第三十七話 席次表
麻紐の結び目は、ゆうべ引いたきり、爪の先も入らない。
イルゼさんが紫の袖の中から小さな刃物を出して、結び目の横で紐を切った。
「固く結ぶ人ね。中身が逃げるとでも思ったの」
王妃様の応接間。卓の上に、茶器はない。私たちが通されたとき、王妃様はちょうど、茶の盆を長椅子の脇の床へ下ろして、手を離すところだった。
長椅子の端に、野の花の刺繍枠が立てかけてある。花の輪の途中に、針が一本、刺さったまま。糸は、葉の半分で止まっていた。
ここまで包みを抱えてきたのは、ミレイア様。私の右の人差し指には、爪の先に、まだうっすら白が残っている。
茶色の紙を開く。灰色の毛織り。蔓草を内側に巻きこんだ畳み方は、ゆうべの私の手のまま。
地のところだけを持って、ひと折りずつ広げていく。卓の端から端まで。縁を一周する、細かな葉と茎。
王妃様は、手を出さなかった。灰色の目だけが、縁を角から角へたどる。
「同じ手ね」
イルゼさんが、縁に顔を寄せた。触れはしない。
「目の幅も、葉の角度も、ショールと同じ。……あなたは触らないで。今日は、見るだけ」
ミレイア様が、空になった包み紙を四角く畳もうとして、手を止めた。
「底に、何か」
紙の折り返しに、小さな札が一枚、挟まっていた。厚い紙で、角が丸くすり減っている。穴に通した麻紐の切れ端は、黒ずんで固い。インクは茶色に褪せていた。
この国の字ではない。ロウエンの綴りとも違う。縦の線が多くて、どれも下の端で、小さな鉤のように曲がっている。
イルゼさんは札を指でつまんで、窓の明かりへ傾けた。
「北の文字。古い書き方ね」
読みあげる声は、いつもより平らだった。
「王妃殿下御婚礼の祝いに。……十三のうち、七」
王妃様が、立ち上がった。
書き物机の後ろの、背の高い戸棚。いちばん下の段から、筒に巻いた紙を一本抜き出す。色の褪せた青いリボン。結び目を、ご自分の指でほどく。
膝掛けを寄せようとした私に、王妃様は首を横に振った。
「そのままで、いいわ」
卓の空いている半分に、紙を置く。巻き癖のついた紙が、端から丸まって戻ろうとする。ミレイア様が向こうの端を両手で押さえ、王妃様は手前を、手のひらで押さえた。
聖堂の図。いちばん上に祭壇。その前に、椅子が二つ。左右に長い腰掛けが並び、腰掛けごとに、細い字で家の名。
王妃様の人差し指が、祭壇のすぐ下の腰掛けに下りる。
名は、読まない。指がひとつの名の上で止まり、離れ、次の名へ下りる。針を刺して、抜いて、次の目へ移るような間で。
左の列。右の列。また左。
ひとつのところで、指がほかより長く止まった。逆さからでも読めた。グレンツ。
指は、また動きだす。
十三で、止まった。その下の腰掛けにも名は続いているのに、王妃様の指は、そこで紙から浮いた。
「聖堂の中まで入ったのは、ここまでの家だけ。あとは、外の回廊だったの」
十三の家。二十二の冬。
札は、イルゼさんの指のあいだにある。七。ここに一枚。あとの十二枚は、この細い字の名の、どこかの家の、どこかの部屋に。
私は、卓の上の膝掛けの、縁から指一本ぶん内側を見ていた。どの家でも、誰かがこれを広げて、縁を手前に引き寄せて、膝を包んできた。冬が来るたびに。
浮いた指が、紙のいちばん下へ行く。後ろの壁ぎわに、ひとつだけ離して描かれた、小さな四角。家の名ではなかった。
「北の国の使節」
イルゼさんが、逆さのまま読んだ。
「顔は、覚えていないわ。お礼は、言ったはずよ」
王妃様は、紙から手を離した。手前の端が、くるりと丸まる。
その手が、膝掛けの方へ伸びた。縁ではなく、真ん中の、灰色の地の上に。手のひらを、ぺたりと置く。子どもの額で熱を見るときのような置き方だった。
地は、冷たくないはず。王妃様は、しばらく手を動かさなかった。
廊下で、足音が止まる。
黒い外套が、入り口に立った。裾に練兵場の土がついていて、息が少し速い。
「呼んでいないわよ」
王妃様は、膝掛けから手を上げずに言った。
「……はい」
団長様は、入り口から一歩入ったところで立っていた。
「外套を、置きに行きました。帳面の、いちばん下の行に」
膝掛け、と、コレットの字で。
団長様の目が、卓の上の膝掛けの縁へ来た。
右手が、左の手袋の指先をつまむ。引いて、半分まで外して、そこで止まった。手袋は、指の付け根に引っかかったまま。
それから、目が、私の右手へ来た。
私は、左手で右の人差し指を握っていた。指をほどいて、爪を団長様の方へ向けた。
「ゆうべ、一度、触れただけです。もう、ほとんど」
団長様は、爪の先を見た。手袋を、元のとおりにはめ直した。
「よく、持ってきてくれたわね」
王妃様の手は、まだ地の上にあった。
「送ってくださったのは、グレンツ子爵家で。開けたときは、ミレイア様が灯りを」
「灯りを点けただけです」
ミレイア様は、紙の端を押さえたまま、それだけ言った。
王妃様が、膝掛けから手を上げた。私の方へ、まっすぐ顔を向ける。
「リゼット。残りの家を、回ってもらえないかしら」
手のひらに、毛織りの跡が細かくついていた。
「私が訪ねれば、どの家も、蔵のいちばん奥から、いちばん良い物を出してくるわ。毎晩膝に掛けている物は、出てこない」
「俺が回る」
団長様の声は、王妃様の言葉のすぐあとに来た。卓の上の、席次表を見ている。
「私が参ります」
王妃様の方を向いたまま、言った。
団長様は、こちらを向かなかった。私も、向かなかった。
王妃様の灰色の目が、団長様へ行き、私へ来て、また団長様へ戻る。どちらにも、うなずかない。
イルゼさんが、札を指のあいだでくるりと回した。
「ほどいた糸は、私にちょうだいね。どっちが行くにしても」
廊下から、また足音。今度は、駆けてくる。
「母上。父上から、言いつかった」
殿下だった。入ってきながら、もう話していた。
「夏至に、北の国の使節が来る。迎える役を、俺に、と。門で迎えて、王都にいるあいだ、ずっと――」
そこで、殿下の目が、部屋の中の顔をひとつずつ拾った。イルゼさん。ミレイア様。私。入り口の脇の団長様。
殿下は、口を閉じなかった。
「――ずっと、俺が付く。そういうことに、なった」
言い終えてから、殿下は卓の上の蔓草を見た。私の肩のショールの縁と、そっくりの葉だった。
殿下の足が、卓の手前で止まる。
王妃様は、丸まった席次表の端を、もう一度手のひらで押し広げた。紙の向きを変えて、殿下の方へ回す。いちばん下の、小さな四角が、殿下の前に来るように。
「座りなさい、ユリウス。十三の家を、あなたの指で数えなさい」




