第四十話 最初の一目
殿下は、礼服を畳まずに抱えてきた。
両袖が殿下の腕から垂れて、金の縁取りの裾が、歩くたびに膝のあたりで揺れている。夕方の被服室では、コレットが作業台にイルゼさんの包み紙を広げていて、私はブラント家の縁から抜いた糸を、その上にひと筋ずつ並べていた。ブロムさんは奥で、洗いあがった敷布に火熨斗を当てている。
「場所を、借りる」
殿下は作業台の空いた端に礼服を置き、裏へ返した。
裏地の一面に、髪の毛より細い穴が並んでいる。袖口から肘へ、肩へ、襟へ。五年かけて私が縫い、夜会の晩に一本残らず抜いた糸の、通り道だ。
胸の紋章の裏で、穴はいちばん密になる。七つの頂点を持つ星が内側へ七重に重なっていて、そのいちばん小さな星の真ん中にだけ、形の違う穴の群れがある。翼を広げた、小さな鳥の形をしている。
あの晩から、ここには誰も糸を通していない。
「夏至の使節は、これで迎える」
殿下はそれだけ言って、紋章の裏から手を離した。縫ってくれとは言わない。私の方を見もしない。
上着の懐から、生成りの糸の束が出てくる。関所の市で、イェルダさんの台から殿下が自分で選び、銅貨三枚で買った束だった。結んだ紐が、少しゆるんでいる。
「コレット」
「はい」
「穴を埋めるとき、最初の一目は、どこに入れる」
コレットの指が、耳に挟んだ鉛筆に触れて、止まった。目が一度だけ、私の方へ来る。
私は、手に持っていた糸を一本、紙の上に置いた。指先が、ひやりとする。
コレットは作業台を回って、殿下の横に立った。紋章の裏に顔を寄せて、しばらく黙って穴を見ている。
「布は、破れていません。あるのは、針の穴だけです」
「ああ」
「ですから、前の穴には通さないでください。前の穴に針を入れると、穴が広がります。穴と穴のあいだの、まだ一度も針の通っていないところに入れます」
コレットの指が、鳥の形のすぐ外を、触れずに指した。
「玉は作りません。糸の尻を指一本ぶん残して、小さく二目、返して留めます。玉があると、着たとき、そこだけ胸に当たりますから」
殿下はうなずいて、束から糸を引き出した。長さを決めかねて、引いては戻す。コレットが、自分の針山から針を一本抜いて渡した。
奥で、火熨斗を置く音がした。
ブロムさんがやって来て、殿下の手もとに、小さな金物をひとつ置く。黒ずんだ真鍮の指貫で、縁が片側だけすり減って薄くなっていた。
「中指だ」
それだけ言って、敷布の方へ戻っていく。
殿下は、指貫を右の中指にはめた。少し、ゆるいらしい。
針に糸を通すのには、長くかかった。糸の先を湿して、指で撚って、何度も穴の横を突いてから、ようやく通る。それから殿下は、コレットの指したところに針を立てた。指貫の頭で、押す。
ぷつ、と小さな音がする。
針が裏地を抜けた。殿下は糸を引ききらずに、指一本ぶんの尻を残して止めた。白い裏地の上に、生成りが一目だけ乗っている。白より、ほんの少し黄色い。
二目めは、入れなかった。殿下は針を布に刺したまま、礼服を畳んでいく。針の頭は、畳んだ襟の陰に隠れた。
「また来る」
殿下が帰ったあと、私は紙の上の糸の列に戻った。さっき置いた一本だけが、ほかより少し曲がっている。指でまっすぐに直して、次の一本を置いた。
ブラント家の縁は、あの日の日暮れまでに、最後の葉まで抜けた。帰りぎわ、ヘートヴィヒ様は、膝掛けを膝に掛けたまま、両手を一度こすり合わせて、ご自分の指を眺めていた。
二軒目のリンデ伯爵家では、膝掛けは馬車の中にあった。
奥方様が冬に出かけるたび、座席で膝に掛けてきたのだという。二十二年のあいだ。車庫の薄暗がりで、年寄りの御者が、座席の下の箱から出してくれた。
「奥様は、どこへお連れしても、お降りになるときには手が真っ白で」
ほどくのに、二日かかった。一日目は九枚目の葉で指がきかなくなり、ミレイア様は光を消さずに、私が手をこすり終えるのを待っていてくれた。抜いた糸は、コレットが紙ごと畳んで、イルゼさんのぶんの箱に入れる。
団長様の手袋は、あれからずっと、私の外出の鞄に入っている。
三軒目のハーゲン子爵家には、膝掛けがなかった。
出てきた若い奥方様は、膝掛けと聞いても首をかしげるばかりで、年寄りの家政婦を呼んでくれた。家政婦は、私の肩のショールの縁に目をやって、すぐにうなずいた。
「ございました。灰色の、蔓草の。三年ほど前に、先の奥様が、どちらかの御婚礼のお祝いにお回しになりました」
「お回しに」
「いただいたお祝いの品は、次のお祝いへお回しするものでございますから」
どちらへ回したのかは、家政婦も知らなかった。先の奥様は、もう亡くなっている。
帰りの馬車で、コレットは青い帳面のいちばん後ろの頁を開いた。ハーゲン子爵家の名の横に「なし」と書いて、その先を少し空けておく。
ミレイア様は、揺れる座席で、指の開いた手袋をはめた自分の手を見ていた。
「私の家でも、そうしていました。いただいた燭台を、翌月には別のお家へ。古いお家の真似を、父がしたがりましたので」
トビくんからの包みは、その三日後の朝に届いた。
団長様が毎朝の外套を置いたところで、私は鞄から手袋を出して、作業台の向こうへ差しだした。団長様は、両手を背中へ回した。
「……まだ、出かけるだろう」
差しだした手袋は、行き場をなくして、私の手の上に残った。門番が包みを抱えてきたのは、そのときだった。包みは、荒い麻布でくるんで、縄が十字に掛けてある。縄の結び目に、木の札が一枚下がっていた。表には大きな字で「王都 騎士団本部 被服室 リゼットさん」。裏には宿駅の焼き印があって、その下にも、トビくんの字が並んでいる。
縄をほどくと、麻布の中から毛布が一枚出てきた。
グレンツ家の膝掛けのような蔓草はない。目の幅もばらばらで、上手な手ではなかった。
縁に、指を当てる。
冷たい。
指の腹から爪の下へ、じわりと入ってくる。手を引くと、人差し指の爪の先が、また白くなっていた。
隅を、四つともめくった。鳥はいない。
麻布の内側に、紙が一枚挟まっていた。帳面の頁を破いたような、罫のある紙。コレットが広げて、読みあげる。
「リゼットさんへ。ハルデの村の市で、北から来た行商が売っていました。一枚、銅貨八つです。村の人が、たくさん買っていきました。縁は、冬に倒れたときの外套と同じ冷たさです。隅に鳥はいません。四つとも見ました。団長の手紙は、渡しました。あした、砦へ発ちます。トビ」
四つとも、と書いてある。それなのに私は、さっき自分でも全部めくっていた。
団長様が、作業台の上の縄を拾いあげた。結び目から下がった札を、裏に返す。
焼き印の下に、トビくんの字で「ヴァルト領 ハルデ」とある。
団長様の親指が、その字の上で止まった。
「……館の、下の村だ」
声は、低くも高くもなかった。
団長様は札を置いて、毛布の方へ手を伸ばした。素手のまま、縁を避けて、真ん中の地をつかむ。持ち上げて、重さを量るように一度だけ揺すった。大人の肩から膝まで、すっかりくるめる大きさがある。
毛布を下ろす。
「ヘッセの裁きの日取りが、きのう決まった。俺は、呼ばれている」
「はい」
「済んだ次の朝に、発つ。レオに、馬車を頼んでおく」
馬車、と団長様は言った。馬ではなく。
宿駅の名を紙に書き連ねて、替え馬で、ひとりで駆けていった人が。
毛布の縁から指一本ぶん離れたところに、団長様の手が置かれたままになっている。指の節が、まだ少し赤い。
私は、コレットの手からトビくんの紙を受け取って、手紙は渡しました、のところを、もう一度読んだ。
「団長様」
団長様が、こちらを見た。
「お父様へのお手紙には、なんと、お書きになったのですか」




