第四十三話 長椅子の端
団長様の手袋の指が、青い帳面の頁を、一行ずつ下りていく。
コレットの帳面の、いちばん後ろの頁だった。きのうの昼、コレットはこれを作業台に置いて、ひとりで家へ帰っていった。父には、今日のことをコレットが話してある。
フォルンの家へは、俺が行く。そう言った人は、今朝、本部の門で、レオ様の回してくれた馬車の踏み台の横に立っていた。私が乗ると、自分も向かいの座席に乗りこんできて、私の膝の上から帳面を取った。
馬車が揺れるたびに、革の指先が行から外れかけて、また戻る。指先の革には、浅い折り皺が残っていた。私がはめていたあいだ、指の届かなかった先が、台の上でくたりと折れていた跡だ。今は、その皺の奥まで、団長様の指が入っている。
グレンツ子爵家の横には「夫人、ご自分で」とあり、その少し下に、同じ字の「団長様、ご自分で」が四つ続いている。指は、その四つの行も、ほかの行と変わらない速さで通りすぎて、いちばん下のケルナー子爵家の横の、まだ白いところで止まった。
「十二」
帳面から、目は上がってこなかった。
あの晩、団長様の膝から取りあげた一枚は、引きつれた地を寄せ直してからほどいた。椅子の上の三枚も、続けてほどいた。四枚目をほどき終えた翌朝から、爪の白は、湯に浸けても、先から半分のところまでしか引かなくなっている。
「今日の一枚を足して、十三です」
団長様は帳面を閉じて、自分の膝に置いた。その上に、手袋の手を重ねる。フォルンの家の門の前で馬車が止まるまで、手は帳面の背から動かなかった。
先に降りた団長様は、私の手を取って下ろし、座席の裁縫箱を私の腕に渡した。それから門柱の脇まで下がって、そこで足を揃える。
「ここで、待つ」
門の内側へは、靴の先も入れなかった。
書斎の暖炉には、火床からはみ出すほど薪が組まれていた。炎の先が、炉の口の上の石を、黒く舐めている。
父は上着を脱いで、シャツの袖を肘まで折りあげていた。机の脇に立つコレットのこめかみで、髪が汗に貼りついている。私の頬も、部屋に入ったそばから火に焙られた。
暖炉のいちばん近く、長椅子の上で、ロザリンド様だけが、灰色の膝掛けを胸の下まで引き上げていた。
父の机の端に、裁縫箱を下ろす。胡桃材の蓋を開けると、裏に彫られた鳥が、頭を上にして火の色を受けた。
ロザリンド様の目が、箱へ来た。膝掛けの上で、縁を握っていた指に、力が入りなおす。
「あの朝、侍女に取りに行かせたら、もう、なかったわ」
声の高さは、扇を開いたり閉じたりしていたころのままだった。
コレットが、机の脇から一歩前へ出た。
「私が、持ち出しました」
ロザリンド様の目が、コレットへ移る。顔より先に、手を見ていた。冬ごとに二階の居間へ呼んで、自分の手紙を書かせてきた手だ。コレットは、その手を背中へ回さなかった。
私は、箱から目打ちを出した。
「ロザリンド様。その膝掛けの縁を、ほどかせてください」
目打ちの柄が、汗で手のひらに貼りつく。
「縁の葉の縫い目が、膝を冷やします。掛ければ掛けるほど、冷えます」
ロザリンド様は、返事をしなかった。
縁を握っていた指を、一本ずつ離していく。両手で膝掛けを胸の下から折り返して、膝から外した。畳まずに、長椅子の、火から遠いほうの端に置く。その上に手のひらを少しのあいだのせて、それから、自分の膝へ戻した。
膝掛けは、私の方へは差し出されなかった。
長椅子の端まで行って、自分で抱えあげる。膝に掛けるだけの物にしては、目が詰んでいて重い。腕の中から、香水と、薪の煙の匂いが、少し遅れて上がってきた。
机へ戻ると、父が帳簿を閉じて、机の端へ押しやっていた。インク壺とペン皿も、そのあとから端へ寄せられる。空いたところは、膝掛けを半分に折って広げられるだけの広さになった。
父は、机の上に吊った帳簿の灯りの鎖を繰って、灯りを私の手もとの高さまで下ろした。鎖の輪が、父の指のあいだで、ひとつずつ鳴る。
私は、机の前の、背の硬い椅子に腰を下ろした。
縁の葉は、どこも同じ形ではなかった。両手で握って引き上げるあたりだけ、葉が平たく潰れて、糸の表が毛羽立っている。そこは、目打ちの先が裏へ入りにくい。
私の爪は、触れる前から、先が白かった。
潰れた葉の裏へ目打ちの先を押しこんで、糸を一本、浮かせる。指でつまむと、冷たさは白いところを素通りして、まだ赤い爪の根もとまで、一息に来た。引くと、毛羽をまとったままの糸が、地から抜けてくる。
コレットが机の端に紙を一枚広げて、片手でその角を押さえた。私の指から糸を受けて、紙の上に一本ずつ寝かせていく。
横顔は、火に焙られて熱い。目打ちを持つ指先だけが、火のそばにいながら、縁の糸の温度へ下りていく。
ロザリンド様は、長椅子に座ったまま、こちらを見ていた。膝掛けのない膝の上で、両手を重ねている。裾の絹は薄くて、膝の骨の丸みが浮いていた。
その目は、ときどき私の爪に落ちて、落ちたまま、しばらく動かなかった。
父は机の向こうに立って、灯りの鎖の端を持っている。コレットは、紙の角を押さえている。団長様は、門の前にいる。
誰の手も、私の手には来なかった。
七枚目か八枚目の葉で、指の腹から糸の感じが消えた。目で見ている場所へ指を運んで、閉じる。閉じた指のあいだに糸があるかどうかは、引いてみるまでわからない。引いて、抜けてくれば、紙の上へ持っていく。
頭の上で、鎖がまた鳴った。父が、灯りをもう一段、葉の近くまで下ろしていた。
角の裏に、灰色の糸の小さな鳥がいた。頭を下にしている。そこだけは目打ちを入れずに、次の辺へ移った。開けたままの箱の蓋の裏では、祖母の鳥が、灯りの下で頭を上にしている。
途中で一度、ロザリンド様の手が膝から上がった。襟もとの肩掛けの留め金を、ひとつ外す。手は、また膝へ戻った。
暖炉で、薪が崩れた。火の粉が炉の口から少しこぼれて、敷石の上で消える。誰も、火掻き棒に手を伸ばさなかった。
最後の葉の糸が、紙の上に落ちた。
縁を、葉の形の穴が一周している。潰れていた葉のあとだけ、穴のまわりが少し毛羽立っていた。
コレットが、糸を並べた紙を、端から小さく畳みはじめる。
膝掛けを両腕に抱えて、長椅子の前へ行く。ロザリンド様は、膝の上で重ねた手を動かさなかった。
膝の上に、広げて掛ける。穴の並んだ縁が、絹の裾の両脇へ垂れた。右の脇の端を持ちあげて、膝の下へたくしこむ。
ロザリンド様は、膝を引かなかった。
「この部屋、暑いわね」
火を見たまま、ロザリンド様は言った。
父も、コレットも、暖炉の方へは動かない。炎は、さっきと変わらない高さで、炉の口の上の石を舐めている。
左の脇の端を持ちあげて、毛織りと膝のあいだへ、指を差し入れる。指の腹は、まだ何も感じない。差し入れた指の背へ、毛織りの下にこもりはじめた温みが、ゆっくり寄ってくる。




