第四十七話 もう一本
暖炉の前に、薪の束が下ろされた。
乾いた木と木がぶつかって、低く鳴る。くくっていた縄が解かれて、何本かが床石の上を転がった。
私は、暖炉からいちばん遠い壁ぎわの椅子にいた。井戸から戻って、服を着たままここに座り、それから一度も立っていない。寝台の敷布は、平らなままだ。熾火は夜のうちに灰をかぶって、首の後ろの汗も、襟の中で乾いて冷えていた。
縄を解いた人の顔が、寝台の方へ向いた。目が平らな敷布を見て、そこから壁ぎわへ来て、私の膝のあたりで止まり、暖炉へ戻る。
背は、曲がっていなかった。肩の幅が広い。その人が片膝をつくと、灰の下に残ったわずかな赤が、白いもののまじった短い髪を、下から照らした。
ディートリヒ様だった。
火掻き棒が、灰を掻き寄せる。散っていた燠が、炉の真ん中にひとかたまりになった。その上に細い枝を渡して、割った薪を、間をあけて組んでいく。
一本取るたびに、手は次の場所へまっすぐ下りる。置いた薪を、置きなおすことがない。束のどこにどの太さがあるのか、目を向けずに抜きだしている。
手の甲の古い火傷の跡が、燠の明かりを受けて、ひとつずつ白く浮いた。
細い枝に火が移って、ぱちぱちと鳴りはじめる。炎が薪の腹を這いあがるにつれて、暖炉に近いものから順に、部屋の中が色を取り戻していった。背もたれの高い椅子の肘が、すり減って鈍く光っている。その肘に、小さな椅子の座面が寄せてある。
最後の一本を手に取って、ディートリヒ様が立ちあがった。
顔が、暖炉の脇の壁へ向いている。
掛け釘に、ショールが掛かっていた。ゆうべ私が掛けたとおりに、白に近い灰色が、釘から壁に沿って垂れている。炎が大きくなるたびに、縁の葉の影が、壁の上でわずかに伸びた。
ディートリヒ様は、薪を片手に提げたまま、そこに立っていた。
提げた薪の先が、床石の方へ、少しずつ下がっていく。
やがて、身をかがめて、その一本を組んだ薪のいちばん上に渡した。それから、掛け釘の前へ行った。
右手が、縁へ伸びた。
人差し指と親指の二本で、葉を一枚つまむ。つまんだまま、親指の腹が、葉の上をゆっくり動いていく。根もとから、先の尖りまで。糸の盛り上がりを、一目ずつ確かめていく速さだった。
親指がなでているのは、私の絹糸だ。もとの糸は、一本も、そこに残っていない。
廊下の床板が鳴って、団長様が入ってきた。
上着の前を留めずに羽織っている。ゆうべ井戸で濡れていた髪の先が、癖をつけたまま乾いていた。
団長様は、部屋の真ん中で一度止まって、父親の背中と、その指の先の葉を見た。それから隣まで行って、掛け釘からショールを外した。
ディートリヒ様の指のあいだから、葉が抜けていった。
団長様は、ショールの隅を取って、裏へ返した。葉の列のさらに内側、灰色の地のなかに、地と変わらない灰色の糸で縫った鳥がいる。親指の爪ほどの大きさで、頭が、下を向いている。
団長様は、その隅を、父親の胸の高さまで持ちあげた。
ディートリヒ様の目が、鳥へ下りた。
団長様の顔が、こちらを向いた。
「包みを」
私は、椅子を立った。
寝台の足もとの鞄を開けて、替えの服の下へ手を入れる。底の隅に、手ぬぐいで二重にくるんだものがあった。関所へ行ったときのように、王都を発つ朝も、ここへ入れてきた。
右の指の先では、手ぬぐいの手ざわりもよくわからない。左の手のひらにのせると、布を二枚へだてて、冷えが沁みてきた。
団長様は、ショールを片腕に掛けたまま、それを受け取った。背もたれの高い椅子の座面に置いて、手ぬぐいを一枚ずつ開く。白い紙が出てくる。紙の折り目を、端から起こしていく。
白に近い灰色の糸が、ひと束になって寝ていた。
どの一本も、抜いたときの葉の形の癖を残して、ゆるく曲がっている。
ディートリヒ様が、一本をつまみあげた。
暖炉の前へ持っていく。組んだばかりの薪は、もう、どれも炎に包まれていた。その炎の前に、つまんだ糸を差しだして、そのまま、持っている。
糸の先が、熱にあおられて細かく揺れた。
照らされた親指と人差し指の先から、少しずつ色が引いていく。手の甲の火傷の跡とは違う白が、爪のまわりから広がっていった。私の右の三本の指の先にあるのと、同じ白だった。
ディートリヒ様は、糸を持ちかえない。
「母上の、ショールの縁に、縫ってありました」
団長様の声は、低かった。
ディートリヒ様は、火の方を向いたままでいる。糸の先が、まだ揺れていた。
「誰が、ほどいた」
「リゼットが」
団長様は、間を置かずに答えた。
私は、背もたれの高い椅子の角に、手を掛けて立っていた。
「団長様が、手を、温めてくださいましたので」
ディートリヒ様の顔が、火から離れた。
片腕にショールを掛けて、その端を握っている団長様の手を、見た。握った指のあいだで、灰色の毛織りに深い皺が寄っている。
炎の中で、薪がひとつ、小さく爆ぜた。
ディートリヒ様は、白くなった指のまま、糸を紙の上へ戻した。ほかの糸と向きを揃えて寝かせ、紙の端を、もとの折り目どおりに折っていく。手ぬぐいには包まずに、紙の包みだけを、上着の前を開いて内側へ入れた。
それから、暖炉の脇の束から、薪を一本取った。組んだばかりの火の上に、足す。炎がいったん低くなって、すぐに新しい木の皮へ食いついた。
ディートリヒ様は、何も言わずに出ていった。廊下の床板が、遠ざかりながら鳴った。
団長様は、その音が階段を下りきるまで、ショールを腕に掛けたまま立っていた。
部屋には、もう熱が戻ってきている。こめかみに、汗がにじみはじめた。
座面の上に、手ぬぐいが二枚、開いたまま残っている。
団長様が、片腕に掛けていたショールを下ろした。両手で端を持って、広げる。縁の葉が、炎の明かりの中で、ひと続きに張った。
団長様は、私の前に立った。広げたショールを、私の頭の上を越させて背中へ回し、肩へ下ろす。
このショールを、団長様の手が私の肩に掛けるのは、初めてだった。
掛け終えた両手は、肩の上の縁に置かれたままだった。左右の親指が、鎖骨の上で、縁の葉を一枚ずつ押さえている。手のひらの重みが、毛織りごしに、肩の丸みに沿って載っている。団長様の目は、私の顔ではなく、自分の親指の下の葉にあった。
暖炉の火が、すぐ横で高くなっていく。
左の頬が、ひりつくほど熱い。脇に下ろした右の指の先にも、火の明かりは届いている。爪の白は、その明かりの中で、色を変えなかった。
そのあいだで、首に触れている縁の葉が、団長様の手のひらのぶんだけ、温かかった。




