第四十六話 掛け釘
ハルデの村に入ると、家の前の柵にも、畑との境の垣にも、毛布が干してあった。
どの家も、一枚か二枚ずつ掛けている。乾いた土に灰を混ぜたような色が、昼すぎの日を吸って、垣の若葉の上に重たそうに垂れていた。屋根の荷台で麻布にくるまれている、トビくんの一枚と同じ色だった。
坂の下で、荷車が一台、馬車に道をあけた。積んだ麻袋の上にもその色が一枚かぶせてあって、四隅を縄で留めてある。
道端では、子どもが三人、追いかけっこをしていた。いちばん小さい子が、一枚を肩から巻きつけて、引きずりながら走っている。後ろの子が端を踏んで、巻いた子がつんのめる。笑いながら起きあがって、泥のついた端を、また肩へ引きあげた。
私の膝と、隣の団長様の膝には、ハーゲン家の一枚が掛かっている。
縁の葉は、王都を出てから、半分ほどが私の糸で埋まった。埋まった葉は私の膝の側に寄っていて、団長様の膝へ渡ったあたりは、まだ穴の列のままだ。針は、葉の途中に刺して止めてある。
団長様は、村に入ってから、ずっと馬車の外を見ている。柵の毛布をひとつ過ぎるたびに、目がそれについていって、後ろへ流れる。裁縫箱の角を押さえた手袋の指に、ときどき力が入って、革が小さく鳴った。
家並みが切れると、道は丘を上りはじめた。
上から下りてくる風に、薪の煙の匂いが混じっている。見上げると、灰色の石の館の屋根の上で、煙が何筋も風に押されて、村の方へ斜めに寝ていた。道の脇の土はすっかり乾いていて、雪は、遠い山の北の斜面に白く残っているだけだった。
門の前で、馬車が止まった。
門柱の脇に、背の曲がった年寄りがひとり立っていた。上着の肩に、薪の皮の屑がひとつ載っている。
先に降りた団長様が、その前で足を止めた。年寄りは、団長様の顔を見るのに、曲がった背の上で首を大きく反らした。
「オットー」
「……若様」
オットーさんはそれだけ言って、頭を下げた。背が曲がっているので、下げた白い頭は、腰より低いところまで行った。
広間に入って三歩も行かないうちに、額に汗が浮いた。首筋をひと筋つたって、襟の中へ入っていく。
暖炉の火の色が、床石の上を、こちらの靴の先まで伸びてきている。
団長様は外套を脱いで、広間の入り口の脇の掛け釘に掛けた。黒い外套は釘の上で一度揺れて、裾を床すれすれに垂らした。
暖炉の前の椅子から、人が立った。
火を背にしているので、顔は暗い。背は、団長様より少し低かった。椅子の肘から離れた手の甲に、小さな火傷の跡が、いくつも散っている。どれも古くて、まわりの皮膚よりつるりと白い。
団長様が、広間の真ん中まで進んだ。
「父上。……連れてきました」
「……ああ」
私は、膝を折って頭を下げた。
顔を上げると、ディートリヒ様の目は、私の顔ではなく肩にあった。白い外套の広い衿ぐりから、ショールの縁の葉が覗いている。目はそこで止まって、しばらく、そこにあった。
縁の葉は、四十八枚とも、私の糸で埋めてある。
「寒くは、ないか」
額の汗が、眉の脇まで下りてきていた。
「いいえ」
ディートリヒ様は目をショールから外して、私の横を通りすぎた。広間の入り口の方へ歩いていく。
掛け釘の、団長様の外套の前で止まった。
左の胸のところで、前の端を自分の指でつまんで、裏地を返す。手つきに、ためらいがなかった。
焦げた青い鳥と、銀の鳥が、暖炉の明かりの届くところへ出た。
ディートリヒ様は、長いあいだ、それを見ていた。裏地の端を押さえた指の先は、二羽から爪ひとつぶん離れている。古い火傷の散った手の甲に、紺の裏地の影がかかっている。
抱えた裁縫箱の胡桃材の蓋に、私の汗ばんだ指の跡が、白く曇って残った。
やがて、ディートリヒ様の指が裏地を元のとおりに戻して、前の端から離れた。
団長様は広間の真ん中に立って、その背中を見ていた。
暖炉の前へ戻りながら、ディートリヒ様がオットーさんに言った。
「上の、奥だ」
団長様の顔が、父親の方へ向いた。唇がわずかに開いて、何も言わずに閉じる。
オットーさんが先に立って、階段を上りはじめた。私は裁縫箱を抱えて、そのあとについた。
二階の廊下のいちばん奥の部屋にも、火が入っていた。
暖炉の前に、背もたれの高い椅子と、小さな椅子が並んでいる。小さい方は、座面が私の膝よりずっと低い。子どもの背丈に合わせた椅子が、高い椅子の肘に触れるほど寄せて置いてあった。
暖炉の脇の壁には、木の掛け釘が一本打ってある。何も掛かっていない。釘の頭のところだけ、木の色が濃かった。
御者が後ろから鞄を運んできて、寝台の足もとに下ろした。オットーさんはそれを見届けると、頭を下げて出ていった。部屋のことは、ひとことも言わなかった。
ここも、広間と変わらないくらい暑い。
白い外套を脱いで、寝台の端に置いた。敷布から、日に干した匂いが上がる。それでも、首まわりが汗で湿っている。ショールを肩から外して、手に持ったまま、部屋の中を見回した。
それから、暖炉の脇の掛け釘に掛けた。
白に近い灰色が、釘から壁に沿って、まっすぐに垂れた。
夜が更けても、部屋の熱は少しも下がらない。
何度目かに寝返りを打ったとき、熾火の明かりで、小さな椅子の影が、壁のショールの裾まで伸びているのが見えた。
起きあがって服を着て、階段を下りた。
中庭へ出ると、夜の風が、汗の乾ききらない首もとに冷たく当たる。月が出ていて、石畳の上に、井戸の屋根の影が落ちていた。
井戸の縁に、団長様が腰掛けていた。
シャツの袖を、二の腕までたくしあげている。髪の先が濡れて、額に貼りついている。
私を見ると、団長様は立って、釣瓶を井戸へ落とした。縄が縁をこすって滑っていき、ずっと下で水の音がする。たぐりあげた桶を縁に載せ、柄杓で汲んで、柄の方を私に向けた。
受け取って、口をつけた。
冷たい。歯の根に沁みて、喉を下りていくのが、胸のあたりまでわかる。柄を持つ右の指は、先の白いところに、濡れた木の感じがほとんど来ない。冷たいのは、唇と喉だけだった。
二口目は、ゆっくり飲んだ。
団長様は、また井戸の縁に腰を下ろした。
「子どものころ、夏は、厩の二階で寝た」
目は、中庭の向こうの、厩の屋根の方にあった。風が回って、干し草の匂いがかすかに来る。
私は柄杓を両手で持ったまま、聞いた。
「奥のお部屋は、どなたの」
団長様の目が、厩から館の二階へ上がって、いちばん奥で止まった。そこにも、暖炉の明かりが赤く漏れている。
「……母のだ」
井戸の縁に置いた手が、石の角をつかみなおした。
「替えさせる」
二階のあの掛け釘には、今、ショールが掛かっている。
私は、柄杓に残った水を桶へ戻して、柄杓を桶の縁に渡した。
「替えないでください」




