第三十九話 九本の煙(トビ視点)
封書は、思っていたより薄かった。
中庭の石畳には、まだ霜が白く残っている。砦へ行く十二人は、背嚢を背負って門の内側に並んでいて、おれは列の端から呼び出された。
団長は、素手だった。
きのう、名簿の読みあげの途中で、団長は列を抜けていって、外した手袋を両方とも、リゼットさんの手に載せてきた。列の全員が見ていて、誰も何も言わなかった。今朝の団長の指は、節が寒さで赤くなっている。
その指が、封書をおれの胸の前に出す。
「父に、渡せ」
受け取った。表には、団長の字で名前がひとつ、ディートリヒ・ヴァルト、とだけ書いてある。封蝋に紋はなくて、親指で押しつぶしたような丸い跡がついているだけだ。
「ヴァルトの館に寄れ。砦への道の、手前にある」
「はい」
「隊長には、話してある」
それで終わりだった。団長は列の先頭へ行って、隊長の騎士に短く何か言っている。
おれは封書を、背嚢のいちばん上の、雨蓋の下に挟んだ。
見送りの人たちが、中庭の端に集まりはじめていた。その中から、リゼットさんがこっちへ来た。
おれの前で止まる。外套のどこかを直されるんだろうと思って、おれは両腕を少し体から離して待った。
リゼットさんの目が、上から下へ動いていく。伏せた襟の、折り目の縁から覗いている鳥の頭で、目が一度止まる。上から二つ目のボタンに下りて、いちばん下のボタンに下りて、袖口へ行って、裾まで行った。
右手が、少し持ちあがる。爪の先が、白っぽかった。冬の朝に水仕事をしたあとの、洗濯場の人たちの指みたいな色だった。
その手は、外套のどこにも触れないまま、左の手の中へ戻っていった。
「ボタン、五回、巻いたのね」
「はい。……下のは、六回です」
「そう」
リゼットさんは、半歩さがった。
隊長の号令がかかって、おれは列へ走って戻った。門を出るとき、一度だけ振り返った。リゼットさんは、まだそこに立って、左手で右の指を握っていた。
北への道は、五日かかった。
隊は荷車が二台と歩きの十二人で、荷車の轍に合わせて歩く。
二日目から、道の脇の溝に、泥をかぶった雪が残るようになった。夜は宿駅の馬小屋の二階で、藁をかぶって寝る。
四日目の晩、隣で寝ていた第三隊上がりの奴が、おれの襟を指さした。
「それ、矢を止めるっていう鳥か」
「これは、まだ何も止めてない」
そいつは、つまらなそうに藁にもぐった。おれは襟を伏せ直してから、横になった。
五日目の昼すぎ、ヴァルト領に入った。
谷を見下ろす丘の上に、灰色の石の館が建っている。四角い館で、屋根から煙突が何本も突き出していた。歩きながら数えたら、九本あった。畑の畝に雪が残っているとはいえ、もう春なのに、九本とも煙を上げている。
隊は、丘の下のハルデという村の宿駅に入った。荷車を中庭に入れ終えると、隊長がおれを見て、顎で丘の上を指した。
館の門番は、背の曲がった年寄りだった。封書の表の字を見ると、何も聞かずにおれを中へ通した。
広間に一歩入ったとたん、汗が出た。
広間の暖炉には、腕ほどの太さの薪が五本、組んである。年寄りのあとについて廊下を行くあいだも、両側の部屋から、薪のはぜる音が聞こえてきた。どの部屋にも、人のいる気配はない。火だけが焚いてある。
外套の下で、背中を汗が伝っていく。脱いでいいとは、誰にも言われていない。
通されたのは、奥の、天井の低い部屋だった。
暖炉の前に椅子がひとつあって、男の人が座っていた。白髪まじりの髪を短く刈りこんで、肩幅が広い。顔の形も目の色も、団長にはあまり似ていなかった。
ただ、おれが入っていくと、その人は椅子の肘に手をついて、ほとんど音を立てずに立った。その立ち方だけは、団長のものだった。
「騎士団の、トビです。団長から、これを」
封書を両手で差しだす。
ディートリヒ様は受け取ると、封蝋の丸い跡を一度親指でなでてから、封を切った。
中の紙は一枚きりで、読むのはすぐに済んだ。読み終えると、元のとおりに畳んで膝の上に置き、その上に手のひらをかぶせた。
「襟の鳥を、見せろ」
首の後ろが、かっと熱くなった。
襟の端に、指をかける。
閲兵の朝は、指がかじかんで、折り目がうまく決まらなかった。団長が手を伸ばして、代わりに折ってくれた。
ここでは、指が汗ばんでいる。おれは自分の指で、伏せた襟の折り目をさらに外へ大きく折り返した。鳥が、頭から尾の先まで、暖炉の火の色に照らされる。頭は、上を向いている。
ディートリヒ様は、身を乗りだしもしないで、座ったまま目だけで見ていた。ずいぶん長いあいだ、そうしていた。火の中で、薪がひとつ崩れる。
「小さいな」
「はい」
「あれの外套にも、これがいるのか」
あれ、というのが団長のことだとわかるまでに、少しかかった。
「団長のには、二羽います。青いのと、銀色のと」
ディートリヒ様は、何も言わなかった。膝の上の手紙から、手を上げない。
「直していい」
襟を伏せる。鳥の頭が、折り目の縁から爪の先ほど覗くところで、指を止めた。
「砦までは、何日だ」
「二日と、聞いています」
「砦は、冷える」
それから、おれの後ろに控えていた年寄りに言った。
「薪を、足せ」
年寄りは黙って、火の中へ薪を一本入れた。
おれは頭を下げて、部屋を出た。返事の手紙は、渡されなかった。
外へ出たとたん、背中の汗がいっぺんに冷えた。丘の上から見下ろすと、九本の煙が、風のない空へまっすぐのぼっていくのが見えた。
ハルデの広場には、市が立っていた。
市といっても、荷車が六台ほど輪になって止まっているだけで、干した魚や、鍬の刃や、塩の袋が並んでいる。いちばん人が集まっているのは、北の街道から来たという行商の荷車だった。
荷台に、毛布が山に積んである。茶色がかった灰色の、厚い毛織りで、縁を一周、太い糸で刺し子のように縫いかためてあった。
「一枚、銅貨八つだよ」
行商の男は、言葉の終わりが少し上がる、北の訛りで言った。
村の女の人が、二枚まとめて買っていく。赤ん坊を背負った人も一枚買って、その場で広げて、背中の子ごとくるんでいった。
「町で買やあ、倍は取られるよ」
隣で見ていたおかみさんが、おれに言った。
毛布の山の端に、手を伸ばした。地は柔らかくて、目が詰んでいる。指を、縁の縫い目の方へ滑らせた。
冷たかった。
風の冷たさとは違う。指の腹から、骨の方へ、じわじわとしみこんでくる。
手が、すぐには引けなかった。
新兵棟のいちばん奥の寝台で、暖炉には火が赤々と燃えていて、頭は燃えるように熱いのに、背中の側から冷たいものがずっと体の中へ入ってきた。歯が勝手に鳴って、止められなかった。誰かが手袋の手で外套を外したとき、それがほんの少しだけ止んだ。
あのとき着ていた外套の、裏地と同じ冷たさだった。
縁から指を離して、毛布の隅をめくる。
ヘッセの外套の型紙には、隅に逆さまの鳥が描いてあったという。冬のあいだ、新兵棟でいちばん長く続いた噂だった。四つの隅を、ひとつずつめくった。
どの隅にも、鳥はいなかった。灰色の地が、どこまでも同じように織ってあるだけだ。
顔を上げて、広場を見回す。赤ん坊を背負った女の人は、もう荷車の輪の外へ出て、坂を上っていくところだった。背中の灰色だけが、人のあいだに見え隠れしている。
「兵隊さん、砦へ行くのかい」
行商の男が、おれの外套を見て言った。
「なら、二枚持ってきな。北の砦は、夏まで寒いよ」
指先が、まだ冷たい。親指でこすっても、なかなか戻らない。
背嚢の脇から、給金の袋を出した。王都を出る前の日にもらった、ひと月ぶんだ。口の紐をほどいて、袋の中に指を入れる。
銅貨を一枚ずつつまみ出して、荷台の縁に並べていく。一枚。二枚。冷えた指では縁がうまくつかめなくて、三枚目が袋の口で滑って、中へ落ちる。指を入れ直して、つまみ出す。三枚。四枚。五枚目を荷台に置いて、おれは、袋の底に残っている銅貨を、指の先で数えている。




