第三十八話 冬ごとに
砦へ行く隊は、朝から中庭に並ばされていた。背嚢を足もとに下ろし、レオ様が名簿を読みあげるたびに、呼ばれた者がひとりずつ前へ出る。列の中ほどに、赤い頭がひとつ、ほかより少し高いところにある。
本部の門の前では、レオ様が回してくださった馬車が待っていた。コレットとミレイア様は、もう乗りこんでいる。
踏み台に足を掛けたとき、後ろで砂利が鳴った。
団長様だった。名簿の写しを脇に挟んだまま、列の前から抜けてきたらしい。練兵場の土が、長靴の膝の下まで上がっている。
私の前で止まると、団長様は右の手袋を引いて外し、それから左も外した。二つを重ねて、私の手の上に載せる。
「使え」
それだけ言って、紙の束を持ち直し、中庭へ戻っていった。読みあげの声は、次の名の手前で止まって、団長様を待っていた。
手袋の中は、まだ温かい。指を入れると、革の先が関節ひとつぶん余って、くたりと折れた。
馬車が動きだしてから、ミレイア様が、その余った指先を見た。何も言わずに、自分の手袋の、編まずに開けてある指を一度曲げてみせる。
コレットは、膝の上に背の青い帳面を開いていた。
いちばん後ろの頁に、十三の家の名が並んでいる。きのう王妃様から届いた書き付けを、コレットが写したものだ。王妃様の字は大きくて、一枚に五つしか入っていなかったという。
いちばん上が、ブラント侯爵家。
帳面の前の方にも、その名の行がある。祝いの品が届いた日の、昼過ぎの行で、品の欄には「銀の匙 ひと揃い」とあった。封蝋の紋を私が読めなかった、あの匙。
「お礼に伺うのなら、午後の早いうちがよろしいかと存じます。ブラントの大奥様は、昼まではお部屋から出ていらっしゃいませんので」
ミレイア様は、そういうことを、いつのまにか知っている。
ブラント家の客間では、暖炉に薪が三本組まれて、勢いよく燃えていた。
出迎えてくれたのは、私と同じくらいの年のお嬢様だった。ブラント家のお孫さん。挨拶のあいだじゅう、その目は、私の手袋の余った指先に落ちていた。
暖炉のいちばん近くに、背の高い椅子がひとつある。ヘートヴィヒ様は、そこに座っていた。白い髪を小さくまとめ、腰から下を灰色の毛織りで包んでいる。
火に照らされた縁に、細かな葉と茎が一周していた。
蔓草。
私は手袋を外して、膝を折った。ヘートヴィヒ様が、膝掛けの上から片手を出す。指が長く、節の目立つ手だった。両手で受けると、乾いていて、冷たい。暖炉の、こんなにそばにいるのに。
勧められて、向かいの長椅子の端に腰を下ろした。
「匙のお礼なら、孫に言いなさい。贈ると決めたのは、この子ですよ」
お孫さんは、椅子の背の後ろに立っていた。
「あの晩、壁際の、隣の椅子におりました」
私の顔を、まっすぐ見て言う。
「青い鳥を縫っていらしたでしょう。左の翼の、最後のひと針のところで、殿下がお呼びになった。わたくし、そちらばかり見ていたので、笑いそびれました」
膝の上で、外した手袋を握りしめていた。余った革の指が、手のひらの中でくしゃりと潰れる。
千本の蝋燭と、くすくす笑いの広がっていく大広間で、あの針を見ていた人がいた。
ヘートヴィヒ様は、孫の方を振り向かなかった。
「それで。お礼のほかに、何の御用」
「その膝掛けの、縁の刺繍を、ほどかせていただけませんでしょうか」
自分の耳にも、固い声に聞こえた。
「縁の縫い目が、掛けていらっしゃる方の熱を、外へ持っていく縫い方になっております。掛けているあいだ、ずっとでございます」
ヘートヴィヒ様は、すぐには答えなかった。膝掛けの縁を、指先でつまんで持ち上げる。
「王妃様の御婚礼のあとで、北の国の使いが置いていったものですよ。あの日は、聖堂の、祭壇から二つ目の腰掛けにおりました。王妃様の裾が、わたくしの靴の先をかすめて通っていったのを、覚えています」
つまんだ縁を、火の方へ少し傾ける。葉の一枚一枚が、細い影をつくった。
「軽くて、目が詰んでいて、よく織れている。冬が来るたびに出して、こうして掛けてきました。二十二年」
つまんでいた指を離す。縁が、膝の上へ落ちた。
「掛けても掛けても、手は温まらなかった。年寄りの手は、そういうものだと」
そういう手の人なのだと、思っていた。――王妃様の応接間で、団長様の声が、そう言っていた。
ヘートヴィヒ様は、膝掛けを膝から下ろさなかった。
「ここで、おやりなさい。下ろすと、寒いから」
お孫さんが、暖炉の脇から低い足台を運んできて、ヘートヴィヒ様の膝の前に置いた。私はそこに腰を下ろし、団長様の手袋を、二つ重ねて自分の膝にのせた。
ミレイア様が、私の肩の後ろから、光を灯した指先を差しのべる。灰色の地の上に、葉の影は落ちない。
コレットは、包み紙を一枚広げて、私の横に膝をついた。
「イルゼさんのぶん」
小さな声で、それだけ言った。
垂れている縁を、手もとへ引き寄せて裏を見る。糸は、どれも心臓の反対へ向いて渡っていた。
目打ちの先で、最初の葉の糸の尻を起こす。触れたところから、指先が冷えていく。針の先で突かれたような冷たさが一点に来て、それが爪の下へ、じわりと広がる。
糸を引くと、灰色の地から、するすると抜けてきた。コレットの紙の上に落とす。
一枚目の葉が、葉の形の穴になった。
ヘートヴィヒ様の目が、その穴に落ちた。それから、膝の上に置いていたご自分の手を、穴のすぐ内側の地へ、そっとずらした。
ミレイア様の光が、私の手の動きについて、次の葉へ移る。コレットの紙の上で、抜いた糸が、ひと筋ずつ増えていく。
二枚目にかかるころには、右の人差し指の爪の先が白くなっていた。三枚目で、中指にも白が来る。目打ちを持ち替えて、親指の腹で糸を送った。その親指の先も、だんだん白くなっていく。
ヘートヴィヒ様は、黙って、上から私の手を見ていた。お孫さんは、椅子の背を両手でつかんでいる。
六枚目の葉のところで、糸の尻が、指にかからなくなった。目では見えているのに、つまんだ感じがしない。
膝の上の手袋に、手が伸びかけた。革の指先をはめていては、この細さの糸はつまめない。手を戻して、もう一度、目打ちの先を葉の裏へ差しこむ。
膝掛けが、すこし動いた。
ヘートヴィヒ様が、身を乗りだしていた。両手を、暖炉の方へ差しだす。手のひらを火に向け、返して甲を向け、また返して手のひらを向ける。その手が、ゆっくり下りてきて、私の右手を、指の先からまるごと包んだ。
火の熱は、手のひらの皮一枚ぶんにしか残っていなかった。その下から、二十二年の冬の冷たさが、骨の形といっしょに伝わってくる。
それでも、包まれた指の先で、白い爪の下が、じんと痛みはじめた。凍えた指に、血が戻ってくるときの痛みだった。




