第三十四話 左の翼
革の背表紙が、卓の端から端まで、横倒しに積まれている。
どれも角が欠けて、綴じ紐は、山の下の方ほど黒い。灯りの熱で、蔵の匂いがゆっくり立ちのぼってくる。黴と、乾いた埃と、古い蝋。
「市の帳面は、これで全部です」
関所の長が、最後の一冊を山の上に載せた。白い髪を、寝起きのまま手で撫でつけてある。ベンノ、と名乗った。
夜明けの鐘には、まだ間がある。
イルゼさんは、紫の外套を頭からかぶって、卓の向こうの椅子に沈んでいた。目は半分も開いていない。それなのに、帳面をめくる手だけは、誰よりも速い。
「春の市は、どの年も、最初の頁」
開いた一冊が、卓の上を滑ってくる。
横に線を引いた欄。名。来た方角。荷。鞄の数。
イルゼさんの爪が、一行を叩いた。
「ヴォルケ。北から」
荷の欄に、毛皮、とだけ。
次の冊にも、その次にも、同じ名がある。年が変わるたび、書いた役人の字が変わる。尖った字。丸い字。終わりの方で震えている字。それでも、その行だけは、毎年同じ綴りで、北から来ている。荷は、毛皮。
イルゼさんが、山の下の方から一冊を抜いた。紐が、ほとんど炭の色。指で頁を送って、止める。
「ここから」
ヴォルケ。北。毛皮。
その下に、同じ行へ押しこむように、もうひとつ。
型紙 一束。
イルゼさんが、前の年の冊を隣に開いた。毛皮だけ。その前の年も、毛皮だけ。
ベンノさんが、表紙の年を、太い指で一冊ずつ押さえていく。押さえるたびに、唇が動く。
「五十三年前の、春ですな」
卓の上に、祖母の日記はない。昨夜、イェルダさんの手もとに置いてきた。
それでも、頁の順番は、指が覚えている。秋の頁。綴じ目の切り口が七つ。それから、春の最初の頁。山を越えて十九日目。
イルゼさんは、山を上へ上へと崩していく。
型紙 一束。
型紙 一束。
何十冊めくっても、その行は抜けない。抜けていくのは、毛皮の方。数が、少しずつ細る。終わりの十年ほどは、荷の欄に、型紙の一行しかない。
いちばん上の一冊は、表紙がまだ白かった。綴じ紐も、新しい麻。
おとといの市の頁。インクが、まだ黒く光っている。イルゼさんの指が、名の欄を上から下までたどる。
ヴォルケは、どこにもない。
ずっと下の方に、私にも読める字で、イェルダ。東から。糸。鞄、二つ。
殿下が、卓の端に紙を広げた。
「写す」
誰に言うでもなく、ペンにインクを含ませる。
年。ヴォルケ。北。毛皮。型紙 一束。
殿下の字は、大きい。一年ぶんで、紙の幅がもう足りない。手もとが、殿下自身の影で暗くなる。団長様が、灯りの皿を取って、殿下の肘のそばへ置き直した。
かがんだ拍子に、黒い外套の前が開いた。内ポケットの口の、両端。黒木綿の二目が、留めたときのまま、そこにある。
十年ぶんを写したところで、ペン先が紙の下の端に届いた。殿下は、ペンを持ったまま、余白のない紙をにらんでいる。
ベンノさんが、黙って立った。壁ぎわの箱から紙の束を出して、殿下の肘の横に置く。
殿下は、二枚目に移った。字は、小さくならない。
「全部、写す気?」
イルゼさんが、外套の中から言った。
「母上に、見せる」
夜明けの鐘が鳴ったとき、殿下は四枚目に入っていた。ベンノさんは、紙の束をもう一つ、箱から出してきた。
鍛冶屋小路は、まだ半分、影の中にある。殿下は、ベンノさんの部屋に残って、五枚目を写している。
二本目の井戸の前に、竿はもうなかった。地面に、穴が四つ。去年の二つには氷が詰まったまま。今年の二つは、土が掘り返されて黒い。
ウドさんの炉には、もう火が入っていた。鞴が、ゆっくり鳴っている。
イェルダさんは、籠を積んだ手押し車の横で、脚を継いだ腰掛けに座っていた。私たちを見ると立ち上がって、腰掛けを、足で私の方へ押す。
座った。
継いだ脚が、きし、と鳴る。
手押し車の向こうで、団長様の目が、腰掛けの脚から私の膝へ移った。それから、何も言わずに、井戸の方へ逸れた。
膝の上に、敷布の包みが置かれた。
ほどく。角の丸い革表紙。留め金は、片方だけ。
秋の頁を開く。字が、だんだん小さくなっていく。その次。
春ではない。
黄ばんだ紙が、七枚。綴じ目に沿って、生成りの糸の目が、端から端まで並んでいる。どの目も、同じ幅。最後の目の先で、糸は裏へ回って、小さな玉に結ばれていた。爪の先ほどもない玉。
頁を、指で送る。一枚目。二枚目。七枚目。それから、鉛筆の灰色をかぶった、春の最初の頁。
もう一度、秋から送った。どこにも、引っかからない。
読めない綴りの行が、指の下を、順に過ぎていく。
コレットが、私の肩ごしに覗いていた。息が、耳の後ろにかかる。
イルゼさんが、外套の袖から、薄い紙を一枚抜いた。四つに折ってある。
「王都を出る前に、写してきたの。審問の型紙の、隅の鳥」
初めて聞く話。
広げると、鉛筆の細い線。針の入った穴が、一つずつ点で打ってある。点と点を、短い線がつなぐ。親指の爪ほどの鳥。頭が、下。
小路を風が抜けて、紙の端がめくれかけた。団長様の指先が、その角を押さえた。
イェルダさんは、写しを一度だけ見た。
手押し車の籠から、生成りの布の切れ端を出す。前掛けの物入れから、針と、焦げ茶の糸。
それきり、写しの方は見ない。
針が、布の端に入る。手前から、向こうへ。頭。胸。右の翼。左の翼。尾。
迷った目が、ひとつもない。
糸を歯で切って、布を、写しの横に置いた。
並べると、同じ鳥。
私は、左の翼の目を数えた。布の上で、九つ。写しの点を、人差し指で一つずつ押さえて数える。九つ。
尾の目。胸の目。頭の下を回る、小さな三目。
違うところが、どこにもない。
「父は」
ミレイア様だった。指先の開いた手袋の手が、写しの端に触れている。
「父は、毎年、印を消すなと言われていました」
イェルダさんの目は、布の鳥の上にある。
「五十年、誰も直さなかったのね」
イルゼさんは、写しを畳みもせずに、そう言った。
イェルダさんは、何も言わなかった。黒い握りの鋏を出して、布の端に残った糸の尻を、ひとつ切った。
それから、手押し車の籠の、いちばん上のを下ろした。
中から、糸の束を取り出す。生成り。茜。藍。くすんだ緑。市の初日に、混ざっていたのをコレットが分け直した束。束ねた紐の結び目が、コレットの結び方のまま残っている。
イェルダさんは、それを、コレットの両手に載せた。
コレットは、手のひらを上に向けたまま、しばらく動かなかった。
それから、頭を下げた。深く。束を胸に抱えたまま、膝が少し折れるほど。
顔を上げると、手帳を開いて、頁と頁のあいだに、一色ずつ寝かせていった。手帳が、閉じきらずに膨らむ。
小路の入り口で、馬が鼻を鳴らした。
ドルンから乗ってきた栗毛が、井戸の柱につないである。泥は、殿下がおとといの晩に落としたまま。腹の毛が、まだところどころ固まっている。
団長様が、手綱を柱からほどいた。
「ドルンまでは、これで横を行く」
小さな声だった。
うなずいた。日記を、敷布でくるみ直す。結び目は、イェルダさんの結んだのを、そのまま使った。
腰掛けから立つ。
イェルダさんの白い指先が、籠の縁にかかっていた。籠の中で、糸の束が、色の順に寝ている。
ウドさんの話では、この人の店は、毎年、羊毛の門のいちばん奥にある。
「来年の春の市にも、来ます」
声が、市の初日よりも、ずっと低く出た。
「羊毛の門の、いちばん奥に」




