第8話 ゲームをしない夜
六月も終わりに近づいた。
梅雨。
朝から雨。
窓の外は灰色で、教室には湿った空気が漂っている。
「最悪ー。今日部活外でできないじゃん」
「体育館組は勝ちだな」
「湿気やばくない? 髪終わったんだけど」
そんな声が飛び交う中。
俺は窓際の席でスマホを見ていた。
『今日からしばらくゲーム禁止します』
「…………」
Yuuから届いたメッセージ。
時刻は午前七時五十二分。
俺は返信する。
『なんで』
すぐに既読。
『期末テスト』
「ああ……」
忘れていた。
いや。
忘れていたわけではない。
うちの学校も来週から期末テストだ。
『そっちも?』
『来週』
『私も!』
「…………」
同じ時期か。
まあ、高校なんてそんなものだろう。
『じゃあ勉強しろ』
『嫌です』
『ゲーム禁止するんだろ』
『決意しただけ』
『開始5分で揺らいでるじゃん』
『だって勉強嫌い』
思わず笑う。
『進学するならやれ』
『正論で殴らないで』
『じゃあゲームする?』
『悪魔!?』
「…………」
面白い。
俺が続きを打とうとしたとき。
「朝倉、おはよ!」
顔を上げる。
陽斗だ。
「……おはよう」
「何笑ってた?」
「え」
「今スマホ見て笑ってたじゃん」
「別に」
「彼女?」
「違う」
「即答!」
「本当に違う」
「じゃあ誰?」
「……ゲームのフレンド」
「へえ」
陽斗が俺の机に手をつく。
「前に言ってたやつ?」
「言ったっけ」
「玲司とは別の人?」
「別」
「仲いいの?」
「…………」
答えに詰まる。
仲がいい。
そう言っていいのだろうか。
ほぼ毎日話している。
一緒にゲームする。
学校のことも話す。
バイトのことも知っている。
寝る前にメッセージを送ることもある。
これを仲がいいと言わなければ、何をそう呼ぶのか。
「……まあ」
「女?」
「知らない」
「知らない!?」
陽斗の声が大きくなる。
「うるさい」
「いや、だって毎日話してんだろ?」
「多分女だと思うけど」
「なんで多分なんだよ」
「VCしたことないから」
「文字だけ?」
「うん」
「すげえな」
何がすごいのか分からない。
「会ってみたいとか思わない?」
「…………」
その質問に。
なぜか指が止まった。
会う。
Yuuと。
考えたことがなかった。
「……別に」
「ふーん」
「何」
「いや?」
陽斗が妙にニヤニヤする。
「なんだよ」
「別にー?」
「うざ」
「最近ほんと俺への扱い雑になったな!」
朝からうるさい。
でも。
以前ほど嫌ではなかった。
◇
一時間目。
数学。
「――というわけで、来週から期末考査だ」
教室の空気が一気に重くなる。
「範囲はここまで。前回より広いから、早めに勉強しておけよ」
「広っ」
「無理なんだけど」
あちこちから声が上がる。
「黒瀬」
「はい?」
「特にお前」
「なんで私!?」
教室に笑いが起きる。
「前回ギリギリだっただろ」
「ギリギリでもセーフです!」
「今回はアウトにならないようにな」
「……頑張ります」
黒瀬が机に突っ伏す。
「由香、数学ほんとダメだよね」
水瀬が笑う。
「数学だけだから!」
「この前も同じこと言ってなかった?」
「英語はできるもん!」
「数学は?」
「…………敵」
「敵なんだ」
小宮山まで笑っている。
「…………」
俺は黒板へ視線を戻す。
数学が苦手。
英語は得意。
どこかで聞いた。
『英語は得意』
『数学は苦手』
「…………」
まただ。
黒瀬とYuu。
似ているところが増えていく。
高校二年。
帰宅部。
ゲーム好き。
夜型。
英語が得意。
数学が苦手。
そして最近、ゲームで相性のいい相手ができた。
「…………」
偶然。
そう思おうとして。
少しだけ引っかかる。
前よりも。
ほんの少しだけ。
◇
昼休み。
「湊」
「ん?」
玲司が俺の席へ来た。
もう下の名前で呼ばれることにも、少し慣れてきた。
「数学」
「何?」
「ここ分かる?」
ノートを見せられる。
「これは――」
「あ、俺も!」
陽斗までやってくる。
「俺そこ全然分からん」
「お前授業聞いてた?」
「聞いてた!」
「寝てたじゃん」
玲司が言う。
「あれは目を閉じて集中してた」
「寝てる」
「朝倉まで!?」
「湊」
玲司が訂正する。
「え?」
「俺は玲司なのに、陽斗は橘だから」
「そこ気にしてたの?」
「別に」
絶対面白がってる。
「なあ朝倉」
「何」
「俺も陽斗でいいって」
「…………」
「なんで黙る!?」
「いや」
下の名前。
玲司はゲームをした流れで自然にそうなった。
でも橘は。
「……陽斗」
「おお!」
「何」
「いや、呼んだ!」
「呼べって言ったのそっちだろ」
「なんか感動」
「大げさ」
「玲司! 聞いた!? 今こいつ俺のこと陽斗って!」
「聞いてた」
「うるさい」
周囲から視線を感じる。
その中に。
黒瀬たちもいた。
「なんか最近、男子三人仲良くない?」
水瀬の声。
「ね」
小宮山が頷く。
「朝倉君、前より話してるよね」
「…………」
聞こえている。
聞こえているけど。
聞こえていないふりをする。
「そうだね」
黒瀬の声。
「なんか……」
一瞬、間が空く。
「楽しそう」
「由香、朝倉君のこと見てた?」
「え!? 違う違う!」
「まだ何も言ってないけど」
「莉央!」
また始まった。
「…………」
俺は数学のノートを見る。
「ここ」
玲司が指す。
「ああ。これは――」
今はこっち。
◇
放課後。
「湊、図書室行かない?」
「……俺?」
玲司に言われる。
「テスト勉強」
「俺もいるぞ!」
陽斗が横から入ってくる。
「陽斗いるならやめようかな」
「なんで!?」
「うるさそう」
「失礼だな!」
「図書室では静かにしろよ」
「湊まで!」
「…………」
自然に。
陽斗と呼んだ。
さっきは少し抵抗があったのに。
「行く?」
玲司がもう一度聞く。
「…………」
今日はバイトがない。
Yuuもゲーム禁止と言っていた。
「一時間くらいなら」
「また一時間!」
陽斗が笑う。
「お前それ好きだな」
「うるさい」
三人で教室を出る。
そのとき。
「由香、私たちも図書室行く?」
後ろから声。
水瀬。
「行く! 数学教えて!」
「私は教えられないよ」
「琴葉ー!」
「私も数学はそこまで……」
「終わった……」
黒瀬たちも来るらしい。
「…………」
別に。
関係ない。
◇
図書室。
静かな空間。
窓に雨粒が当たっている。
俺たちは奥の四人掛けの机を使った。
俺。
陽斗。
玲司。
三人。
少し離れた席には黒瀬、水瀬、小宮山。
他にも何人かクラスメイトがいる。
「朝――湊」
「今直したな」
「慣れねえんだよ!」
「静かに」
「……ごめん」
陽斗が声を落とす。
「ここ教えて」
「どこ」
「全部」
「帰れ」
「ひどくない!?」
「静かに」
玲司。
「…………」
少し笑う。
勉強。
今まで一人でするものだった。
家か。
図書室でも、一人。
誰かと一緒に勉強した経験なんて、ほとんどない。
でも。
悪くない。
分からないところを聞かれる。
俺が教える。
玲司が別の解き方を出す。
陽斗が分からないと言う。
また説明する。
面倒なのに。
不思議と嫌ではない。
「朝倉君」
「……え?」
突然。
女子の声。
顔を上げる。
小宮山琴葉が立っていた。
「あの……」
「何?」
「これ、分かる?」
数学の問題集。
「あ……うん」
「由香が困ってて」
「…………え?」
小宮山の後ろを見る。
少し離れた席。
黒瀬由香が。
こちらを見ていた。
「…………」
目が合う。
黒瀬が気まずそうに笑う。
そして。
小さく手を合わせた。
助けて。
たぶん、そういう意味。
「…………」
どうする。
黒瀬に。
数学を教える?
「湊、教えるの上手いから」
玲司。
「そうそう」
陽斗まで。
「先生より分かりやすいぞ」
「お前は黙ってろ」
「なんで!?」
「静かに」
図書委員に注意された。
「すみません……」
陽斗が小さくなる。
小宮山が笑う。
「お願いしてもいい?」
「…………」
断る理由はない。
「うん」
問題集を受け取る。
「ありがとう」
小宮山が黒瀬たちのところへ戻る。
俺は問題を見る。
数列。
そんなに難しくない。
「…………」
数分後。
解き方を紙に書く。
説明も簡単に添える。
そして。
問題集を持って立ち上がった。
◇
数歩。
ただそれだけ。
なのに。
妙に緊張する。
「……黒瀬」
「え?」
黒瀬が顔を上げた。
まともに名前を呼んだのは。
たぶん。
初めてだ。
「これ」
「あ、ありがとう!」
問題集を渡す。
「ここで公式使って」
「うん」
「先にこれ出した方が楽」
「…………」
黒瀬が俺の書いた式を見る。
「え」
「何?」
「分かりやす」
「そう?」
「先生より分かりやすい」
「…………」
今日二回目だ。
「それ陽斗にも言われた」
「あはは!」
黒瀬が笑う。
「橘君言いそう」
「分からなかったら、ここ」
紙の途中を指す。
「これに当てはめればいいから」
「なるほど……」
黒瀬が問題を解く。
俺は横で待つ。
「…………」
「…………」
近い。
普段は数メートル離れたところからしか見ない。
同じクラスなのに。
まともに話したことがなかった。
黒瀬由香。
近くで見ると。
やっぱり綺麗な顔をしている。
……何考えてるんだ俺。
「あ」
黒瀬が顔を上げる。
「できた!」
「合ってる」
「やった」
嬉しそうに笑う。
「朝倉君、すごいね」
「別に」
「ありがとう。助かった」
「……うん」
それだけ。
俺は戻ろうとする。
「あ、朝倉君」
「何?」
「最近、橘君たちと仲いいよね」
「…………」
今日二回目だ。
「まあ……」
「ゲームするんでしょ?」
「え?」
足が止まった。
黒瀬も。
一瞬。
目を見開いた。
「あ」
「なんで知ってるの?」
「え、いや」
黒瀬が少し慌てる。
「橘君が言ってたから!」
「陽斗が?」
「そう! 藤堂君とゲームしてるって」
「…………」
なるほど。
そういうことか。
「するよ」
「やっぱり」
「黒瀬もするんだろ?」
「え」
今度は黒瀬が止まった。
「昼休み、前に聞こえた」
「あー……」
黒瀬が少し恥ずかしそうに笑う。
「する。結構」
「へえ」
「意外?」
「ちょっと」
「よく言われる」
そこで。
一瞬。
会話が途切れた。
「…………」
「…………」
何か。
妙な感覚。
黒瀬と話している。
初めてに近いのに。
どこか――。
話し方に。
引っかかる。
「朝倉君?」
「……何でもない」
「?」
「じゃ」
「うん。ありがと!」
俺は席へ戻った。
座る。
「どうした?」
玲司が聞く。
「何が」
「ぼーっとしてる」
「……別に」
問題集を開く。
でも。
頭の中に残っていた。
黒瀬の話し方。
笑い方。
ゲームをするという話。
「…………」
まさか。
いや。
違う。
◇
午後八時。
机に参考書を広げる。
今日はゲームをしない。
Yuuもテスト勉強。
俺も勉強。
「…………」
静かだ。
いつもなら。
この時間にはゲームを起動している。
Yuuがいれば誘う。
いなければ一人で始める。
でも今日は。
何もない。
シャーペンを動かす。
一問。
二問。
三問。
「…………」
スマホを見る。
通知なし。
勉強。
十分。
またスマホ。
何もない。
「集中しろよ……」
自分に言う。
数学を解く。
英語。
現代文。
午後九時十二分。
ブブッ。
「!」
反射的にスマホを取った。
Yuu。
『無理』
「…………」
笑った。
『何が』
『数学』
『勉強してたの?』
『してる』
『偉い』
『褒めて』
『偉い』
『雑!』
「…………」
俺は椅子にもたれる。
『どこ分からない』
『全部』
「…………」
今日も聞いたな、それ。
『帰れ』
『どこに!?』
思わず笑う。
陽斗と似た返し。
『冗談。どの範囲?』
『数列』
指が止まった。
「…………」
数列。
今日。
黒瀬に教えたところ。
『どうした?』
『何でもない』
『数列なら教えられる』
『ほんと!?』
『問題見ないと無理だけど』
『写真送る?』
「…………」
写真。
初めてだ。
今まで文字だけ。
画像を送り合ったことはない。
『個人情報映すなよ』
『分かってる笑』
数十秒後。
画像が届いた。
問題集の一部だけを切り取った写真。
机も。
手も。
何も映っていない。
問題だけ。
「…………」
少し残念に思った自分がいる。
何を期待したんだ。
『これ』
『ああ』
問題を見る。
そして。
俺は固まった。
「…………え?」
今日。
黒瀬が持っていた問題集。
同じ出版社。
同じデザイン。
そして――。
同じページ。
「…………」
心臓が一度。
強く鳴った。
いや。
待て。
学校指定の問題集じゃない。
全国で売られている参考書だ。
同じ高校二年生。
同じ時期。
同じ範囲。
同じ問題集を使っていたって。
おかしくは――。
「…………あるか?」
高校二年。
帰宅部。
ゲーム好き。
夜型。
英語が得意。
数学が苦手。
最近ゲームで相性のいい相手ができた。
期末テストは来週。
数列で苦戦。
そして。
同じ問題集。
「…………」
偶然。
偶然だ。
そう思うには。
少し。
重なりすぎている気がした。
『Nagi?』
Yuuから。
『分からない?』
『分かる』
俺は解き方を文章で送る。
『まずこの式使って』
『そのあとnを代入』
『あ!』
『分かった?』
『分かった!』
続けて。
『Nagi先生すごい』
「…………」
先生より分かりやすい。
昼間の黒瀬の言葉が蘇る。
「…………まさか」
俺はメッセージ欄を見つめる。
聞くか?
『Yuuってどこ住んでる?』
違う。
急すぎる。
『学校どこ?』
もっと無理だ。
なら。
『今日学校で数学やった?』
……不自然か?
消す。
『学校で数列やってる?』
これなら。
いや。
普通に問題見れば分かる。
「…………」
結局。
何も聞けなかった。
◇
午後十時。
『今日はもう寝る』
『早いな』
『勉強疲れた』
『まだ10時』
『脳が限界』
『弱い』
『数学が悪い』
『数学に謝れ』
『嫌です』
いつものYuu。
いつものやり取り。
でも。
今日は少し違って感じる。
『じゃあおやすみ』
『おやすみ』
そこで終わる。
……はずだった。
数秒後。
『あ』
『何』
『今日はゲームしなかったね』
「…………」
確かに。
フレンドになってから。
まともに話す日は、ほとんどゲームもしていた。
今日は一度も起動していない。
『そうだな』
『でも結構話したね』
「…………」
『数学だけだけど』
『それでも』
少し間。
『ゲームしなくても話すんだね、私たち』
指が止まった。
何でもない文章。
なのに。
妙に意識してしまう。
俺たちは。
ゲームをするために知り合った。
たまたまマッチングして。
相性がよくて。
フレンドになった。
だから。
ゲームをしなくなれば。
話す理由もなくなる。
そう思っていた。
でも。
今日は。
ゲームをしていない。
それでも俺は、Yuuからメッセージが来るのを待っていた。
そして。
Yuuも俺にメッセージを送ってきた。
『嫌だった?』
Yuuから。
「…………」
『別に』
打つ。
止める。
消す。
もう一度。
『楽しかった』
送った。
返事は。
少し遅かった。
『私も!』
それだけ。
なのに。
なぜか。
画面を閉じたあとも。
少しだけ胸が温かかった。
◇
翌朝。
教室へ入る。
「湊、おはよ」
「おはよう」
玲司。
「湊ー!」
「朝からうるさい」
「まだ何も言ってねえ!」
「顔がうるさい」
「ひどくない!?」
陽斗。
俺は笑いながら席へ向かう。
そして。
何となく。
黒瀬を見る。
「由香、数学やった?」
「やった!」
水瀬に聞かれている。
「珍し」
「昨日めっちゃ頑張ったから!」
「分かった?」
「うん!」
黒瀬が嬉しそうに答える。
「昨日ね――」
そこで。
黒瀬が一瞬止まった。
「……昨日?」
「いや」
黒瀬が笑う。
「自力で頑張った!」
「怪しい」
「何が!?」
「なんか今隠したでしょ」
「隠してないって!」
「…………」
俺は黒瀬を見る。
昨日。
Yuuは数列が分からないと言った。
俺が教えた。
そして今日。
黒瀬は数列が分かるようになったと言っている。
「…………」
偶然。
また。
偶然。
黒瀬がふと顔を上げる。
目が合った。
「…………」
「…………」
今度は。
俺からすぐには逸らさなかった。
黒瀬も。
ほんの一瞬だけ。
不思議そうな顔をした。
そして。
「……おはよう、朝倉君」
「…………え」
初めて。
黒瀬から挨拶された。
「あ……」
一瞬遅れて。
「おはよう」
返す。
それだけ。
黒瀬は水瀬たちとの会話に戻る。
俺も席に座る。
「…………」
スマホを取り出す。
昨夜のメッセージが残っている。
『ゲームしなくても話すんだね、私たち』
『楽しかった』
『私も!』
そして。
少し離れたところには。
黒瀬由香。
「…………まさかな」
また。
同じ言葉を呟く。
でも。
以前と違うことが一つだけあった。
前までは。
そんなわけがない。
そう思っていた。
今は。
ほんの少しだけ。
もしかしたら。
そんな考えが。
俺の中に生まれ始めていた。




