰かけている。
卓の上には、お姉さまが鞄から出した包み。敷布の切れ端をほどくと、角の丸い革表紙が出てくる。留め金は、片方だけ。
私は、膝の上で手帳を開いた。最後に書いた数字は「一」。その頁に、四つに畳んだ紙を一枚、挟んできた。
十一日目に、被服室で書いた紙。帳面。北の商人。売った。イェルダには。その「売った」の前に、私の字で、大叔母様が。
自分の字なのに、そこだけ、ほかより小さい。
イェルダさんが、寝台の下から平たいものを出して、卓に置いた。
油紙の包み。手のひらを二つ並べたくらいの大きさで、十字に紐がかけてある。油紙は茶色く焼けて、角がすり切れていた。
紐の結び目に、封蝋がひとつ。
鳥。頭が、上を向いている。
お義母さまが燃やせと言った夜、私が胸に抱えて、お姉さまの部屋まで運んだ裁縫箱。その蓋の裏に、おばあさまが小刀で彫った鳥と、同じ形だった。
表に、宛名が一行。ロウエンの古い綴りで、私には読めない。それでも、形は知っている。イルゼさんが日記を読んでくれた日、隣で何十回も見た形。イェルダ。
結び目は、黒ずんで固まっていた。紐の撚りの溝にまで埃が入りこんで、そのまま石のようになっている。一度ほどいた結び目には、紐に折れ癖が残る。お姉さまに教わったことだ。この紐には、それがない。
イェルダさんの白い指先が、包みの端を押した。卓の上を、お姉さまの方へ。指は、そこで包みから離れた。
お姉さまが、壁から離れて、卓の前まで来た。
包みには、触らない。
かわりに日記を取って、頁を繰る。秋の頁。字が急に小さくなるところ。その次を開くと、もう春。
あいだの綴じ目に、細い紙の端が、七つ並んでいる。
お姉さまは、開いたままの日記を、包みの横に置いた。
イェルダさんが、前掛けの物入れから鋏を出した。握りの黒い、小さな鋏。
刃が、封蝋のすぐ横で、紐を噛む。ぷつ、と乾いた音。もう一本。
鳥の蝋は、割れなかった。結び目ごと、輪になった紐のまま、卓の端へ転がっていく。
油紙が、開かれる。
黄ばんだ紙が、七枚。
おばあさまの字だった。イルゼさんが汚いと言った字。秋の頁よりも、もっと小さい。
お姉さまが、私を見た。
手帳を膝から下ろして、一枚目の端をつまむ。紙は乾いて、軽い。
切り口を、綴じ目に残った端に寄せる。
まっすぐに見える切り口にも、刃の進んだぶんだけ、ほんの少しの揺れがある。揺れと揺れが、噛み合う。
二枚目。端に、インクがひとしずく、にじんでいる。綴じ目に残った細い端にも、そのにじみの続き。
三枚目。四枚目。
五枚目と六枚目は、一度、取り違えた。入れ替えると、合った。
七枚目。
七枚とも、合った。
七枚目は、ほかより行が少ない。上の方に三行。それから、紙の真ん中より下に、離れて一行。
次の頁、春の最初の頁は、十一日目のまま、薄く灰色をかぶっている。鉛筆の粉の中に、白い線が浮いている。
七枚目を、その頁の隣に並べた。
白い線のあった場所に、インクの行がある。
字は読めない。けれど、形は覚えている。イルゼさんが綿の先で指して、売った、と言った形。あの日、私が鉛筆を止めたところ。
その、すぐ前。灰色が潰れて読めなかった場所に、短い言葉がひとつ。そこだけ、インクが濃い。ペン先が割れて、線が二本に分かれるほど、強く押してある。
イルゼさんが、寝台の端から身を乗り出した。紫の袖が、灯りを横切る。
「この一行だけ、読むわ」
誰も、返事をしなかった。
「イェルダの帳面を、北の商人に、わたしが、売った。イェルダには、言えない」
イルゼさんは、それで口を閉じた。上の三行には、目も向けない。
私は、手帳から畳んだ紙を抜いて、広げた。
大叔母様が。
鉛筆の先を、その頭に当てる。横へ、一本。
定規はない。それでも、線は、まっすぐに引けた。
上にも、横にも、何も書き足さなかった。
イェルダさんが、七枚を手もとへ引き寄せた。
一枚目から。白い指先が行の頭に置かれて、ゆっくり、行の終わりへ動く。次の行の頭へ戻る。また動く。
誰も、話さない。
お姉さまは、卓の角に立ったまま。左手が、右の人差し指を握っている。
イルゼさんは、膝の上で両手を組んでいる。
白い指が、二枚目へ。三枚目へ。
壁の向こうで、鞴が止まった。
吸う音も、吐く音もしない。炉の中で燠の崩れる音だけが、壁を通って、小さく背中に来る。
白い指が、七枚目の、離れた一行の上で止まる。
長いあいだ、止まっている。
それから、七枚の角を、指先で揃えた。
「あの冬、母さんの薬は、切れなかった」
低い、かすれた声。母音が、少しだけ長い。
イェルダさんの目は、紙の上にあった。誰の方も、見ていない。
お姉さまが、卓の角を離れた。
脚を継いだ腰掛けの前で、一度だけ止まって、座った。
継いだ脚が、きし、と小さく鳴った。
膝の上で、両手が重なる。
イェルダさんが、手を出した。手のひらを上にして、日記の方へ。
お姉さまが、日記を開いたまま押しやる。
前掛けの物入れから、針が一本と、生成りの糸を巻いた札が出てくる。市で、殿下が銅貨三枚で買ったのと、同じ色の糸。イェルダさんは、札から糸を腕の長さの半分だけほどいて、歯で切った。
腕の長さの、半分。お姉さまが、私に最初に教えた長さ。
糸は、一度で針の穴を通った。
日記が、私の前へ向けられる。
「押さえな」
両手のひらで、日記の左右の頁を押さえた。綴じ目が、指のあいだで上を向く。
イェルダさんが、一枚目を、綴じ目に残った細い端に重ねる。針先が、残った端と、戻ってきた頁を、まとめて刺す。
糸を引く。手前から、向こうへ。
市で、糸を札に巻いていたのと同じ向き。お姉さまとおばあさまは、逆に巻く。
一枚目の端に、生成りの目が、ひとつ、またひとつ並んでいく。目の幅は、どれも同じ。
二枚目が綴じ目に戻り、三枚目が戻る。
背中の壁が、少しずつ、ぬるくなっていく。鞴は、止まったまま。
お姉さまは、腰掛けの上で身を乗り出していた。膝の上で、重ねていた両手がほどけている。
四枚目の端を、針が抜けた。
生成りの糸が、すうっと引かれていく。私の手のひらの下で、頁が、ほんの少し引っぱられる。
針先が、五枚目の端に当たる。紙の繊維を割って、入っていく。




