第四十二話 目打ち
足音は、作業台の手前で止まった。
いつもなら、そこで外套を台に置く音がする。今朝は、その音が来ない。
私は、右の手袋に、最後の小指を送りこんだところだった。どの指も、先に関節ひとつぶんの革が余って、台の上でくたりと折れている。
団長様の目が、その余った先に落ちた。
外套を左腕に掛けたまま、右手が伸びてくる。私の中指の先の、中身のない革だけを、二本の指でつまむ。
引かれても、私は手を引っこめなかった。革が、指の付け根から、ひと節ずつ抜けていく。
湯の中で細い三日月まで減らした白は、冷えた革の中で、また上がってきていた。人差し指も、中指も、親指も、爪の先から半分ほどまでが白い。
団長様は、抜いた手袋を持ったまま、その爪を見ている。素手の指の節が、赤い。
唇が、わずかに開いた。息をひとつ吸うあいだそのままでいて、何も出てこないうちに、閉じる。
団長様は、手袋の口をもう一度広げた。私の親指を親指のところへ入れて、残りの指を、一本ずつ革の中へ送っていく。私が自分ではめたときより、ずっと遅い手つきだった。いちばん奥まで入ると、手首のところで革の口を一度だけ引いて、整える。
外套を作業台に置いて、団長様は出ていった。廊下を戻る足音は、来たときより速い。
その日の昼、練兵場の声がやんだころ、外の階段を下りかけて、黒い馬が一頭、門を出ていくのを見た。乗っているのは団長様ひとりで、レオ様も、従卒も連れていない。馬は北門の方へは折れずに、王都の内へ駆けていった。
次の日も、同じころに、黒い馬は門を出ていく。午後の練兵が始まる前には、戻ってきている。毎朝の外套は変わらずに届くのに、昼にどこへ行くのかを、団長様は言わない。私も、聞かなかった。
コレットは、その二日、青い帳面のいちばん後ろの頁を開かなかった。
「白いのが引くまでは、開きません」
帳面は、コレットの前掛けのポケットに入ったきりになっている。
二日目の夕方、作業台の端の筒を見て、目打ちが足りないのに気がついた。柄の黒い、いちばん太い一本がない。ブロムさんが、厚い外套の縫い目を起こすときに使う物だ。
奥の桶の前で、ブロムさんは、糊の中で敷布を返していた。
「団長に、貸した」
こちらを見ずにそう言って、次の敷布を桶に沈める。
三日目の朝、爪の白は、また細い三日月まで引いていた。コレットは、私の指を一本ずつ明かりにかざして、しばらく黙っていた。それから、ポケットの帳面を出した。
名の横が空いたままの家は、あと五つある。いちばん下はケルナー子爵家で、ロザリンド様のご実家だった。
午後、団長様の手袋をはめて、ミレイア様とコレットと三人で、レオ様の馬車に乗った。
一軒目では、出てきた年寄りの家令が、私の肩のショールの縁を見るなり、眉を下げた。
「今朝、騎士団長様がお見えになって、ご自分で抱えてお帰りに」
二軒目では、腰の曲がった大奥様が、居間まで通してくださった。卓の上に、空の皿が一枚、まだ下げられずに残っている。白い皿の縁で、砂糖の粒が光っていた。
「杏の砂糖漬けをお出ししたら、お皿が空くまで、黙って召しあがっていかれたの。甘い物はお嫌いなお顔をなさっているのに」
大奥様は、皿の縁の砂糖を、指の腹で寄せ集めた。その膝の上には、何も掛かっていない。
帰りの馬車で、コレットは帳面を開いて、二つの家の名の横に、どちらも「団長様、ご自分で」と書いた。
ミレイア様は、指の開いた手袋の先で、自分の膝を一度だけ叩いた。
「残りの二軒も、もう回られたあとでしょう。いちばん下のお家へ、このまま参りましょう」
ケルナー家の客間には、火が入っていなかった。
会ってくださったのは、当主の、ロザリンド様の兄上だった。目尻の細いところが、少し似ている。膝を折った私に、座るようにとも言わずに、立ったまま口を開いた。
「今朝、団長殿も見えた」
兄上の目が、私の手袋の、余った指先に落ちる。
「あれは、この家にはない。ロザリンドが嫁ぐとき、母が、いちばん良い毛織りだと言って、荷に入れた」
私の後ろで、コレットが帳面を閉じた。
「お義母さまの居間の、長椅子にありました」
コレットは、兄上ではなく、私を見ていた。
「お手紙の代筆に呼ばれると、いつも膝に。灰色で、縁を、葉が一周していました」
この春、父の署名をもらいに行った日の書斎を思い出す。暖炉の火は、春なのに高かった。ロザリンド様は長椅子で、膝掛けの端を両手で腰まで引き上げていた。私に見えたのは、灰色の地と、それを握る指だけだった。縁は、ロザリンド様の手の中にあった。
二階のロザリンド様の居間に、私は一度も入ったことがない。
その夜、中庭の向こうの団長室に、灯りがついた。
私は外出の鞄を提げて、中庭を渡った。手袋は、外して鞄に入れてある。
声をかけてから、「入れ」と返ってくるまでに、いつもより間があった。
団長様は、机から椅子を少し引いて座っていた。膝の上に灰色の毛織りを広げ、縁の蔓草を灯りの方へ手繰り寄せている。右手に握った柄の黒い目打ちの先が、二枚目の葉の裏に入ったまま、止まっていた。
一枚目の葉は、斜めに引き抜かれている。抜けた糸の跡に沿って、灰色の地が引きつれて、細かな皺が寄っていた。目打ちを握る指の先が、爪の半分まで白い。
壁ぎわの椅子に、畳んだ膝掛けが三枚、重ねてある。膝の上の一枚を入れて、四枚になる。
団長様は、目打ちを抜かなかった。今度は、私の顔を見ていた。
「俺が回ると、言った」
「私が参りますと、申しました」
団長様の目は動かない。私も、動かさなかった。
「フォルンの家へは、俺が行く」
机を回って、目打ちを握ったままの右手を取った。葉の裏から先を抜いて、握りこんだ指をほどかせる。少し、力が要った。目打ちを、灯りの横に置いた。
それから、団長様の両手を、私の両手で包んだ。
節は赤いのに、指の先は芯まで冷えている。私の爪には、細い三日月が残っているだけだった。おとといの朝、この人が私の手袋を抜いて見たところまで、今は、この人の爪が白い。
団長様は、包まれた自分の手を、黙って見下ろしていた。
しばらくそうしてから、私は鞄の口を開けた。手袋を出して、右の口を広げる。団長様は、自分から指を伸ばしてきた。五本の指が、ためらわずに革の奥まで入っていく。私の指では関節ひとつぶん余った革の先が、この人の指には、どこも余らない。左も、同じようにはめた。
革をかぶった指では、蔓草の糸の尻はつまめない。
私は、団長様の膝から毛織りを取りあげた。引きつれた葉のまわりの地を、指で寄せて平らにする。灯りの横の目打ちを取って、自分の手に握った。
「この四枚も、ロザリンド様の一枚も、私がほどきます」




