第四十四話 輪の跡(ミレイア視点)
灰色の毛糸が茶色に変わる境目を、手首の骨の上にそろえる。
本部を出る馬車の中で、一度そろえた。控えの間に通されてからも、二度そろえている。そろえても、毛糸は少しずつずれて、境目はまた手の甲の方へ下りてくる。
リーザさんの手袋は、指の先が五本とも開けてある。弟のフリッツさんに編んだ手袋の、残りの毛糸だと言っていた。フリッツさんは新兵で、あの冬、新兵棟で熱を出した十一人の中にいた。
開いた先から出ている私の指の腹は、冬のあいだに針の跡が重なって、少し固くなっている。
控えの間の暖炉は、冷えていた。
長椅子は、二人で掛けると肘が触れる幅で、リゼット様は私の隣で、膝の上に手をそろえている。リゼット様は、呼ばれていない。私の付き添いだと言って、本部から同じ馬車に乗ってきた。
手袋は、していない。右の人差し指と中指と親指の爪が、先から半分ほど白い。
団長様は長椅子には掛けずに、壁の前に立っていた。黒い手袋の両手が、体の脇に下りている。
リゼット様が、立ちあがった。
団長様の前まで行って、右の手袋の中指の先をつまみ、そのまま抜き取った。
出てきた手を、リゼット様は自分の手のひらに載せて、明かりの方へ少し傾けた。団長様の爪は、根もとから先まで、どこも白くなかった。
リゼット様は、手袋を元のとおりにはめ直した。
そのあいだ、団長様の目は、手袋の上を動くリゼット様の指の、白い先にあった。
「戻っていますね」
団長様は、答えなかった。はめ直されたばかりの手で、リゼット様の右手の指を、先から握りこむ。
私は、自分の手袋の境目を、もう一度そろえた。
侍従が来て、団長様と私の名を呼んだ。
長椅子から立ちかけた私の手首を、リゼット様の指が取った。手袋の境目を、骨の上へ一度でそろえる。その指の先は、毛糸ごしにも冷たかった。
リゼット様は何も言わずに手を離して、また膝の上で両手をそろえた。
審問の間は、天井の高さも、卓の長さも、冬に来たときのままだった。
上座の真ん中は、今日は宰相閣下で、王妃陛下と殿下がその両脇にいる。卓の下手には、フォルン伯爵が先に通されて、座っていた。
卓の向こう側には、椅子がひとつしかない。冬には、あそこに二つ並んでいて、私は父の隣に座っていた。立ちあがった私に、父は低い声で、座りなさいと言った。
今日の私の椅子は、こちら側の、団長様の隣にある。
父は、近衛ふたりに挟まれて入ってきた。
北の塔で会ったときより、また痩せている。上着の肩が余って、袖の中で腕が細い。父は、卓のこちら側を見なかった。椅子に掛けて、卓の上に両手を置く。
指輪は、ひとつもなかった。指輪のあったところだけ、皮膚が輪の形に白く残っている。
顔より先に、私はその白い輪を数えていた。四つ。
それから、顔を見た。頬が削げて、口の両脇の皺が、下へ垂れている。
「北の商人の名を」
宰相閣下が言った。
「ヴォルケ、と名乗っておりました」
父の声は、私の覚えているより、ずっと細かった。
「家の名でございます。当主の名は、存じません」
「顔を」
父は、卓の上の自分の指を見たまま、答えた。
「五十を、少し出ておりましょう。私より頭ひとつ背が高く、痩せております。市のあいだは、毛皮の帽子を、一度も脱ぎませんでした」
父がひとつ言うたびに、私は膝の上で、手袋から出た右の指を一本ずつ折った。
「左の手の、小指と薬指の先が、ございません」
左の手を、膝の上で開いた。手袋の開いた先から、私の小指と薬指が、爪まで出ている。
「言葉の終わりが、上がります。北の訛りで」
右の親指を折ると、手はこぶしになった。
折った順に一本ずつ開きながら、もう一度、数え直す。数えたものなら、私は忘れない。
荷車の上から見えたのは、幕の端と、塩橋を渡っていく父の背中だけだった。父が毎年、橋の向こうで会っていた男の顔を、私は、今はじめて聞いている。
「その者は、そなたに何と言った」
「印を消すな、と。会うたびに」
「わけは、問うたか」
「問いませんでした」
儲かる話のわけを、父は聞かない。
殿下が、脇に置いていた紙の束を、卓の真ん中へ押しだした。
字が大きくて、一行が紙の端から端まである。殿下は何枚かめくって、ひとつの行に人差し指を置いた。指の下に、ヴォルケ、と読める。その先に、北、毛皮、型紙一束、と続いている。
殿下の指の先に、小さな赤い点が、いくつか並んでいた。冬のあいだ、私の指にも、こういう点が並んでいた。針の跡だ。
王妃陛下の目が、殿下の指へ行って、そこで止まった。
父は、その行を見た。長くは見なかった。
「この名か」
「はい。毎年、その名でございました」
宰相閣下の手もとには、薄い帳面が一冊ある。冬に、私が懐から出して、この卓に置いたものだ。
「ミレイア・ヘッセ。この帳簿をここへ出したのは、そなただな」
「はい。私が、出しました」
父の目は、自分の指から動かなかった。
宰相閣下が、紙を一枚取りあげる。
「ヘッセ商会は、これを解く。ヘッセ男爵は爵位を取りあげ、北の塔に留め置く」
卓の上で、輪の跡の白い指は、一本も動かなかった。
「フォルン伯爵家の証文は、王家の預かりのままとする。ミレイア・ヘッセの奉仕は、命じた一年のとおり」
「男爵令嬢」は、もう、私の名の前になかった。
卓の下手で、フォルン伯爵が立ちあがった。上座に向かって、深く頭を下げる。卓に添えた右手の中指の横に、薄いインクの染みがあった。上着の上から二つ目のボタンだけ、根もとに巻いた糸が、ほかより太い。
近衛が、父の両脇に立った。
父は立ちあがって、卓の端を回ってくる。出ていくには、私の椅子の後ろを通る。
その足が、私の横で止まった。
父の目は、私の顔には来なかった。膝の上の手へ下りて、手袋の、開いた先で止まる。北の塔でも、父は私の手を見て、手袋はどうしたのかと聞いた。
「指が、出ている」
「出しておいてくださったんです。針を持つので」
父の目は、まだ私の指の先にあった。上着の脇に下ろした手が、一度握られて、開く。輪の跡が、四つとも白い。
「誰が、編んだ」
「フリッツさんの、お姉さんです」




