第三十六話 祝いの帳面
「貼ってあったよ」
ハンナさんは、洗い場に入ってくるなり言った。籠は、まだ腕に提げたまま。王宮の厨房にいる従姉妹に、前掛けを届けてきた帰り。
「門の右っかわの板の、いちばん上。あたしは字が読めないからさ、門番の若いのに読ませた。騎士団長ガレス・ヴァルト、フォルン伯爵家三女リゼット、右の者の婚約の届、これを受く、だって」
私は、敷布の端を絞っているところだった。
水が、手首を伝って肘まで落ちる。
「知らない婆さんが二人、前で立ち止まって、指でなぞって読んでたよ」
リーザさんが、濡れた手のまま、手をひとつ打った。泡が飛ぶ。
私は、もう一度、敷布をねじった。
マーサさんが横から手を伸ばして、敷布を取りあげた。
「それ以上絞ると、裂けるよ、お嬢ちゃん」
昼までに、本部の門の詰め所は、包みで埋まった。
最初は、第三隊の騎士の母親から。毛糸の靴下が二足、大きさが違う。リーザさんの叔母さんからは、籾殻に埋めた卵が十二。新兵のヨハンくんの家から、干し林檎がひと連なり。第二隊の騎士の父親から、葡萄酒の小樽。
知らない家からも来る。銀の匙のひと揃い。封蝋の紋が、私には読めない。
詰め所の壁には、レオ様が告示の写しを鋲で留めていった。
コレットは、詰め所の卓に、レオ様から借りた背の青い帳面を広げていた。届いた順に、一行ずつ。品。差出人。
「この鹿の角は」
ミレイア様が、封蝋を灯りに傾けた。
「ローデ伯爵家です」
中身は、卓掛けだった。王都でいちばん名の通った工房の、金糸の薔薇。
手が、勝手に裏を返していた。
糸の尻が、薔薇ひとつごとに団子になっている。渡り糸が長くて、指の先が引っかかる。
表に返して、畳み直した。
「あの夜」
ミレイア様は、封蝋から目を上げない。
「私のすぐ後ろで、いちばん先に笑ったのは、ローデ家のお嬢様でした。私も、笑っていました」
大広間の、くすくす、という音。その最初のひと粒。
コレットの鉛筆は、止まらなかった。
ローデ伯爵家。卓掛け(金糸)。
ひとつ上の行の「卵 十二」と、同じ大きさの字。同じ濃さ。
靴下の包みには、二つ折りの紙が添えてあった。コレットが開いて、読みあげる。
「フォルンのお嬢様へ。息子の外套を、ありがとうございました」
「三百着は、皆さんで縫ったものだから」
「書いてあるとおりに、書きます」
コレットは、そのとおりに書いた。
私は、靴下を、卵の籠の向こうへ少し押しやった。
団長様は、朝から王宮。告示のあとの、ご挨拶。
午後、被服室にトビくんが来た。
入り口の梁の下で、首をすくめる。冬の初めには、すくめなくても通れた高さ。
腕に、自分の外套を抱えていた。
「配属、北の砦になりました。四日後に発ちます」
声が低い。そばかすは、前のまま。
外套の前を広げて見せる。上から二つ目のボタンが、糸一本でぶら下がっていた。
「これの付け方、教えてください」
私は、裁縫箱の蓋を開けた。
「あ、リゼットさんじゃなくて」
トビくんの目は、作業台の向こうのコレットにあった。
「リゼットさんに頼むと、気がついたら、もう付いてるんで」
蓋は、開けたままにしておいた。
コレットが、鉛筆を耳に挟んで立ってきた。作業台に、トビくんの外套を広げる。厚い毛織り。
「古い糸を、先に全部抜いてください。残すと、新しい糸が噛みます」
トビくんの指は太い。爪の際に、剣の柄でできたたこ。その指が、目打ちの先で、古い糸の切れ端を一本ずつ起こしていく。
コレットが、待ち針を一本、ボタンの上に横向きに渡した。
「これを挟むと、糸に余りができます。厚い布は、余りがないと引きつれます」
「はい」
「穴は、裏から。四つに、二度ずつ」
トビくんは、数えながら縫った。声には出さず、唇だけ動かして。
待ち針を抜く。ボタンが、布から少し浮く。浮いた糸の根もとを、コレットが指さした。
「そこを、巻きます。巻いた数だけ、もちます」
トビくんは、五回巻いた。
玉を結んで、糸を切る。ボタンを穴に通しては、外す。
「……もう一個、いいですか」
返事を待たずに、いちばん下のボタンの糸を、目打ちで起こしはじめた。そこは、まだしっかり付いていたのに。
コレットは止めなかった。待ち針を、もう一本渡した。
二つ目は、コレットの方を一度も見ずに縫い上がった。
トビくんは、外套に袖を通した。襟は、伏せてある。折り目の縁から、小さな鳥の頭が、爪の先ほど覗いている。
ボタンを上から下まで留めて、一度、胸を張る。
「砦には、被服室、ないそうなんで」
鳥のことは、ひと言も言わなかった。頭を下げて、帰っていった。
気がつくと、私の手は、裁縫箱から銀糸の糸巻きを出していた。いつ出したのか、覚えていない。
針山の横に、戻した。
日が傾きかけたころ、詰め所から卵の籠を抱えて、中庭を戻った。
後ろで、蹄の音が門をくぐる。
振り返った。
団長様が、馬を降りるところだった。手綱を門番に預けて、こちらへ歩きだし――詰め所の壁の前で、止まる。
レオ様の字の、告示の写し。
紙には触れない。息を二つするくらいのあいだ。
それから、また歩きだした。
私は籠を抱え直して、先に被服室へ入った。
団長様が来たのは、卵を棚に移し終えたときだった。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
団長様の目が、棚の靴下から銀の匙へ、金糸の卓掛けへと動く。
「……多いな」
「四十一です」
コレットが、帳面から顔を上げずに答えた。
団長様は作業台へ来て、帳面の行を指でたどった。ローデ伯爵家の行で、指が止まる。
団長様は、口を開いて、閉じた。
指は、そこから頁の頭へ戻っていく。「フォルンのお嬢様へ」と書き写してある、靴下の行。
「書いてあるとおりに、書きました」
コレットが言った。
団長様はうなずいた。それから、棚の下の葡萄酒の小樽を片手で持ち上げて、いちばん上の段に載せた。ブロムさんが白い木綿を寝かせていた段。
「団長。砦の隊の、編成の件を」
レオ様の声が、廊下からした。
「行く」
団長様は、私の前を通るとき、一度だけ歩みをゆるめた。それきりで、廊下へ出ていった。
告示のことは、どちらも言わなかった。
夕方、最後の包みが来た。
門番が、両腕で抱えてくる。茶色の紙に、麻紐を十字に。紐の下に、二つ折りの紙が一枚。
「グレンツ子爵家の、使いの方から。御婚約のお祝いに、と」
コレットが帳面に書く。グレンツ子爵家。品の欄は、空けたまま。
ミレイア様が、指先に光を灯した。
紐をほどいて、紙を開いた。
灰色の毛織り。小さく畳んで、紙の中に収まっている。いちばん上に出ているのは、縁。
蔓草。
葉と茎の、細かな刺繍。上手な手。
見覚えがある、と思うより先に、指が縁に触れていた。
冷たい。
手を引く。人差し指の腹に、冷たさが残る。爪の先が、わずかに白い。
反対の手で、自分の肩のショールの縁を探る。葉の形の穴を埋めた、私の糸。温かい。
膝掛け。ショールより、ずっと厚い。
縁に触れないように、紙ごと隅を持ち上げて、裏へ返した。ミレイア様の光が、ついてくる。
灰色の地に、灰色の糸。親指の爪ほどの、鳥。
頭が、下。
指の背で、そっと触れてみる。こちらは、冷たくない。
「お姉さま」
コレットの鉛筆が、品の欄の上で止まっていた。
「……膝掛け、と」
コレットが書いた。
ミレイア様の光は、揺れなかった。
「団長様に、お知らせしてきましょうか」
中庭の向こうの団長室には、灯りがある。
団長様に見せれば、団長様はこれを抱えて、ひとりで王宮へ行く。銀行の紙に、自分の名で書こうとした人。四日の道を、ひとりで駆けてきた人。帰ってきてから、「渡した」とだけ言う。
ショールのことを台帳から見つけてくださったのは、王妃様だった。
私は、紙の端を持った。
「いいえ。明日の朝、私が、王妃様のところへお持ちします」
隅を、元のとおりに折り返す。蔓草が内側に隠れるように、縁を巻きこんで畳む。紙をかぶせる。
麻紐を十字に掛ける。人差し指が、まだ少し冷たい。その指で、結び目を、固く引いた。




