第三十五話 予備
三十三日目、ドルンで栗毛を返した。親方は、腹の毛に残った泥を見て、黙って首を二度叩いた。そこから先、団長様は馬車の中。イルゼさんの膝と私の膝のあいだに、長い脚を斜めに折って座る。イルゼさんは「狭いわ」と一度だけ言って、あとは目を閉じていた。ホーエンブルクの宿の土間では、ディルク様が、行きに私が縫った右肩を見せに来た。一目も、浮いていなかった。峠の泥は、行きよりも乾いて、轍の縁で白く粉を吹いていた。ミルデには、もう雪がない。
帰り道の最後の晩、ザールの中庭。
馬車が止まる。先に降りた団長様が、こちらへ両腕を伸ばした。御者が出しかけた踏み台は、その足もとで止まったまま。
腰に手が回って、体が浮く。白い外套の前が、黒い外套の胸に押しつけられる。足が、中庭の泥に下りた。
ぷつ、と小さな音。
離れていく団長様の剣帯の、留め具。そこに白い糸が一本、引っかかって揺れていた。その先には、何もない。
自分の前を見下ろす。上から三つ目。穴だけになった場所から、糸の切れ端が二本、垂れている。
泥の上を、目で探した。蹄の跡。轍。踏み荒らされた藁。
団長様が膝をついて、手袋のまま泥をさらう。ミレイア様とコレットが、かがむ。殿下は手綱をディルク様に預けて、轍の溝を、端から指で崩していった。
木のボタンは、泥と同じ色。日が、宿の屋根の向こうへ沈んでいく。
私は、立ち上がった団長様の前へ行った。
黒い外套の、左の前身頃をめくる。内ポケットの口の、右の端と左の端に、黒木綿の目がひとつずつ。関所の宿の炉の前で、私が留めたまま。
衿の裏から針を抜いて、右の目の下に、針先をくぐらせる。引くと、ほどけた。左も。
指を入れる。便箋の角の、奥。小さくて、固いもの。
団長様は、膝の泥も払わずに、立っていた。
手のひらに、木のボタン。斜めの削り跡。穴に残った、白い木綿の切れ端。
衿の裏の針には、黒木綿しか通っていない。
コレットが、膨らんだ手帳を開いた。頁のあいだに寝かせた束から、生成りを一本、抜いて差し出す。
「腕の長さの、半分」
糸を通して、外套の三つ目の場所に、ボタンを当てる。自分の胸の上で縫うと、針の向きが逆になる。布が、たわむ。
団長様の手が、外套の前の端を取った。左右に、張る。私の胸から、こぶし一つぶん離して。
張られた布は、針先を素直に受けた。四つの穴に、二度ずつ。根もとに、糸を四回巻く。
団長様の指の節で、中庭の泥が乾きかけている。
玉を結んで、糸を歯で切った。
団長様の手が、布から離れた。内ポケットの口は、開いたまま。便箋の角が、少し覗いている。
私は、もう留めなかった。団長様が、指先で便箋を奥へ押しこんだ。
次の日の昼過ぎ、王都の東門。殿下は、写した紙の束を鞍袋に入れて、イルゼさんと一緒に、まっすぐ王宮の方へ折れていった。
本部の門の前に、マーサさんがいた。籠も、桶も持っていない。
私の外套の裾を見る。ザールの泥。ドルンの泥。関所の町の泥。どれも、ブラシを当てずに、乾いたまま。
マーサさんは、裾をつまんで持ち上げ、裏まで見た。
「よし」
裾を下ろして、私の背中を、平手でひとつ叩いた。赤い手だった。
被服室は、糊の匂い。
ブロムさんは、桶の前で、立っていた。私の外套を、上から下へ見る。目が、三つ目のボタンで止まった。
近づいてきて、太い親指で、ボタンの縁をなぞる。穴に渡した生成りの糸を、爪の先で起こして、寝かせる。
それから、私の後ろの団長様の、胸のあたりを見た。
「予備は、もう、ないぞ」
団長様は、答えなかった。ブロムさんは、桶の前へ戻っていった。
コレットは、壁の前に立っていた。
進捗表。三百着の欄。隅に「八」と、丸のついた「七」。
四隅の鋲を、ひとつずつ抜いていく。最後の鋲で、紙は壁から剥がれて、コレットの腕に垂れた。それを巻いて、手帳を縛っていた紐で結ぶ。壁に、日に焼けていない四角がひとつ。
夕方、レオ様が来た。帳面のあいだから、厚い紙を一枚。騎士団の紋章の箔。いちばん下の枠の横に、鉛筆の点。
「明日、お持ちください」
レオ様は、紙を革の挟みに入れて、私に渡した。眼鏡の奥で、目がいつもより少し細かった。
翌日。
フォルン家の石段は、九段。上から二段目の角が、昔から欠けている。家を出た夜は、数えずに降りた。
コレットが先に上がった。私、それから団長様。
書斎は、葉巻と古い紙の匂い。それに、火の匂いが混じる。
暖炉には、春なのに、火が高く焚かれていた。その前の長椅子に、ロザリンド様。膝に、膝掛け。
扇は、手になかった。
ロザリンド様は、膝掛けの端を両手で取って、腰の上まで引き上げた。立ち上がらなかった。
父は、帳簿の机の向こうで、立っていた。私たちを見ると、ペンを置いて、指をインク壺から遠ざけた。中指の横の染みは、また少し薄い。上から二つ目のボタンは、四回巻いた糸のまま。
敷布の包みを、帳簿の横に置く。結び目は、イェルダさんの結んだまま。ほどいて、日記を出した。秋の頁。その次。
七枚。綴じ目に沿って、生成りの目が、同じ幅で並んでいる。
父は、日記に触れなかった。机に両手をついて、かがむ。綴じ目に顔を寄せて、目が、糸を一目ずつ追っていく。いちばん下の、小さな玉まで。
暖炉で、薪がはぜた。
「これは、誰が縫った」
「祖母の妹の、イェルダさんが」
父は、かがんだまま、しばらく動かなかった。
私は、革の挟みから紙を出して、日記の隣に広げた。いちばん下の枠の横に、鉛筆の点が、まだ残っている。
コレットが、机の向こうへ回って、紙の上の端を両手のひらで押さえた。
父が、体を起こす。ペンを取って、インクを含ませる。
インクの染みのある指が、ペン先を、点の上へ下ろした。点は、最初の一画の下に消えた。そこから先は、ペンの擦れる音だけ。
父はペンを置いて、もう一度、日記の綴じ目を見た。
それから、顔を上げて、私の後ろを見た。団長様が、頭を下げた。父も、同じだけ下げた。
団長様は、それきり、私の半歩後ろで動かなかった。
帰りは、石段を、九つ数えて降りた。
本部へ戻る道。コレットは、革の挟みを胸に抱えて、三歩先を行く。
通りの屋台に、春の最初の青菜。荷車の轍に、雪解けの水が光っている。
団長様が、歩幅を縮めた。私が縮めるより、先に。
「父の、手紙だが」
「はい」
「連れてこい、と、書いてあった」
「拝見いたしました」
団長様は、前を見ていた。
「父は、母が死んでから、領地の館を、ほとんど出ない。会わせるなら、こちらから行くしかない」
「はい」
「北だ。馬で、五日かかる」
コレットが振り向いて、また前を向いた。
「寒い。……来てくれるか」
白い外套の前に、手を置いた。上から三つ目。ひとつだけ、生成りの糸で留まっている。
「参ります。ボタンも、六つ、揃いましたので」
(第二部 完)




