第四十一話 春のうちに
「父上、と書いた」
団長様は、私の顔ではなく、作業台の上の、さっきまで毛布のあったところを見ていた。
毛布は、もうそこにはない。団長様が口を開くより先に、コレットが麻布ごと抱えあげて、奥の棚へ運んでいった。棚の前でこちらに背を向けたまま、麻布に縄を掛け直している。その手が、いつまでたっても結び目まで行かない。作業台の前にいるのは、私と団長様の二人だけだった。
「この手紙を持たせた者の襟に、鳥があります」
紙に書いた字を、ひとつずつ拾いながら読むような言い方だった。
「リゼットが縫いました。見てやってください。……春のうちに、連れていきます」
それで、終わりらしかった。
春のうちに、と、団長様は書いていた。トビくんが発つより前、裁きの日取りも、まだ決まっていなかったころに。
リゼット、と、団長様は手紙の字のとおりに言った。名を呼ぶことの、ほとんどない人が。
手の中で、トビくんの紙の端が折れた。
「……あの襟は、トビくんが、自分で伏せて着ているものです」
言葉のほうが、先に出ていた。
「ボタンも、発つ前に、自分で付け直していきました。五回巻いて、下のは六回。お父様がご覧になったのは、きっと、そちらのほうです」
「あなたが縫った、と書いた」
団長様は、作業台から目を上げずに言った。台の上に置いた手は、さっきから少しも動かない。指の節は、まだ赤かった。
私は、トビくんの紙を、元の折り目どおりに畳んだ。手紙は渡しました、の行が、紙の内側に入る。
「ショールのことは」
指が、肩に掛けた縁の葉に触れる。
「お書きになりましたか」
「書いていない」
返事は、すぐに来た。
団長様の目が、台の上から上がってきて、私の肩で止まる。縁の葉を、一枚ずつ数えるように見ていた。
「……会って、俺が話す」
私は、返事をしなかった。
作業台を回って、団長様の隣に立つ。ショールの片端を肩から外して、台の上の団長様の手に、上からかぶせた。縁の葉が、赤い指の節の上に、ちょうど重なる。
毛織りの下で、団長様の指が一度だけ動いて、それきり静かになった。手は、引かれなかった。
中庭で、レオ様が団長様を呼んでいる。団長様が手を抜いて練兵場へ出ていくまで、私はショールの端を、肩に戻さずにいた。
その日の午後、グレンツ子爵夫人が、ご自分で被服室へいらした。
お付きの小間使いは門の詰め所に待たせて、包みは、両腕で胸に抱えていた。五十に手の届くくらいの、小柄な方だった。外套の前をきっちりと合わせ、手袋もはめたままでいる。私が手を拭いて膝を折ると、夫人は作業台の前まで来て、包みをそこに置いた。
「ブラントの大奥様から、伺いました」
麻紐の結び目に、夫人がそのまま手をかけた。手袋の指では、爪がかからない。右の手袋を脱ぐと、出てきた指の先は、爪の色まで白っぽかった。
紙の中から、灰色の毛織りが出てくる。縁を一周する蔓草は、棚の上の包みの中身と、葉の傾きまで変わらない。違うのは、膝の当たる真ん中のあたりで地が薄くなって、毛羽がすっかり寝ていることだった。縁の葉の先も、指で何度もなでられたように丸くなっている。
「わたくしの居間で、冬ごとに掛けてまいりました。二十二年になります」
夫人の目が、棚のいちばん上へ行った。王妃様の応接間から持ち帰って、茶色の紙で包み直した一枚が、そこに載っている。
「先日お送りしたのは、三年前、息子が妻を迎えましたときに、ハーゲン家の先の奥様からいただいた物です。同じ物が二枚あっても、と、蔵に入れたきりにしておりました」
あの札の七は、ハーゲン家の七だった。
夫人は、脱いだ手袋をはめ直さずに握ったまま、私に頭を下げた。私は、包み紙ごと、膝掛けを自分の方へ引き寄せた。
コレットが、青い帳面のいちばん後ろの頁を開いた。ハーゲン子爵家の名の横に「なし」とあって、その先が空けてある。そこへ、鉛筆で「グレンツ子爵家へ 三年前 御子息の御婚礼」と書き足す。すぐ下の行の、グレンツ子爵家の名の横には、「夫人、ご自分で」と書いた。
夫人の一枚は、日が暮れる前にほどき終えて、レオ様の使いに届けてもらった。
棚の上の一枚は、その晩にほどいた。三年、蔵の暗がりにあった蔓草は、糸が少しも擦れていなくて、目打ちの先がよく入る。そのぶん、糸の尻をつまむたびに、冷たさがまっすぐ指の腹へ来た。ミレイア様は、灯した指を、夜更けまで一度も下ろさなかった。
あくる日からは、ミレイア様とコレットと三人で、帳面の順に、次の四軒を回った。膝掛けは、どの家でも持ち帰らせていただいて、本部の作業台でほどく。
年寄りの猟犬の籠に、敷いてあった家がある。引き出すあいだ、犬は首を持ちあげただけで、籠の中で小さく震えていた。
小さな礼拝室の、膝つき台に掛けてあった家もある。冬は祈りの途中で立ってしまうのだと、奥方様は恥ずかしそうにおっしゃった。
蔵の長持ちのいちばん底から、包みのまま出てきた家もあった。紐の下にあの札がもう一枚挟まっていて、夕方に本部へ寄ったイルゼさんが、灯りに傾けて「十三のうち、二」と読み、そのまま紫の袖の中へしまった。
四軒目では、膝掛けは、六年前に嫁いだ娘さんの婚礼の祝いに回っていた。その日のうちに馬車を王都の反対の端まで走らせて、嫁ぎ先の大奥様の膝から、下ろしていただいた。
抜いた縁の糸は、コレットが紙ごと畳んで、イルゼさんの箱へ重ねていく。
一枚ほどき終えるごとに、両手を脇の下に挟んで、指に感じが戻ってくるのを待った。待つあいだは、一枚ごとに長くなる。二日目の夕方、コレットが、まだ開けていない包みを、黙って棚の奥へ押しこんだ。私は手を伸ばしてそれを手前へ引き出し、紐をほどいた。
三日目の晩、最後の葉を抜き終えたとき、右手は目打ちを握った形のまま、しばらく開かなかった。
朝、顔を洗う盥の湯に、両手を沈める。指の腹には、じきに赤みが戻ってきた。きのうまでは、ひと晩眠れば、爪の白も消えていた。今朝は、右の人差し指と中指と親指の先に、細い三日月の形をして残っている。湯の中で何度こすっても、三日月は細くなるだけで、消えなかった。
作業台の上には、ゆうべほどき終えた膝掛けが、畳んで置いてある。
廊下の向こうから、足音が来た。毎朝、同じころに来て、作業台の手前で止まる足音だった。
私は、外出の鞄の口を開けて、団長様の手袋を取りだした。左の手袋に、先に指を入れる。ひと晩鞄の底にあった革は、中まで冷えていた。指の届かない革の先で、右の手袋の口をつまんで、広げる。足音が、廊下を近づいてくる。三日月の残る右の指を、一本ずつ、革の中へ送りこんでいく。




